11.真実
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苦手なコーヒーは、時間が進むにつれて、全体的に黒さを増し、湯気はとっくの昔になくなっていた。
薄暗い天井も聞き馴染みのないBGMも少し肌寒い空調も今は彼が語る世界に引き込まれ、息を潜めている。
彼が語った事実は、僕の予想の遥か上をいっていた。
♢
東京に引っ越してすぐに小鳥は交通事故にあった。
命に別状はなかったが、事故の後遺症で、記憶喪失になったらしい。
昔のことは断片的にしか思い出せていない。
さらに5年後、今度は難病にかかる。
医者から言われた余命は5年。
心臓移植をすれば治るらしいが、ドナーはまだ見つかっていない。
小鳥の希望もあり、昨年から故郷の徳島の病院に転院したらしい。
そして小鳥は今も病院に入院中だそうだ。
♢
「…ということなんだ」
一通り話終え、彼はカップを一口すすった。
「あの、すいません。小鳥さんに会うことはできますか?」
口を開くと出てしまった。僕の心の奥底を通って湧き出て来た要求。いや、懇願ーー違うな。
「残念だけどそれはできないんだ。それに、今日、君に会ったことも、小鳥には内緒にするつもりだ」
「どうしてですか?」
「狐野くん、僕はさっき記憶喪失の話をしたよね? 小鳥は今、前の学校、つまり狐野くんや友達のことを覚えていないんだ。記憶喪失ってのは、やっかいで、過去を思い出そうとすれば激しい頭痛に見舞われる。小鳥の場合、これがかなり激しくね。医者からは、無理に記憶の引き出しをこじ開けようとすれば、また頭痛が起こり、最悪の場合死に至るとまで言われている。今、狐野くんに会えば、小鳥はどうなるか分からないんだ。分かってほしい」
大人から頭を下げられたことなんて、生まれてこの方一度もなかった。
「分かりました」
「でもねコンくん。パパはそう言うけど、小鳥は完全にコンくんのことを忘れたわけじゃないんだ」
「どういうことですか?」
「ちょっと待って」
そう言うと、彼女は手提げカバンを漁り、真っ白な一冊の本を取り出した。
「これ、今、小鳥が書いてる絵本なの」
「絵本?」
「そう、絵本。まだ最後まで書き終わってないんだけどね」
「見てもいいですか?」
「どうしよう? 小鳥には誰にも見せるなって言われてるんだけどね」
「そのために持ってきたんだろ」
彼は彼女の脇腹を軽く肘で押した。
「え?」
「そうなんだ。狐野くん。是非君にこれを読んでほしい。そして今から僕が言うことは、絶対じゃないし、強制でもない。ただのお願いとして聞いてほしい」
僕が唾を飲みながらコクリと頷くと、彼は僕の目を見つめながら、はっきりと言った。
「君にこの絵本を完成させてほしいんだ」
「どういうことですか?」
「コンくんはさ、小鳥の夢って何か知ってる? 小学校の時からずっと変わらないんだけど」
「たしか……。絵本作家だ」
「正解、知ってたんだね」
「昔、そんな話を小鳥としました。あ、いえ、小鳥『さん』と。ごめんなさい」
「ははっ。謝らないでくれ。小鳥でいいよ。そっか、小鳥は狐野くんと本当に仲が良かったんだね。今頃気づくなんて」
柊誠はフフッと笑うと、窓の外を走る高速バスをチラっと見てから語りだした。
「こんな話を君の前でするのはおかしいかもしれないけど。僕はね、昔子どもに全く興味がなかったんだ。もちろん、小鳥や俊が産まれた時は嬉しかったけど、その後はどう接したらいいのか、分からなくて。本当に悩んだよ。特に小鳥はママに似て明るい子だから、少し苦手だった」
「ちょっと。それじゃあ、私も苦手ってこと?」
「あぁ、違うよ。ごめんごめん。でも小鳥が記憶喪失になって、私を見て誰か分からないって言われた時、初めて小鳥の前で泣いた」
「私のことはちゃんと覚えてたけどねー」
「ははっ、そうだね。でもそれがきっかけで、僕は子どもたちと真剣に向き合おうって思った。そして決めた。僕は小鳥を全力で支える。例え、何かを犠牲にすることになっても」
彼は、ホットケーキと頬張る彼女を見た。
彼女はフォークを口に入れたまま、コクリと頷く。
「僕は、小鳥の夢を応援したい。狐野くん、少し絵本をめくってみてもらえるかな」
言われた通り、恐る恐る本をめくると、右ページには、読み仮名を振ってある文章が書かれてていて、左ページには。
「絵がない」
「そう。この絵本には絵がないの」
「それを僕に手伝ってほしいと? それなら、別に僕じゃなくても」
「狐野くん。僕達もいろんな人に頼んだよ。絵の先生や美大の学生さん、お金を払って海外の有名な画家に依頼したこともあった。だけどその絵を小鳥に見せると、全て『違う』って言うんだ。そして、『絵は彼に描いてもらう約束してるの』って……。すでに気づいてるかもしれないけど、小鳥が言う彼は、狐野くんじゃないかと僕達は思ってるんだ。そうだと確信している」
僕はすぐに、翔と小鳥と一緒に夢を語ったあの日のことを思い出した。
「狐野くん。僕達には時間がない。小鳥の命は、あと5ヶ月。その間にドナーが現れなければ小鳥は死ぬ。小鳥が死んだら僕たちは…」
「パパ、落ちついて……。話が違うよ。強制はしない。そう言ったのはパパでしょ。コンくんが困ってる」
こんなに落ち着いた声の彼女は今まで聞いたことがなかった。
「すまない、つい。悪かったね、狐野くん」
「あ、いえ別に」
「それはそうと、今日は何か用事があったの? 駅前でパパに会ったって聞いたけど」
重い空気を察した彼女が話題を切り替えた。
「あーそれが。昨日のテレビで、映ってるのをちょうどお見かけして。衝動的に来ちゃいました」
「それで私に会いに来てくれたのかい?」
「はい。今朝、大阪から」
「それは知らなかった」
「パパ。呼びかけは無駄じゃなかったんだよ。あの時パパが頑張ったから、今こうしてコンくんに会えたんじゃない」
「そうだね。そうか、大阪から。今は大学生かい?」
「はい。美大で絵の勉強をしています」
「やっぱり君には絵の才能があるんだね。それから、今更だけど、駅前で君に会った時、泣いてしまったこと、許して欲しい。ただ僕は本当に嬉しかったんだ」
「いえ、全然」
「えー。 パパ、泣いたの?」
「ママは聞かなくていいよ」
「何よ、それー」
じゃれあう2人を見ているうちに、この2人になら、なんでも話せる気がした。
コーヒーを無理矢理流し込み、カップをコンっと置いてから、2人に打ち明けた。
「10年前、小鳥に、一緒に絵本作家になってくれと頼まれました。絵を描いてって。僕は断りました。そして、それをずっと後悔していました。それが今、こうしてやり直せるチャンスがある。なら、僕は絵が描きたい。僕に絵を描かせて下さい」
薄暗い喫茶店に陽の光が差し込んできた。