幼馴染
4
ここは道すがら食堂。
かなりのリニューアルをして、ボックス席が5台も増えた。
今までの収容人数はたったの15名だったのだが、今は35名席に付くことが可能だ。
トイレの広さも、これを考えてのことだったのだろう。
この道すがら食堂での出来事は当然のごとくトップシークレットだ。
そしていつものメンバーに加え、
新規にここで働く者たちが勢ぞろいしている。
澄美が木下よりも一歩前に出て注意事項を語っている。
話を聞いている者の中に、
澄美の妹で木下が妹と思う幼馴染の真奈美の姿もある。
「…さて、実際の業務だが、
半数はアクター部のためにあることだけ覚えておいて欲しい。
そして、お前たちがやるべきことも平行して行え。
ここにいる者はこのようなことを言わなくてもわかっていると思っている。
…大きな行事として、まずは株式会社SKTVのテスト放送として、
アクター部による舞台の生中継が行われる。
テナントにするはずだった空間全てをTV局と劇場に変更することに急遽決まり、
知っての通り現在リフォーム中だ。
狭い劇場だが、役者と一体になれることで、
ファンには嬉しいものとなることだろう。
その日まで気を抜く時間はお前たちにはないと思っておけ。
テスト放送は二週間後を予定していたが、少々早まり10日後だ。
リフォームの完成が早まったことが大きな要因だが、
俳優たちの気合が乗っている。
越前雛と相談して早めの上演となってしまった。
こんなこと、現実ではありえないんだがな。
役者の都合で舞台を繰上げ上演することなど聞いたことがない。
だがSKグループは普通ではない企業だ。
このようなことは当然だと思っておいて欲しい」
澄美の話しが終わり、早速技術部が職人さながらの技を披露している。
ネット環境の構築だ。
当然シャドウもその一員で指揮を取っている。
「働いている者の邪魔にならないように席についてくれ。
…これからお前たちをオレの直属の部下にする儀式を行なう」
木下が社員に向け厳しい視線を送った。
社員たちの背中には緊張が走った。
澄美が給仕して、賄い定食をテーブルの上に置いた。
「飯はいくらでもある。
喰いたいだけ喰えっ!」
社員たちはホッと胸を撫で下ろして、ゆっくりと食べ始めた。
木下の言葉が少し芝居がかっていたので、
社員たちもある程度は気が付いてはいたようだ。
木下は社員ひとりひとりをつぶさに観察している。
そして笑みを浮かべ、手早くどんぶりに飯を注ぎ始めた。
… … … … …
アクター部の練習場がまだ仕上がっていないので、木下の案内で地下訓練場に移動した。
今日はオフのはずの四人が練習場を提供して欲しいと木下に願い出ていたのだ。
当然雛がその先頭に立っていた。
地下に到着した一行はこの別世界を気に入ったようで、
まずは芝と戯れることにしたようだ。
そして思い通りのスタイルで練習を始めた。
出し物は当然のごとく澄美の作品だ。
原作脚本が簡単に手に入るので、役者としてもやり甲斐が沸くと言うものだろう。
そして雛が細かいチェックと確認を澄美に入れている。
澄美の思い描いた小説そのままに演技することになるだろう。
よって演出家の代わりは雛が勤めている。
雛はこの先、しばらくはドラマ一本しか仕事がないので、
時間は十分にある。
監督や演出家はいらないだろうと木下は思っているようだ。
それぞれのマネージャーも俳優たちの演技の手伝いをしている。
マネージャーたちは夢破れた役者だった者が多いのだ。
その中でも一番若い真樹のマネージャーの織田佐知が、
この場の開放感からなのか女優としてのオーラを発し始めたのだ。
一番驚いたのは真樹で、すぐに佐知を連れて雛に相談に行った。
「…私も気付いていたんだけど、舞台に上がる自信、あるの?
