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江戸の桜

 千鶴郎せんかくろうは浪人である。


 父はとある藩で門番などをする侍であり、千鶴郎も数年、城勤めなどしていたが、訳あって今は江戸の町をふらふら歩く毎日だ。

 月代さかやきも伸び、雑に括ったまげと腰の太刀と脇差だけが、彼の身分を伝えていた。


「千さん、お家賃!」


 昼過ぎに長屋の部屋をのそり、と出た千鶴郎に、家主のおおそめという婆が気付いて声を張る。昔は美人で有名だった、というが、今では見る影もない。背は曲がり、皺だらけの頭を白髪が綿毛のように覆っている。


「でかい声だすんじゃねえや。当てはあんだ」

「博打で勝ったら、なんて与太じゃないだろうね? 遅れたら出てっておくれよ!」

「へいへい、わかってら」


 着物の襟に首を隠すようにおどけて、千鶴郎は長屋の門を通った。

 主君を持たない千鶴郎には、ろくがない。収入がないからには、自力でどうにか稼いで衣食住を確保しなければならない。

 腕に覚えのある浪人なら、用心棒や剣客。道場を経営するのも手の一つだ。

 けれど千鶴郎はどれもしない。

 しばらく江戸の町を歩いて、別な通りの長屋の戸を叩いた。


「おうい。小雪、いるかい」


 ややおいて、やせた年上の女が戸を開いた。古着屋で数年前に買ったような、色の褪せた着物を着ている。針子をしている女で、千鶴郎の情人のひとりである。


「……なんだい、生きてたのかい」

「心配かけたか? ありがとうよ」


 小雪の皮肉に笑って、千鶴郎は彼女を部屋に押し戻す形で部屋に入った。


「すまねえ、金貸してくれや」

「あんた、また? よしておくれよ。あたしゃ、あんたみたいな糞虫養うために働いてんじゃないんだ」

「またそんな……今度きれいな着物買ってやっから。頼む! うまい飯も食おう! な?」


 千鶴郎がパン、と音を立てて手を合わせる。拝みながらずい、と顔を近づけた。

 小雪は顔を赤くして、落ち着かなげに視線を逸らす。プイ、と背を向けると、草履を脱いで土間から板の間に上がる。化粧台の下から巾着を取り出し、千鶴郎に放った。


「約束だからね!」

「おう。やくそくだぁ」


 千鶴郎は満面の笑顔で頷いた。

 このように千鶴郎は江戸の町で一人で暮らす女の情にすがって生きているのだった。常に複数人の女性と関係を持っているが、実のところ本気で惚れたことはない。

 ちなみに女と交わす約束は破ったり守ったりする。具体的に言えば、結婚や浮気に関する約束は守らないが、先の小雪と交わしたような着物や食事を買ってやる、といったものなら直ぐでないがたいていは守る。


 さて、こうしてお染に家賃を支払った千鶴郎。日が暮れるころ、またのそり、と長屋から出ていく。

 春とはいえ、日が落ちればまだ寒い。

 提灯を持った町人とすれ違って、もう少し羽織ってくるんだったか、と思いながら、すたすた、と歩く。


 ドン!


