祇園茶屋
入学式の日から一週間が経った。佑暉は寝惚け眼をこすりながら登校し、教室の後ろの戸を開けて席に着いた。同じクラスにいる殆どの生徒は、新しい友人たちと楽しげに談笑している。後ろの席から佑暉もそれを見ているが、やはり彼に話しかける者はいない。
聞こえてくるのは、佑暉にとっては聞きなれない言葉、つまり関西弁と呼ばれる近畿地方の言葉だ。佑暉は東京で生まれ育ったため、標準語しか話せない。京都出身である父も、彼の前では常に標準語で話していた。そのこともあり、佑暉はますます皆との距離が開いていくのを実感した。
その時、右の席から女子の声がした。
「なぁ、今日の一限って教室移動やっけ」
きっと友達に話しかけているのだろう。そう思った佑暉は、ただ窓の向こうを眺めていた。そうしていると、次にこんな言葉が聞こえた。
「あれ、無視ですか?」
佑暉は驚いて右を振り見る。案の定、隣の席の女子が彼を見つめていた。
「あ……えっと、もしかして僕に話しかけていたの?」
「そうやけど?」
彼女は少し呆れ顔で言った。
佑暉の隣の女子生徒、諏訪朱音は髪を項のあたりで一つに括り、右肩から胸元にかけて流している。彼女も佑暉と同様、一人で席に座っていた。
このまま自分は、誰の気にも留められずに高校生活を過ごさなければならないのだろうかと考えていた矢先であったから、佑暉は軽い戸惑いを覚えた。そんな彼の顔を、朱音はじっと覗き込むように見る。佑暉は恥ずかしくなって、彼女から視線をそらした。
「自分、関東出身なん?」
突然、そう尋ねられる。朱音は佑暉の発音を聞いて、関西人ではないと理解したらしい。佑暉は小さく頷き、彼女に事情を話した。それは、話しかけてくれたことに対する嬉しさからくる行為だったのかもしれない。悩みを話すことで、彼女と仲良くなることを期待したのだ。
「ついこの間まで東京に住んでたんだけど、突然、お父さんの会社が倒産しちゃって。新しい会社の収入だけじゃ二人で一緒に生活できないから、お父さんの知り合いが経営してる旅館に行くことになったんだ。最初は不安だったけど、その人も家族もいい人たちだったから……」
話しているうちに気恥ずかしくなり、佑暉は照れたように頭をかいた。他人にする話ではなかったかもしれない、と後になって思った。
しかし、朱音は彼の話に対し、軽く相槌を打つ程度の反応を示すだけだった。
「へえ、大変やなあ」
その冷たい反応を見ると、佑暉は腹が立った。言い返しそうになったが、朱音にそんな経験はないのだろうと思った佑暉は、泣く泣く言葉を飲み込んだ。
それから程なくして予鈴が鳴り、ホームルームが始まった。それ以降、朱音は佑暉に話しかけなかった。
授業が終わると、佑暉は学校を出ると茶屋へ向かった。しかし、この日はいつもとは違った。どこを見渡しても、あの舞妓の姿がなかったのだ。中にいるのは、いつも三味線を弾いている芸者だけであった。
佑暉は、あの舞妓と目が合ったことを鮮明に覚えている。
今日は来ていないのだろうか? と不思議に思った彼は外から中を覗いていると、後ろから高い声がかかった。
「ちょっと、そこで何してはるの?」
その声に驚いて佑暉が振り返ると、そこに一人の舞妓が立っていた。それが、いつも舞台で舞を踊っている舞妓でないことは確かだった。その舞妓は、睨むように佑暉を見つめる。
「ここは、一見さんはお断りしておりますのや。お得意さんの紹介がないと入れません」
「す、すみません!」
佑暉はその舞妓のきつい口振りに気圧され、咄嗟に頭を下げた。彼女は他にも何か言いたげな様子だったが、茶屋にいた客に呼ばれ、返事をして中に入っていった。この時、佑暉は舞妓の言葉の意図を理解した。
よく知らぬ街に来て、よく知らぬ人々の中で生活する苦悩の中、せっかく心の居場所を見つけた気がしたというのに、それも一週間余りで終わってしまった。また明日から学校に行って帰るだけの生活になってしまう。
別段、学校が嫌だというわけではないが、自分から話しかけない限り、誰かとコミュニケーションをとるということはない。教室の隅で一人過ごすだけの息苦しい日々が、リフレインのようにただ繰り返されるのかと思うと、足が重く感じられて帰ることをも躊躇ってしまう。
すると彼の背中に、
「あの、すみません」
という、細くてきれいな声がかけられた。どこかで聞いたことのある声に佑暉も反応し、振り返ると中学生くらいの少女がこちらを見て立っていた。制服を着て、髪は肩の上でバッサリと短く切り揃えられている。その両手には、上等そうな紺色の布を抱えていた。
彼女は、ただじっと佑暉の顔を見つめている。佑暉は、この少女もこの茶屋に用があるのだろうかと思い、
