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舞妓さんと歩く都街  作者: 橘樹 啓人
第二章 祇園祭
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七夕の大阪遭難譚

 木曜日と金曜日に期末試験が行われた。そして七月七日、土曜日。まだ月曜日からの二日間の試験が残っていて精神的余裕がなかったが、佑暉は朱音との約束を遂行するため、京都駅に来た。午後九時五十分。七条出口から外に出ると、視界の右上に京都タワーが見えた。


 タワーの前まで行き、朱音を探したが見つからない。土曜日とあって駅周辺は混雑し、中には外国人観光客らしき家族連れの欧米人の姿もある。佑暉は塩小路通に沿ってうろうろしていると、背後から声がかけられた。


「河口、こっち」


 振り向くと、私服姿の朱音が立っている。麦藁素材の帽子を被り、白いワンピースを身にまとった姿は、普段の彼女からは想像もつかないほどに華奢であった。どちらかと言うと、おとなしい性格に見える。


 佑暉は朱音のところに駆け寄った。


「諏訪さん、こんにちは」


「じゃあ、行こ」


 朱音は愛想なく言うと、踵を返して歩き出した。佑暉はそれを見て内心うんざりしたが、今は唯々諾々とついていくことにした。


 ただ、佑暉はまだ彼女の行こうとしている場所を聞いていなかった。


「どこに……行くの?」


 佑暉が尋ねると朱音は振り向かず、端的に答える。


「大阪」


「何しに行くの?」


 その質問は無視された。無言で歩く朱音の少し後ろを歩きながら、佑暉もこれ以上は黙っておくことにした。彼女が不機嫌になればなるほど、今日の外出が最悪なものになるという危懼があったからだ。


 電車に乗って以降も朱音が何かを喋ることはなかった。佑暉はその沈黙に重苦しさを覚え、それから逃れるように窓の外に目線を移した。大阪を構成しているビル群が、風のように忙しなく流れていく。その間も佑暉の脳内を支配していたのは、朱音はこれから何をしに行こうとしているのだろうかという懐疑の気持ちであった。それは少しずつ不安へと変貌を遂げた。


 佑暉の不安が破裂寸前にまで膨らもうとしたその時、


「あたしの実家、大阪」


 という朱音の声が突然、彼の耳に入った。外の風景を見ていた佑暉は、恐る恐る朱音に視線を戻す。彼女は電車の扉にもたれかかり、じっと佑暉を見つめている。


「親が離婚したから、今年からお父さんの実家に住んでる」


 朱音は流れゆく景色を横目に淡々と話した。だが、何故それを自分に話してくれるのか佑暉には皆目見当がつかなかった。


「どうして、それを僕に?」


「なんとなく話してみただけ」


 朱音は目を伏せながら答えた。


「お母さんは大阪にいるの?」


 躊躇いつつも気になった佑暉はきくと、朱音は小さく頷いた。この時、佑暉の中である感情が芽生えた。


 ――彼女は、僕に似ているかもしれない。


 佑暉の母親も、彼が幼少の頃に家を出ている。ゆえに、心の中で自分と朱音をリンクさせたのだ。次に、佑暉は彼女の発言を思い返し、ある推論を立てた。


「もしかして、これから会いにいこうとしてるの?」


「それは違う」


 佑暉が最後まで問い終わる前に、朱音は即座に否定する。


「たまに大阪に買い物しに行くってだけの話。馴れたところで買った方がいいし、そっちの方がなんか落ち着くから」


 これを聞いて佑暉は大体を理解したが、一つだけまだ腑に落ちないことがあった。


「あの、諏訪さん……?」


「何?」


「ずっとききたかったんだけど、どうして僕を誘ったの?」


「たまには誰かと行きたいって思っただけ。いつも一人やから」


「それなら、他の人でも良かったと思うけど。ほら、いつも教室に遊びに来てる子とか」


「あの子、学校辞めたもん」


「えっ……?」


 佑暉は絶句しかけた。


「これから舞妓修行に専念するからって言ってた」


 イツキは学業と舞妓としての活動を両立させるため、自ら退学の道を選んだという。しかしそれで佑暉の疑問が解決したわけではない。


「でも、どうして僕に……?」


「一番暇そうやったし、ちょうどいいかなって」


 朱音の返答に佑暉は憤慨した。試験期間中にそんな理由で呼び出されたのか思うと、何やら馬鹿馬鹿しくなる。一言言ってやろうと、佑暉は朱音に半歩前近づいた。


「暇じゃないよ。期末テストもあと二日残ってるし、君も――」


「べつに勉強せんでもそこそこの点取れるし、正味」


 佑暉が言い終わらないうちに、朱音の声が重なった。


 顔色一つ変えずに言う朱音を見て、佑暉は何も言い返せなかった。朱音は自分を基準に物事を判断する癖でもあるのだろうか、佑暉は再び車窓に視線を移し、


「僕は、勉強しないといけないから……」


 それ以降、二人が乗車中に言葉を交わすことはなかった。もはや佑暉には彼女と話す気概すら保てなかったのだ。


 二人は新大阪駅で降りた。佑暉はその後も無言で朱音の後ろを歩いた。来なければ良かったと後悔していたが、すでに手遅れであった。ここまで来たら勝手に帰るわけにもいかず、彼女に従うしかない。つまり、一人で帰れる自信がなかったのだ。



