円山公園
四条通を抜けると、正面に八坂神社が見えた。神社の参道へ続く石段を上り、参道を抜けると鳥居があり、そこをくぐると並木道に出た。さらにしばらく直進すると、右手に倉庫らしき建物が見えた。だが、ここには何が仕舞ってあるのだろう、などと考える余裕が佑暉にあろうはずもない。
サキは佑暉の手をしっかりと握ったまま、彼の前を歩いている。すれ違う人々の目が気になり始め、さすがに気まずさを覚えた佑暉は、彼女の足許に視線を落とした。それでも、サキはしっかりとした足取りで進んでいた。
その手を振り解こうかと佑暉が迷っていると、
「着いたよ」
という声とともに、彼女の足は止まった。
佑暉は顔を上げると、目の前に枝垂れ桜があった。木の後ろには池があり、石橋が架かっている。桜の花はすべて落ち、枝からは若葉が出ているが、横綱のようにどっしりと構えているその姿には不思議と威厳があった。佑暉が呆然とその木に見とれていると、ようやくサキが彼の手を離し、そして振り返った。
「まだ四月の後半に入ったばかりだから、まだ咲いてるかもって思ったんだけど、やっぱり全部散っちゃってるね」
サキが小さく笑うと、佑暉もそれを見て我に返る。すると、ふと彼女に質問したいことがあったのを思い出した。
「君はいつもあそこで踊っているの?」
しかし、彼女は首を振った。
「ううん、基本は平日の夕方だけ。私、踊りが下手だから、あのお茶屋さんでお稽古させていただいてるの」
佑暉はこの時、サキが標準語で話していることに初めて気づいた。少し緊張が和らぎ、段々と思考が追いついているのだろうと思われたが、それよりも佑暉は今最も気になっていることを先に尋ねることにした。
「あれがお稽古なの?」
佑暉には少し信じ難かった。サキの踊りは優美で美しく、見た者を惹き込む力を宿しているといっても過言ではない、と信じていたからだ。
「そんなことないよ。君の踊り……」
「どう?」
サキは彼の言葉を遮り、木の方を振り向く。
「……って言っても、咲いてないと意味ないよね。ごめんね、君に見せたかったんだけど、時期が悪かったみたい。この時期でも咲いてる年もあるから期待したんだけど、駄目だった」
彼女はそう言うと、桜の木の傍にある石製のベンチに座った。サキは黙って立っている佑暉に手招きし、隣のスペースに片手をついた。座れと言っているのだと理解した佑暉は、少し気恥ずかしくなりながらも、サキと目を合わさないように彼女の隣に腰を下ろす。
日も暮れかかって外は薄暗くなってきているが、多くの人が二人の前を通った。帰宅途中で一服しているサラリーマン、部活帰りと思われる中高生、外国人旅行者など様々であった。
それらを眺めていた佑暉は、ふと「ふたまつ」のことを思い出した。今頃、正美たちは宿泊客の接待に追われているだろう。彩香や夏葉も帰ってきて、正美を手伝っているだろう。そんなことが脳裏を過ぎり、段々と心配になってきた佑暉は「そろそろ帰らなければならない」とサキに伝えようとしたところ、彼女と目が合った。
サキは、申し訳なさそうな顔で佑暉を見つめている。
「ごめんね、一方的に連れてきちゃって。もしかして、嫌だった?」
「そ、そんなことないよ。最初は、ちょっと驚いたけど」
緊張からか、吃りながら佑暉は答えた。それを見たサキは、微笑ましそうに笑う。
「そうだよね。あ、そうだ、まだ名前を聞いてなかったね。何ていうの?」
「か、河口佑暉です」
何故、敬語で答えてしまったのか、佑暉にも分からなかった。それに対しても、彼女は微笑んだ。また恥ずかしさを覚えた佑暉は、
「あの……サキさんだったよね、君の名前」
「あ、サキでいいよ。もしかして高校生? じゃあ、私の方が敬語使わなきゃいけないね」
そう言って、彼女は無邪気な視線を佑暉に送る。
「大丈夫だよ。えっ……と、サキちゃん?」
「ちゃんもつけなくていいかな。何だか、そっちの方が恥ずかしい。普通に、サキって呼んでくれたらいいから」
佑暉は困惑した。かつて、あまり他人を呼び捨てにしたことがなかったのだ。少しの罪悪感を覚えつつも、勇気を出して彼女の名前を呼んでみた。
「……サキ」
「何?」
「あっ、いや……その……」
予期せぬ答えが返ってきたので、佑暉はたじたじになった。それを見たサキは、面白そうに口許を緩める。いつの間にか公園にいた人々の姿は減り、閑散としていた。
サキは前を見つめたまま、さり気なく本題に入る。
「ここの桜、満開だとすごくきれいなんだよ。ほんとは君にも見せたかったんだけどなぁ……来年まで持ち越しみたい」
「一つききたいんだけど、どうしてそれを僕に?」
「昨日、言ってたよね。こっちに来たばかりで、周りに馴染めてないって。違ってたら悪いんだけど、それってつまり、孤独ってことだよね?」
佑暉は「うん」とゆっくり頷いた。否定する理由もない。