澄美さんと同じで…
ううん、佐知ちゃんはもっと重度な対人恐怖症だと私は思ってるの。
でも、マネージャー業を通して少しは緩和したと思うけど、
自信があるのなら澄美さんに言って役をもらうわ。
そもそも私三役だから、ひとつ譲ってもいいんだけど。
真樹ちゃんと絡みの多いマーガレットの役がいいと思ってるんだけど…」
佐知が戸惑いを見せて意気消沈した。
しかし思い直して、胸を張るのだが、
舞台に立った自分を想像してやはり不安が過ぎってしまうようだ。
「今の気持ちじゃダメね。
私よりも佐知ちゃんが一番良くわかっているみたいだけど…
…ゲリラライブ、やってみる?」
普通であれば話は終わっていたはずなのだが、雛は可能性を見出すことを
佐知のためと思って思案したようだ。
これには役者たちが大賛成して、さらに士気が高まった。
「警察の許可は簡単に下りるわ。
当然、ここの部署の方たちも守ってくれるから。
…佐知ちゃんはこの場所が気に入ったみたいね。
ここで演技しているように思えば、どこで演技しても大丈夫だと思うわ。
…客席にいる者は全て野菜だと思え、なんて言うけど、
それを超越してみんな消してしまえばいいの。
そしてここを思い浮かべて演技をするの。
それができるのなら、佐知ちゃんの役者としてのデビューも簡単だと思うのよ。
…レッスンヒロインは大勢見てきたわ。
練習では誰よりもうまいのに、
舞台に立つと100分の1も練習の成果を出せない人たち…
本当にもったいないって思っちゃうのよねー…
…でもね、現実に戻る瞬間もあるの。
舞台の場合、どうしても台詞が飛んじゃう時ってあるの。
その時のフォローができてこその女優なのよ。
役になり切れって当然のごとく言うけど、
なり切った人ほどこのフォローはうまいの。
台詞がなくても演技はできるの。
自分自身の可能性を、ゲリラライブで試してみない?」
ここまで言われると佐知も覚悟を決めやすくなったようだ。
雛に深くお辞儀をして、ゲリラライブを行うことが決まった。
… … … … …
「早速雛からの仕事の依頼だ。
今日の帰宅ラッシュ時、山王丸公園はその抜け道と化す。
警察にはすでに連絡済で、
警備を担当してもらうことに決まったが、かなり手薄だ。
当然雛やその他有名女優たちが勢ぞろいだからな。
普段の訓練を生かし、女優たちを守れ。
オレはお前たちの成果を一番に期待している」
木下の言葉がかなり気に入らなかった雛は頬を膨らませた。
女優の成果には期待していないのかと思ったようだ。
「雛が怒ったようだから付け加えておく。
女優には何も期待していない。
たった10分間の演技を完璧にこなせないはずがないんだからな。
できて当たり前だと思っているだけだ。
だが、佐知だけは別のようだ。
…マネージャー、増やさないとな…」
この木下の言葉に佐知が一気に泣き崩れた。
そしてすぐさま胸を張った。
雛は満面の笑みを木下に向けた。
だがその雛は異様な殺気を認めた。
ついに真奈美がその正体を現そうとしているのだ。
「…源ちゃん、真奈美さんが凄く怖いんだけど…」
「そうみたいだな。
…真奈はそのままでいていいぞ。
きっと誰も近付いてこられないはずだ。
…柿木、今の真奈の殺気を越えられるか?」
「いえ…
殺気の修練をした事がありません…」
柿木は少し恐縮したように、ほんの少し背中を丸めた。
「そうか。
この先することになるだろうからな、
今のうちによく見ておけ」
「会長、私は特に何もしてはいませんが。
お気のせいではございませんか?」
真奈美は今度は木下に殺気を向けた。
木下は、やれやれといった顔を真奈美に向けた。
「今オレを猛烈に殺したいと思っているはずだ。
今のところオレは雛と結婚を前提として付き合う決意をしている。
だが、この先変わってしまいそうな気もするな。
しかし、変わらないかもしれない。
そう言った相手を殺そうとするのは早計じゃないのか?」
「いいえ。
全てを私の手にするために、殺して差し上げます…」
雛は心底真奈美を恐れた。
これほどまでに真奈美の愛欲が強いとは、雛は思ってもいなかったようだ。
暫し、緊張した空気が流れたあとに一気に和んだ。
真奈美の表情が一気にほぐれたのだ。
「慣れない事するもんじゃないわ…
今ね、去年の冬に山で出くわした熊との対面の時の気を再現してたの。
どう?
本物らしかった?」
雛は人目を憚らず大声で泣き出した。
かなりの恐怖がそして今は安堵が雛を襲ったようだ。
「雛はまだまだのようだから、真奈は少し手加減してやれ…
脅迫に近いぞ…」
木下は呆れた顔を真奈美に見せた。
「私の方がもっともっと泣いたわよっ!