 脇道から、千鶴郎の腰までの背丈の子どもが飛び出してきた。


「わっ。なんだいお前」

「た、助けて」

「はあ?」


 息を切らせて、子どもは千鶴郎にしがみつく。茜色の着物に高く結んだ髪。年のころは五つほどだろうか。

 少女に戸惑っている間に、こちらへまっすぐ複数の足音が近づいてくる。


「ああ、兄さん。つかまえてくだすってありがとうございます。さあ、その子をこちらに」


 壮年の、ごくふつうの町人だ。だが、後ろに控えた別の男には見覚えがあった。

 用心棒をしている、顔なじみの浪人だ。


「笹山?」

「おお、千さん! 元気そうで。ってそうじゃねぇ。その子、今から吉原なんだ。渡してくれないかい」

「……なるほど」


 しかし少女は千鶴郎の着物をつかんで離そうとしない。

 女衒の町人が困った様子で幼女に話しかける。


「何が気に入らない? お前がこれから行く場所では、きれいな着物も着れるしおまんまも食える。寒さに凍えることもねえ」


 嘘は言っていない、と心中つぶやいて、千鶴郎は少女の手に触れて、視線を合わせた。

 少女はビクリ、としたが、手を握ると着物を離した。


「もしかして、吉原に行く前に心残りがあるのか?」


 少女は息をのんで、何度も頷いた。


「よ、よしわらってところは、女がへぇったらでられねって聞いた……おら、むかし父ちゃが江戸で見たっていう……桜がみてぇ」


 小声で言った少女へ、千鶴郎は破顔した。


「へえ、いいじゃねえか!」

「は、兄さん!?」

「女衒さんよぅ、こいつを連れてくのは急ぐのかい? 今晩いくって約束かい?」

「え、いや、そこまででは」

「江戸の桜さえ見りゃあ良いって言ってんだ。ちっこい娘が健気にも。見せてやるのが江戸の魂ってもんだ」


 慌てる町人に、笹山が苦笑した。


「すいやせん、旦那。千さんは言い出したら聞かなくて。おれが着きます。明日の夕方、必ずこの子を旦那のところに連れていきますんで、一日だけ時間をくれませんかね」


 浪人であるが、笹山は真面目な男だ。

 笹山の説得に、町人の男はしぶしぶと首を縦に振ったのだった。こうして、翌日、千鶴郎と笹山は少女と江戸で桜を訪ね歩くことになった。




 ――絶景だった。

 ――川沿いに満開の桜が並んで、色とりどりの女声の着物と、立派な羽織の男性がたくさんいて、屋台が数えきれないくらいあった。

 ――花びらが落ちる様子は雅で、天上の世界にいるような心地だった。


「……て、え、それどこだ?」


 少女の話を聞いて、江戸で暮らす男二人、首をひねった。悩んでいても仕方ない、と片端から江戸で屋台の出る桜の名所を訪ねるも、少女の父が見たという華やかさには及ばない気がしてしまう。


「ううん、おとっつぁんが、どこに行ってたかとか聞いてないかい?」


 笹山に少女はうつむいて首を振る。気性が大人しいようで、江戸の町を珍しく思うより、大人を2人も自分のわがままに突き合わせている、という気持ちのほうが強いらしい。

 騒がしいよりは、と思わなくもないが、探す場所が彼女だよりであるので、つられてこちらも気落ちしてしまう。笹山がため息を吐いたとき、黄色い蝶が目の前に現れた。

 薄く透き通った羽は鮮やかで、甘い匂いがした。飴細工だ。


「なんだい、せっかく桜見物だぞ。しみったれた顔すんない」


 飴の蝶が少女に渡される。


「千さん、いないと思ったら」


 千鶴郎から、一瞬女の移り香がした。適当な女性に声をかけ、飴をねだったのだろう。こんなだらしのない男がどうして女に可愛がられるのか、笹山は理解できない。


「いいじゃねえか。ちょっと楽しむくらい」


 笑いかけられて、少女が困った顔をする。

 つられてか、頬がひきつった笑い顔を作ろうとするので、千鶴郎が声を上げて笑った。


「はは! へったくそ! おまえさん、もっと上手く笑えよ。客がつかねえぞ」

「……千さん」


 笹山は顔をしかめた。飴を手に、少女が必死でマシな笑顔を作ったのを見てため息を吐いた。千鶴郎は少女の笑顔を誉め、頭をなでている。

 風に散る桜の花びらが、少女の黒髪についた。日の元で見ると、幼いながらに少女の目鼻立ちは整って、かわいらしい。気が弱く、周囲を気にしすぎるきらいがあるが、そのあどけなさも少女の良さであるように感じていた。今夜、彼女は遊郭に売られるのに。


「みろよ、きれいだなあ」


 千鶴郎が二人を促す。

 川沿いに植わった桜は八分咲きで、花びらが絶えず舞っている。ひらひら、ひらひら。

 青空を背景に、誰もが桜を見ている。


「……きれい」

 つぶやいた少女は、しばらく桜に見入って動かなかった。

 そして、日が暮れた。




 少女の名前も聞かなかった。

 「おい」とか「ちび」とは呼んだが、あえて名前を尋ねなかった。浪人どうしは呼び合っていたので、「千さん」「笹山」というこちらの呼び名に気付いていたろうが、少女も大人を名前で呼ぶことは一度もなかった。

 女衒の男と、吉原の門をくぐる背中を見送りながら、千鶴郎と笹山は中に入るつもりにならなかった。

 疲れた声で笹山が伸びをした。


「千さん、桜見せてやれなかったな」

「おれたちは、な」


 ほれ、と指さす。

 吉原の大門の先、もう見慣れた赤い着物が立ち止まっている。


 桜。


 春の吉原には、大通りの川沿いに桜が植樹される。一年でこの季節だけ、桜が散るまでの短い祭り。着飾った遊女が情人と歩いて、まるで桜に酔ったよう。そこは、まるで。


 気付いて絶句した笹山に、千鶴郎はふふ、と笑う。

 夕風に運ばれた薄い花びらを目で追う。

 昼間、少女の髪に落ちた薄桃の花弁を思い出した。そして多分二度と思い出さない。


「あれだ、江戸に来たら、男ならたいてい、吉原に行きてぇって思うわな」


 少女の父が、愉しんだかは知らないが、江戸で父親が見た華やかな桜、という言葉から、千鶴郎は大方の目星をつけていた。

 くる、と浪人は背を向けて歩き出す。


「はじめから目的が吉原ってわかってたなら、どうして今日、桜見物なんて本気で連れ出した」

「笹山ぁ、無粋なことを聞くな。遊女じゃない、まっさらなただの女として、男とあるいた思い出があってもいいじゃねえか」

「……子どもだぞ」

「はは。あいつの桜を見る横顔、見たか。将来はえらいことになるぞ」


 心底楽しそうに笑う千鶴郎に呆れ、笹山は別の道に分かれて歩いて行った。


知識はにわか。好きに書いた。

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