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舞妓さんと歩く都街  作者: 橘樹 啓人
第二章 祇園祭
19/62

傍若無人な女に振り回される男

 朝、佑暉は重い瞼をこすりながら寝室を出た。昨晩は試験前だということも失念し、夕食後も黙々とパソコンに向かって調べ物をしていた。誰かに強要されたというわけではない、自分でそうしたのだ。それゆえ、自業自得だと言われれば弁明の余地もない。


 佑暉は瞼に軽い痛みを感じながら学校へ行く支度を済ませると、正美に「行ってきます」と声をかけてから戸を開けた。


 すると、正美が彼を呼び止めた。


「あ、ちょっとごめん!」


 佑暉は振り向くと、奥から正美が慌てた様子で駆け出てきた。


「彩香、お弁当置いといたのに、忘れていきやってんよ。ごめんやけど、渡してくれる?」


 正美はそう話しながら、佑暉に彩香の弁当袋を渡す。佑暉は快くそれを受け取ると、


「分かりました」


「ごめんな、そそっかしい子で」


 申し訳なさそうに謝る正美に、佑暉は笑顔で返した。


「いえ、大丈夫です。彩香さんのクラスは知っていますから」


 早いうちに届けた方が良いと思い、佑暉は学校に着くと迷わず彩香の教室に向かった。


 教室の扉は開いていた。彩香が部活の朝練習から戻ってきているかは不明瞭だったが、佑暉は廊下から中の様子をうかがった。殆どの生徒が登校した後のようで、室内は賑やかであったが、彩香の姿を認めるには至らなかった。しかし他クラス、ひいては上級生のクラスに入る機会など、彼の経験上、皆無に等しかった。佑暉は逡巡し、その場に立ち尽くしていると、教室から出てきた一人の男子生徒が彼に目を留めた。


「どうしたん? 何か用か?」


 少し戸惑ったように、佑暉に尋ねる。


「あの、彩香さ……二松先輩はいますか?」


 男子生徒は佑暉の話を聞くと、少し怪訝そうな顔で彼を見つめ返したが、振り返って彩香を呼んだ。


「おい、二松〜。誰か呼んでるで〜」


 男子生徒は去っていき、教室から彩香が出てきた。


「あれ、どうしたん?」


 彩香がきくと、佑暉はおどおどした調子で正美から預かった弁当袋を渡した。


「あの……これ、忘れ物です。女将さんから……」


「あっ! ありがとう!」


 彩香は笑顔で弁当袋を受け取った。


「じゃ、じゃあ僕はこれで……」


 佑暉は早々に立ち去ろうとしたが、その様子を見ていたのか、男女が二、三人彩香の周りに集まってきたのだ。


「なあ、二松。これ、お前の弟?」


「彩香、弟おったっけ?」


 それを聞きつけてさらに一人、二人と生徒が寄ってくる。


「え、何々? 弟?」


「一年生?」


 五、六人の生徒に囲まれ、佑暉は身動きがとれなくなってしまった。こんなに注目されるなど予期していなかった彼は、生きた心地すら感じず、朦朧とした。それに追い打ちをかけるかのごとく彩香が言う。


「違うって。一緒に住んでるだけ」


 誤解を招くような言動に、周りの生徒たちは声を上げる。


「え、嘘? どんな関係なん?」


 佑暉はさらに全身に熱がこもるのを覚えた。


「なんかな、色々あったみたいで四月からうちで面倒見てるんよ。この子のお父さんとうちのオカンが知り合いみたいでさ」


 ようやく彩香が弁明し、生徒たちの誤解は解けたように思われた。


「なんや、びっくりした」


「変な言い方すんなや」


 だが、佑暉には限界だった。自分の教室に戻ろうと背を向けた彼に、後ろから彩香のクラスメイトたちは声をかける。


「バイバイ」


「また来てな〜」


 佑暉には振り返る気力もなく、逃げ去るように早足で帰った。あんな恥ずかしさを味わったのはいつ以来だろうか。今まであまり目立たないようにしてきたのもあり、今日のような出来事は稀であった。仕方なく、佑暉は「今日は厄日なのだ」と自分に言い聞かせた。