でもね、望みが全くないわけでもなさそうだから、
泣いて損しちゃったわっ!」
木下はさらに呆れたようだ。
木下の知るいつもの真奈美が目の前にいる。
「私が迫っちゃうと、やっぱり強姦になっちゃうのかしら…
立った時点で和合よね?」
真奈美は木下にひとつ礼をして、柿木の元に寄り添い、
最終確認の会議を始めるため、執務室に移動した。
「…オレ、きっと太刀打ちできないし、
真奈の言う通りのような気がする…
実際どうなんだ?」
木下が助けてもらいたいような眼で皇を見た。
「真奈美ちゃんの言う通りだな。
立たなかったら問題ない。
…そして強姦罪は被害者が女性に限る。
男がそういった行為を受けた場合は強制わいせつ罪だ。
強制わいせつ罪は最高で10年の服役だが、強姦は三年以上で青天井だ。
女性の場合、防御不可と言っていいからな。
これは当然のことだろうな」
「もしされても訴えないけどな…
そして真奈はしないだろう。
だが、今の気迫は今までの真奈にはない。
オレの知らない真奈だ。
そもそも、あんなことを言うはずがないと思っていた。
…雛はさらに強くならないと、自ら諦めることになるぞ」
雛は泣きながらも木下の言葉に何度も頷いている。
「だが本気になってあんなこと言って、
オレに嫌われるとは思わなかったのか…」
木下は深く考えた。
皇は少し噴出してから笑い始めた。
「嫌われてもいいと思ったか、
嫌われるために言ったのか、
さてどっちだろうな?
オレは嫌われるために言ったと感じたな」
木下はひとつため息を付いた。
「そうだな。
それだと、真奈らしい行いだ」
木下は納得したようだ。
「そもそも子供じゃないんだからな。
あれくらいの脅しは脅しとも思わんぞ。
…雛さんも泣き過ぎだ。
演技だとバレてしまうと思わんのか?」
前田が呆れたような顔をして雛を見ている。
「本当に怖かったのよ…
熊、殺しちゃったのかしら…」
ごく普通の声で雛が言った。
当然涙を流しているが、女優であれば普通に流せる。
特に雛は感受性が強いので、自由自在と言ってもいいほどだ。
「お前の妹、性質悪いな…」
木下が呆れたような顔をして皇を見た。
「選んだのはお前だ。
もうオレの知ったことではない」
皇は行き遅れの妹を何とかして押し付けたような兄の台詞をはいた。
「だが熊と対決したと言うのは本当らしいな。
…勝ったのかな…」
前田はかなりレアなところに興味を示したようだ。
「約一年前だな…
…熊鍋、食った記憶はあるぞ…
一月の終わりだ」
木下は澄美に視線を送った。
「はい。
ほぼ間違いなく真奈が倒した熊です。
…睨み合い、熊が視線を外した隙に、蹴りで首を吹っ飛ばしたと聞いています。
証拠にはなりませんが、
記念に撮った写真を送って来ていましたのですが、見ますか?」
「それがある時点でもう確定だろ…
真奈がそんな小細工をするはずもない。
…前田さん、興味津々ですね…」
前田は澄美から写真を見せてもらい、深く頷いた。
「確かに刃物で切ったわけではないな。
しかし切れ味鋭い蹴りだな。
皇の旦那はどう思います?」
皇は前田から澄美のスマートフォンを受け取った。
「左足で蹴ったか。
利き足は右だな。
首の中心を素早く蹴ればこうなるだろうな。
一度ダミーで試したことがある。
蹴りや突きは素早いほどその威力は増すからな。
しかも重い頭が乗っているから、
吹っ飛んでも不思議ではない。
これ、血抜きしているところだな。
この写真、誰が撮ったのかオレとしては興味があるな…」
皇は苦笑いを浮かべて、少し頭を下げてスマートフォンを澄美に返した。
「メールではみんなでウサギを捕らえに行ったと書いてあったので、
施設の子供たちの誰かかと。
冬の恒例行事で、源太兄は家でその準備をいつもしています。
お父様と同じく、非力ですので」
木下は申し訳なさそうにして頭を掻いている。
「…ふん…
だが何故モテるんだ?