 朱音は量販店へ行き、そこの洋服屋で買う服を選んでいた。佑暉は店の前で朱音が出てくるのを待った。女性専門店らしく、店内には女性の客しかいない。佑暉は目の前を通る人からの視線を度々感じ、額に変な汗をかいていることを自覚し、徐々に居場所を失っていった。


 その時、店の中から朱音が佑暉を呼んだ。振り返ると、朱音が彼に手招きしている。佑暉が急いでそこに行くと、朱音は二着の洋服を彼に見せた。


「どっちがいいと思う?」


 と朱音が問うので、佑暉は首を傾げた。


「君の好きな方を選べばいいと思うけど……」


 戸惑いながらそう返したところ、朱音は不機嫌そうな顔で舌打ちする。佑暉はそんな彼女の態度を見て怒り心頭に発したが、ぐっと堪え、適当な方を無言で指さした。


 次に入った店でも同じような質問をされたが、佑暉は無視した。朱音から何をきかれても答えないのがベストだと学習したのだ。


 こうして二時間余り、佑暉は朱音の自由奔放なショッピングに付き合わされたのであった。



 昼、喫茶店に入って食事したが、会話は弾まなかった。窓側の席で向かい合い、佑暉は朱音に話しかけてみるが、彼女は微妙な反応を示すばかりである。


 朱音は面倒そうに軽く相槌を打つだけで、窓外のバス通りを眺めながら昼食のパスタを食べている。しかし佑暉には一つ気がかりなことがあった。京都から大阪に来る途中、電車内で聞いた朱音の話だ。


「君のお母さん、今も大阪に住んでるんだよね」


「それが何か?」


「うん。せっかくここまで来たんだし、会いにいってみたらどうかな」


「なんでそんなこと、あんたに言われなあかんの?」


 佑暉は返答に迷った。だが、佑暉は電車であの話を聞かされた時、理由は少し違うけれども、自分と彼女を重ねてしまった。だから、関わりたいという感情が発作的に疼いたのだ。


「他人が口を挟むべきことじゃないのは分かってるけど、本当はお母さんに会いたいんじゃないかって気がしたから」


 佑暉が言っても、朱音は黙然としていた。佑暉もうまく言葉を継げず、それきり黙してしまった。


 会計を済ます際、朱音が洋服を買いすぎたせいで、彼女の分まで佑暉が支払う羽目になってしまった。肩を落としながら喫茶店を出た佑暉は、来たことを改めて後悔するのだった。


 両手に荷物を下げた朱音は佑暉の方を向き、


「じゃあ、これであたし帰るから」


 とだけ言うと、歩き始めた。佑暉は咄嗟に「待って」と、彼女を呼び止める。


「本当にいいの?」


 朱音は振り返って、「何が?」ときき返す。


「その……さっきのことなんだけど……」


「さっきって? あれ? お母さんの話? いいよ、向こうも今更会いたいとか思ってないと思うし」


「どうして、そう思うの?」


「なんとなく」


 朱音は再び前を向くと、スタスタと歩いていってしまった。佑暉はその後ろ姿を目で見送りながら、彼女のことを不憫に思った。あれは朱音の本心じゃない、という気を催したが、彼女にきかなければ実際のところは分からない。


 佑暉は気を取り直し、自分も駅を目指そうと足を踏み出した。その時、ふとあることに気づく。……帰り道が分からない。


 もう一度前に目を向けるが、朱音の姿はもうどこにもない。周囲を見渡しても見たことのないビルが並んでいるだけで、ここまでどのように来たのかも曖昧であった。三ヶ月を京都で過ごして慣れているとはいえ、大阪に来るのはこれが初めてである。右も左も分からない場所に置き去りにされた佑暉は路頭に迷い、ぐるぐると目が回る心境に陥った。彼の周りを包囲しているビル群を見上げるだけでも、軽く目眩を覚える。


 結局、スマートフォンのマップアプリを活用し、それを頼りに新大阪まで歩いた。それでも何度か迷いながら、無事に駅まで辿り着いた。そして京都方面の電車に乗り、京都駅に着いた時の彼の携帯のバッテリー残量は、僅か五パーセントほどであった。


 京都駅で待ち合わせをしたのだから、解散も同じ駅にするべきだ。そういう不満をぶつけるべきところもなく、佑暉は苛々した気持ちのまま帰った。朱音に文句を言いたかったが、バッテリーはもう殆ど残っていない。加えて、仮に残っていたとしても、佑暉は朱音の番号を一切知らなかった。


 午後四時過ぎ、佑暉が旅館の戸を開けると、奥から正美が走って出てきた。


「あら、今日はどこ行ってたの?」


「あ、はい。ちょっと東寺まで」


「今日は一人で? 道、分かった?」


「はい」


 不本意にも嘘をついてしまったことに罪悪感を覚えつつ、事実を教えるとまた心配をかけてしまうと思い、佑暉は言わなかった。


 誰にぶつけることもできないこの鬱憤を、佑暉は持て余していた。これから残された試験に向けて勉強しなくてはならないのに、蟠りによって集中できない。翌日が日曜日であることが佑暉にとっては唯一の僥倖だったのかもしれない。



 翌日、佑暉は一日中を試験勉強に費やした。夕方、旅館の手伝いもしようかと思案したが、正美から「今日は勉強を優先するように」と言われたため、その言葉に甘えることにしたのだった。

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