18.交渉の末に
18
「できました」
あの日からさらに4日が過ぎ、僕は冷房の効いた待合室にいた。
「やぁやぁ、コンくん。おっ、いい顔付きになったじゃないか。何かいいことあった?」
「いろいろ吹っ切れましたから。今は楽しく絵を描いています。今回のは自分でも納得のいく作品に仕上がりました」
僕は彼女に絵を表向きのままで渡した。
「なるほど、ではでは、お手並み拝見といきますかね?」
彼女は、目を細めた後、ニッコリと優しく微笑んだ。
「うん。ほんと。前のより良い。コンくんが描いてた時の感情が伝わってくるよ。素晴らしい…」
自分の絵を初めて褒めてもらえた気がした。
「んじゃあ、最後に。小鳥からの手紙の返事、聞かせてもらおうかな?コンくん、絵を描くのは楽しい?」
彼女は僕の目をじっと見て、僕の目が揺らぐのを見ようとしていた。悪いが、その期待には応えない。
「裏面を見て下さい」
「うら?。ははっ、なるほどね」
そう言って彼女はケラケラと笑った。
「それじゃあ、これ、小鳥に渡してくるから、ここで待ってて。他に何か伝えたいことはあるかい?」
「お手柔らかにお願いします、と」
こんなシャレを効かせた言葉も、今まで思い浮かばなかったのに。
あの一件で、どうやら僕は、本当に変わってしまったみたいだ。
「手厳しくお願いしますって、伝えとくよ」
「えぇー。それは困ります」
交渉人は笑いながらエレベーターに入っていった。
あとは小鳥の返事を待つだけだ。
また『ダメ』と言われる恐怖心や緊張感は全くなかった。
これでダメでも納得がいくし、自分の力を出し切ったのだから、後悔はない。
ウォーターサーバーに近づいて、水を飲む。ゴクリ。
柊翼が個室のドアを開けた。
「こっとり。あれ? 寝てるの? にっししししっ」
彼女は布団をそっとめくり、小鳥の足の裏をなでた。
「ひぃっ」
「あっはは。どうだ? 必殺! 足の裏コチョコチョ拳の威力は?」
柊翼は片足を上げ、バラエティ番組なんかで芸人がよくやる中国拳法の決めポーズのマネをしていた。
「…もぅ…おかあさん」
「すごいでしょ。コチョコチョ拳、小鳥にも伝授してあげよっか?」
「いい」
「ちなみにこれ、一子相伝だからね」
「あっそ」
「俊とジャンケンしてどっちか決めな」
「俊」
睡眠を邪魔され不機嫌そうな小鳥は、適当に二択に答えると、めくれた布団を掛け直し、二度寝の体勢に入った。
「ちょっと待った」
柊翼がブワサッと布団を剥いだ。
小鳥が『っつ!』と舌打ちしたのも無理はない。いきなり起こされて、怒らない人なんていない。
『ヤバイ!小鳥怒ってる!』というのは、普段から楽観的な彼女であろっても、野性味を帯びた小鳥の眼光を目にすれば少しは理解できたのだろう。母親に向けられた鋭い目は、柊翼に『ゴクリ』と唾を飲ませることに成功し、恐怖心を植え付けた。
「っに、にゃっはは..はぁ..あの..ことり?..ちゃん?」
「なに..」
「えっと〜..。あっ、あのね..あ、そうだ!プレゼント!プレゼント!..小鳥!にプレゼントがあるんだよ!」
「で..」
「あは..は。その前にですね..『絵』を描いてくれた作者さんがいた..じゃないですかぁ。でですね、その方が『絵』を書き直したとのことで、小鳥さんに..先生に、もう1度ご覧になって頂きたいとのことなんですが、よろしいでしょうか?」
もはや親子の会話ではない。柊翼は腹をくくり、心の中で『コンくん!ごめん』と呟き、死刑執行の時を待った。柊翼から絵を受け取ると、小鳥の眠気が一気に吹っ飛んだ。
「これ..あの人が描いたの..」
しめた!とばかりに彼女が口を挟む。
「はい!そうです!彼がやったのです!」
「本当に?..この前と..全然違う」
小鳥は絵にかぶりついていた。
「いやー、本当に素晴らしいですよね..特にその動物達が」
「黙ってて!」
調子に乗るとこうなる。小鳥は首を傾げながら、処刑台の囚人に声をかけた。
「ねぇ..この前作者さんに手紙を渡したはずなんだけど、何か聞いてない?」
その言葉に、柊翼はニヤリと笑い、
「では、裏面をご覧に下さい」
と告げた。
半ば半信半疑といった様子で、小鳥が裏をめくった。
『楽しいですよ!かくれんぼの次にね』
小鳥はクスクスと笑った。
「お母さん..ありがとう..。私..この人に絵を描いてもらいたい!この絵が好き!正直、私が待ち望んだ『彼』とは違うかもしれない。でも、この絵が『彼』に導いてくれるかもしれない。私、この人に決めた!」
判決!無罪!
「うにゃー!こっとりぃー!お母さんも嬉しいよー!いい作者さんに巡り会えたねー!ほんとに良かった良かったー!明日から忙しくなるぞぉ〜!こっとりー!覚悟しとけー!うりゃー!!」
柊翼が、ベッドにダイブをかますと、小鳥の脇腹にコチョコチョ拳をお見舞いした。
「ちょ..にゃはっ..お母さん..くすぐったいょ〜」
気がつけば本来あるべき親子の姿に戻っていた。
その後、廊下に漏れる笑い声を聞きつけた浜崎氏が個室に入って来て、小鳥は一緒に怒られるハメになったが、2人はクスクスと笑っていた。
待合室で靴紐を結び直していた僕に、巨大な猫が飛び乗ってきた。
「にゃっははー!コンくん!な〜に下を向いてんだ!元気だしな〜!ほら!ほら!まだ若いんだから!にゃっはははー」
腰に手を当てカッカッカと笑う彼女の表情は、もう答えを言ってしまってるようなものだったが、一応確認してみる。
「っで、小鳥はOK出しましたか?」
「モチのロン!『この人に描いてもらいたい』ってさ〜!いや〜良かったよー!」
「そうですか」
「え〜。何よ〜。それだけぇ?反応薄くなぁ〜ぃ?私がどれだけ頑張ったと思ってるのぉ?!本当にいろいろ大変だったんだからね〜!」
何があったのかは教えてくれなかった。
だがまぁ、これでようやくスタートラインに立てた。
こうして、ここに、2人の絵本作家が誕生した。
待合室の窓から見える雲は、ゆっくりと進んでいた。