「あ、ごめん。邪魔……だったかな」
と言って、彼女から離れようとした。すると、「待ってください」と彼女は呼び止めた。
「近頃、よく見に来てくれる人ですよね。舞台から、ずっと見えてましたから」
もしや、と思った佑暉は改めて彼女の顔を見る。
「ひょっとして……あの時の……?」
「はい」
彼女も笑って頷いた。あの時、目が合った舞妓が彼女だったのだ。
だが、佑暉は彼女の容姿を見て不可解に思った。一般的には、芸妓が鬘を付けるのに対し、舞妓は自髪で日本髪を結って簪を挿すのだ。慎二が買ってきた雑誌にそう書かれていたのを、佑暉は思い出した。しかし彼女の髪は極端に短いため、日本髪を結うのは不可能ではないかと彼は感じるのだった。それならば、彼女は舞妓ではなく芸妓なのだろうか。
そう思った佑暉は、失礼だとは思いつつも好奇心に任せて彼女に尋ねた。
「君、歳はいくつ?」
「つい先日、中学三年になりました」
彼女は嫌な顔一つ見せずに、彼の質問に答えた。
やはり、佑暉の予想は当たっていた。しかしそうなると、殊更不思議であった。雑誌の中には、現在の舞妓は中学校を卒業しないと芸妓にはなれない、とも書かれてあったからだ。そのような矛盾が、佑暉の首を傾げさせた。
「じゃあ私、これからお稽古なので失礼しますね」
「ま、待って!」
中に入ろうとする彼女を、今度は佑暉が引き止める。
「君は……舞妓なの?」
「はい、そうです」
「でも、舞妓さんって普通は自分の髪を結うんだよね?」
もしかしたら自分の知識が間違っているのかもしれない、と佑暉は自信なさげに言ったが、彼女は笑顔を見せた。
「よう知ってはりますね。その通りでございます。でも、私は長い髪が苦手なので姐さんたちにお願いして、切らせてもろたんどす」
突然、彼女は丁寧な京言葉を披露した。
「姐さん」というのは、先輩に当たる芸妓のことだと、佑暉も調べて知った覚えがあった。
「そうなんだ、ありがとう」
納得した佑暉は礼を言って旅館に帰ろうとすると、またそれを彼女が呼び止めた。
「あの、どうかしはったんどすか」
「え、何のこと?」
佑暉が反問すると、彼女は答えた。
「いえ。少し、寂しそうに見えましたもので」
自分では気づかないうちに顔に出ていたのだと、佑暉はその時に初めて自覚した。はっきりとは言われなかったものの、「もう来てはいけない」と示唆されてしまった。明日からはまた別の楽しみを探さなければならない。
「もし良かったら、理由を聞かせてもろてもよろしょおすか」
彼女はただ、佑暉の顔をじっと見つめている。その目は興味があるというより、彼の役に立ちたいと訴えているようにも見えた。
「……実は、先月東京からここへ来たばかりなんだ。だから、まだ京都のことはよく分からなくて。学校のみんなとも、まだ全然馴染めてないんだ。でも、前から京都には興味があって、ずっと本物の舞妓さんを見るのが夢だったんだよ。だから嬉しくて、つい毎日ここへ見に来てた。だけど、もう来ないよ。誰かの迷惑になることは、したくないから」
佑暉の話を、彼女は頷きながら聞いていた。佑暉も話し終えると、少し気分が楽になった。彼女は、彼の心の中にある杭を少しでも引き抜こうとしてくれたのかもしれない。それは彼女なりの良心であり、気遣いでもあっただろう。
「来てください」
と、彼女は真剣な顔で言った。それを聞き、佑暉はやや戸惑った。
「でも……紹介がないと入れないって、さっき聞いたんだけど」
「大丈夫です。私が頼んでおきますから。だから、いつでも来てください。私の名前を言ってくれはったら、入れるように姐さん方に伝えておきます。『サキ』で通じると思いますから」
「は……はあ……」
半ば混乱気味の佑暉に対し、サキという娘は優しく微笑むと、茶屋の中に入っていった。あれは、また来てもいいという意味だったのだろうか、と佑暉はしばらく考えていた。その時、制服のポケットに入れてあった携帯の振動が体に伝わった。
取り出してみると、メールが一件受信されている。中身を見ると、
『今日、とても嬉しいことがありました!』
という、「抹茶ぷりん♪」からのメールだった。佑暉はその返事として、
『僕もいいことがあったよ』
と書いて送った。
その時、すぐ近くから受信するメロディーが聞こえたような気がした。しかし佑暉は特に気にせず、旅館に向けて歩き出した。先程とは違い、足取りが妙に軽くなったようだ。
四条通を歩いている人々は皆、笑っているように見える。この時間は下校中の学生が多く、よくこの通の店で買い食いなどを楽しんでいるらしい。その様子を眺めながら、佑暉も帰路を歩くのだった。