 教室の席に着いて数分もすると、少し落ち着きを取り戻す。それから、佑暉は窓の外の景色を見つめていた。その時、頭に何か尖ったものが当たったような感覚が走った。次いで、足にも僅かな感触が加えられる。


 何だろう、と机の下を覗いてみると、足許に消しゴムが転がっていた。どこから飛んできたのかと考えながら、佑暉はそれを拾い上げる。それと同時に、隣の席からある視線を感じた。佑暉が顔を上げると、朱音と目が合う。


 この瞬間、消しゴムを投げてきたのは朱音だろう、と佑暉は否応なく悟った。


「あげる」


 朱音は沈着な口調で言った。


 しかし、何故自分にくれたのか佑暉には分からなかった。


「どうして?」


「新しいの買ったから」


 朱音はにべもなく答えると、前を向いてしまった。佑暉は朱音のその行動の真意が読めず、手の中にある消しゴムを見つめた。


 よく見てみると、カバーが少し擦れてはいるものの、まだまだ使えそうなものだった。佑暉は、親指で消しゴムをカバーから押し出した。


「ん?」


 本体に文字のようなものが書かれている。それがカバーの隙間から覗いていた。気になった佑暉はさらに本体を引っ張り、カバーを外した。


 消しゴムにはこんなメモ書きがあった。


『七月七日、京都駅七条口前集合』


 再び隣を見やると、朱音が一限目の授業の用意をしている。


「諏訪さん?」


 佑暉は朱音に呼びかけると、彼女は不機嫌な顔で「何?」と返した。


「これ、諏訪さんが書いたの?」


 佑暉は、文字が書かれた面が表になるように消しゴムを掌に乗せ、それを朱音に見せた。


「河口。その日、空いてる?」


 朱音の問いに佑暉は頷いた。


「テスト期間中だから勉強しようと思ってるけど、それ以外は何も予定はないかな」


「じゃあ、朝十時に京都タワーの前に来て」


 朱音はそれだけを言うと、立ち上がって佑暉が呼び止める間もなく教室を出ていった。残された佑暉は、朱音がどこに行こうとしているのかが分からず、悶々と考えていた。そして何故誘われたのかも、彼の疑問を一層深めた。


 朱音は数分で戻ってきた。ホームルーム開始時刻が押し迫り、教室の中は騒がしい。佑暉はせめて目的だけでも聞いておこうと、体を彼女の方に向ける。


「諏訪さん」


「何?」


 朱音が佑暉の方を振り向かずにきき返す。その口調は相変わらず、不機嫌そのものといったような印象を与える。朱音が怒っている原因は自分にあるのかもしれないと危惧した佑暉は、思い当たる節はないかと考えを巡らせたが、特に何も思い浮かばなかった。


「もしかして、怒ってる?」


「怒ってへんけど」


 朱音の態度の冷たさは、日に日に増してきているように佑暉には思われた。これ以上は無駄だと察知した佑暉は、諦めて体の向きを正す。


「それで、さっき何て言おうとしてたん?」


 不意に、朱音の声が耳に入る。右を向くと、朱音が彼を見ていた。


 佑暉は先程浮かんだ疑問を順に尋ねようとしたが、上手く言葉が出てこない。朱音の様子を見ているうち、きいてはいけないことのように思えてきたのだ。


 佑暉が言いあぐねているうちに、予鈴が鳴る。席を立って立ち話などをしていた生徒も皆、自分の席に着く。それと時を同じくして担任が入室してくると、佑暉もやむを得ず授業の準備に移った。



 一限目が終了しても、佑暉はまだ迷っていた。朱音に対する不安や疑問だけが、根強く頭に残り、彼の心をもやもやさせていた。生徒同士の話し声さえも今は何も耳に入ってこない。ついには何も言い出せないまま、気がつくと六限目までが終了していた。


 明日からは期末試験が始まる。佑暉は茶屋には寄り道せず、真っ直ぐに帰宅した。サキにも試験前だということは、何度か伝えている。


 帰宅した佑暉は、鞄から教科書とノートを取り出し、早急にテスト勉強を開始した。土曜日までは今日のことは考えないようにしよう、と佑暉は決心し、ひたすらノートに問題を書き写していた。

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