「この枝垂れ桜も、ここに一本だけ立ってるんだよ。でも、毎年美しい花を咲かせてる。それが目当てで、写真を撮りに来る人だっているの。だから、今は一人でも、ちゃんと見てくれる人がいるんだって、今日はそれを伝えたくて」
サキはそう言った後、俯いて少しぼんやりしたような表情を浮かべる。それを見ながら、佑暉は彼女に感謝の気持ちを述べた。
「ありがとう」
「……え?」
サキは顔を上げると、不思議そうに彼を見る。そして、佑暉は言葉を継いだ。
「確かに、僕はこれまで周りの人と全然馴染めなかったけど、君の言葉で元気が出たよ。こんなこと言ってくれたの、お父さんくらいだったから」
「君のお父さんも今、京都にいるの?」
サキに問われたので、佑暉は静かに首を横に振った。
「東京にいるんだ。前に働いてた会社が急に倒産しちゃって、今は新しい会社で働いてる。僕だけ、お父さんの知り合いの人がやってる旅館に居候することになったんだ」
「離れ離れで、寂しくない?」
「勿論、寂しいって気持ちはあるよ。でも、何を言っても仕方ないって分かってるから。お父さんがその旅館の人に頼んでくれて、その人も快く受け入れてくれた。そのことにすごく感謝してるし、実は恵まれてたんだって初めて分かった気がする。だから、もっと強くならなくちゃいけないんだ。……僕も誰かの役に立ちたいから」
上空には、月が出ていた。殆ど満月のそれは白く輝いている。佑暉がそれを見上げていると、隣から鼻をすする音が聞こえた。まさかと思い、佑暉はサキの方を見た。案の定、サキが下を向きながら微量の涙を流している。
「……どうしたの?」
佑暉はどうして良いか分からず、彼女にきいた。何故、彼女が泣いているのか理解できず、あたふたとしてしまう。次に、こんな言葉をかける。
「ごめん、何か君に悪いことでも言っちゃったかな」
「…………」
何のいらえも返さないサキを前に、佑暉はどうしようと頭を悩ませた。すると突然、サキは声を出して笑い出した。
佑暉は、先程からの彼女の行動を理解するのに四苦八苦した。サキは笑いをなんとか引っ込めると、顔を彼に向けてこう言った。
「ごめんごめん。なんか、お返しされちゃった」
「お返し?」
「お父さんの話。頑張ってるんだなあって思って。私にも、そんな家族がいたんだ。お母さんだけど。踊りもお母さんが教えてくれたの。東京出身だったけど京言葉が上手で、舞妓修行も許可してくれた。だから、いつか恩返しがしたいって思ってた」
その話を聞いて、佑暉はサキが何故京都弁ではなく、標準語なのかを知った。
「できるといいね」
佑暉は笑顔でそう返したが、サキの顔は物憂げな表情に変わった。佑暉はまた、何か余計なことを言ってしまったのかと焦った。しかし、次に彼女から発された言葉は、そんな彼の想像を遥かに超越するものであった。
「私のお母さんは、もういないんだ。少し前にね、病気で亡くなっちゃったから」
サキは、月を仰ぎながら呟くように話した。佑暉は、彼女の顔を見ると後悔した。
「……ごめん、余計なこと思い出させちゃって」
「いいよ。ねえ、佑暉君のお母さんは?」
「僕がまだ小さい頃、両親が離婚したからよく覚えてないんだ」
「そうなんだ……。会いたい?」
「そうだね、会いたいって思う時もあるよ」
「きっと会えるよ」
サキがそう言うので、佑暉は不思議そうに彼女を見た。
「どうしてそう思うの?」
佑暉が尋ねると、彼女は笑った。それを見て佑暉も苦笑いで返すが、含蓄のある彼女の表情がどうも気になった。もう一度問い質そうかと思った時、サキが不意に話題を変えた。
「君は、まだ京都観光したことないの?」
唐突にそんな質問をされて戸惑ったが、佑暉は答えた。
「機会があったら行こうと思ってるんだけど……」
「でも、それだとなかなか行けないよ? どこか行ってみたい場所とかないの?」
「そうだなぁ……」
佑暉は頭を捻っていると、不意に「ふたまつ」の浴場の壁に東寺の五重塔が描かれているのを思い出した。
「そういえば、今お世話になってる旅館のお風呂に、五重塔が描かれてるんだ。東寺っていうお寺のものらしいんだけど、いつか本物を見てみたい……かな」
「じゃあ今度、一緒に行こうよ。私のお稽古が休みの日に」
「いいの?」
「うん。東寺だったら京都駅から一駅だし」
サキは、満面の笑みで言った。その様子は、まるで春風に揺られた桜のようだった。佑暉も、そんな彼女を見て安堵した。
サキはゆっくり立ち上がり、
「今日は、付き合わせてごめんね」
と、佑暉の方を振り返る。この時、佑暉は彼女の背後で桜の花弁が無数に舞っているように錯覚した。そして咄嗟に佑暉も立ち上がると、彼女と向き合う。
「僕も、楽しかったよ」
佑暉が告げると、サキも嬉しそうに微笑み、彼の右手を両手で握った。佑暉からは、先程のような動揺は消えていた。
帰路に着いた佑暉は、自分の右手を見つめた。それには、まだ僅かに彼女の手のぬくもりが残っていた。




