10.変わらない彼女
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商店街の錆びれた看板が変わっているのを横目に彼の斜め後ろを歩く。小柄な彼の歩幅は小さく、案内される側の僕が間違って彼を追い抜いてしまわないよう歩くスピードには気を使った。
彼はまだ一度も後ろを振り返らない。このままバックれたらどうなるだろうかとも思ったが、彼の号泣を見たばかりだし、僕の意地悪に彼が粉々に壊れてしまいそうなのでやめた。
出会ってから小鳥のことをまだ一言も聞けてないもどかさに少し苛立ちを覚えていたが、逆に聞く恐ろしさもあった。
商店街を抜け、一つ目の信号を左に曲がると、赤いレンガの植え込みがある小さな喫茶店が現れた。1人なら絶対に入らないだろうな、と考えながら、彼を先頭にカランコロンという音とともに店に入る。
カウンターが6席とテーブルが4席の店内には、煎ったコーヒーの甘い香りが散漫し、オシャレというよりはノスタルジックな趣きがある薄暗い電球の明かりが、僕たちを出迎えた。彼の手引きで4人掛けのテーブル席に促され向かい合わせで座る。
「狐野くん、何か頼んでて。ちょっと電話してくるから」
とだけ言い残し、彼は足早に喫茶店の外に出て行った。残された僕は、とりあえずメニュー表を持ち上げ、品定めする。いつもならメロンソーダというところだが。
「ご注文は?」
「あ、えっと……じゃあ、コーヒーで」
やってしまった。完全に喫茶店の雰囲気に飲み込まれ、僕は飲めもしないブラックコーヒーを注文する。こういうその場の空気に流されるのは父親譲りかもしれない。
2度目のカランコロンと同時に、彼が戻ってきた。
「注文した?」
「あ、はい」
「そうか。僕はミルクティーで」
僕もそれにしたらよかった、そう思った。
「お待たせしました」
髭を生やしたマスターがニコリと笑いながらすぐさま僕のコーヒーを運んできた。彼が「遠慮せず」と付け加えたので、お言葉に甘える。ここはオゴリなのだろう。
「いただぎます」
一口すすったが、やっぱり苦い。思わず咳き込んでしまった。
「コーヒー苦手だった?」
普段なら決して使うことのない「お気遣いなく」を使い、大人びてみたがやっぱりまだ苦い。ミルクティーが運ばれてくるのを待って気にし続けていた質問を彼にぶつけてみた。
「あの」
「狐野くん、もうすぐ来ると思うんだ。その時にその話しを…」
カランコロ、3度目は同時ではなかった。鐘の音を遮って店に入って来たのは、聞き覚えのある声だった。
『やーやーやー! コンくんじゃないか! って君は本当にコンくんなのか? 大きくなったねー! いや私が縮んだのか?」
この人は本当に全く変わっていない。
「お久しぶりです」
「あっつー! オレンジジュース飲ーもおっ」
良い意味で変わって欲しくなかったが、悪い意味で少しは変わって欲しかった。顔もそのまま、ただ少し昔より痩せているように見えた。彼のもうすぐ来るが、彼女のこと指していたんだと理解した。
ニコニコ顔の彼女は彼の隣にチョコンと座った。
「ホットケーキも食べよっかなぁ」
「朝御飯食べただろ」
「そうだっけ? まぁいいじゃん。コンくんも何か食べなよー!ほらほら遠慮せずに!ね!共犯だよ!共犯! ね!ここはパパのおごりだから」
「はぁ。狐野くん、そういうコトだから何か好きな物があれば遠慮せずに食べて」
「あ、いえ、お構いなく」
「なんだよー。食べなよー。ま、いっか!マスター!ホットケーキもねー」
この人が来ると会話が前に進まない。彼女の到来と注文を予期していたかのように、すぐさまホットケーキが運ばれてきた。
「ママ、あれは持って来てくれた?」
「え? あれって?」
「さっき電話で…」
「うそうそ。モチのロン!そのために来たんじゃないかー!私は言われたことは守るからねー」
「あのそろそろ…」
「そうだね。狐野くん。ママ、1回食べるのやめようか」
運ばれてきたホットケーキにかぶりついていた彼女は、ソッとナイフとフォークを置き、両手を膝の上に置いた。
そして、彼はゆっくりと話し始めた。
窓の外では、夏の太陽が見え隠れしていた。