情けないとは思わないのか?」
皇は少し笑いながら澄美を見た。
「源太兄もお父様も、私たちの道しるべです。
特にお父様の言ったことには間違いがないのです。
その手助けを、私たちがやっていたに過ぎないのです。
そして始めての収穫の秋…
今も覚えています。
本当に、おいしいご飯でした…
あれほどにおいしいご飯はもう頂けないでしょう…」
澄美は感情を込めて言い、少しだけうつむき加減となりひとみを閉じた。
「まあな、その通りだ…
チカラ仕事は邪魔になるからと思って別の細かいことばかりしていたからな。
そのオレの仕事も、小さい子がオレから取り上げて全部やってくれた。
頭を働かせるしか、オレとしては手伝う術がなかったんだよ」
「お米は残らないと思い売りませんでしたが、
ほかの作物はかなりの高値で売りさばけました。
あの試食会、今でも忘れられません…」
「子供がたった20人で100人前食ったからな。
誰が見ても美味いと思ったんだろうな。
本当にうまかったんだけどな」
「そのおかげで、食べるものには困らなくなりました。
そして身なりも整えられるように…
今でも私、始めて買ってもらったワンピース、持っております。
着て参りましょうか?」
「…それは無理だろ…
お前の13才の時の服だぞ…
だがオレよりも背が高かったからな。
もうひと伸びしてから成長が止まったようだが…」
雛が今度はかなり悔しそうな顔をして涙を流し始めた。
さすがの前田も、今度は心底の涙だと感じ、何も言わなかった。
その代わりに皇が澄美に顔を向けた。
「いいことばかりではなかったんだろうが、
その時に悪い事なんて吹き飛んだんだろうな。
今はいい思い出しかないんじゃないのか?」
「はい。
全ては報われたので、嫌な事もいい思い出だと感じます。
お父様のおかげで、私はこの国の女王と呼ばれるまでになりました。
本当にありがとうございます…」
「オレの呟きを無視しない、お前たちのお手柄だと思うぞ。
信じられることはこれほどに嬉しいことだとは思わなかった。
そのせいか、本当の両親だと現れた大人に、全く動じなかったからな。
農業を始めるまでは、
里子に出された子を羨ましがっていたはずなんだがな…
そんな気持ちは全くなかったんだ。
…知ってるぞ、オレの里子話…」
澄美は驚いて半歩引いた。
そして申し訳なさそうにして頭を垂れた。
それを見て、皇が助け舟を出すようだ。
「あまりイジメてやるな…
どうせ優秀だと聞きつけて降って沸いてきたように親候補が現れたんだよな。
妹たちとしても、そんな兄を手放したくないから、
力尽くでも止めたかったんだろ?」
「源太兄から最近聞いたんだよ。
オレを里子に取ったら、家を解体すると澄美が言って、
真奈美が太い生木を蹴りで吹き飛ばしたそうだ。
まだ10才だったはずなのに、いつの間に武道を覚えたのか…」
「…源太兄です…」
澄美の言葉に木下はがっくりと肩を落とした。
皇が大笑いした。
「知識さえあれば教えることは可能だからな。
しかし凄いよな…
きっとオレでも無理かもしれない…」
「いえ、少し腐っていたのでそれほどでも…」
「いや、それでもだ。
完全に腐っていたら素人でも鼻で笑うだろう。
特に腐りかけはクッションのように表面が柔らかいからな。
特に生木だ。
普通、蹴って折れることは考え難いからな。
この熊の首の信憑性は高いよな…
よく足が折れなかったと思うが、腐りかけていたから足を守ったか…
澄美ちゃん、計算高いな…」
「骨は折れませんでしたが、軽い捻挫で済んだようです。
ですが、しばらくは痛かったようなのですけど、普通に働いていました。
私もできればよかったのですが、足では無理でした…」
皇が怪訝そうな顔を澄美に向けた。
「拳、いや、掌底ではできたんだな?
参ったな…」
澄美は恥ずかしそうな顔を皇に見せた。
「手が早いのは生まれつきかと…
おかず争奪戦のチャンピオンでございます。
それにやはり農作業。
武術の修練をしなくても、型を覚えただけで全てがうまくできて…
あれも嬉しい私のひとコマでしたわ…」
「暇な時でいいから、真奈美ちゃんと一緒にオレと組み手をして欲しい。
最近修練不足なんだ。
いい練習相手にめぐり合えたな…」
「はい、お役に立てて光栄でございます。
そして、お父様をお守り下さい。
…真奈も、こちらに?」
澄美は木下を見て言った。
「いや、それは予定通りでアクター部の護衛だ。
その合間に一輝の相手をしてもらおう。
さらに人材が揃った時に、
オレたちの仲間になってもらった方がいいかもしれないな…
まずは柿木を抜くから、その代わりも必要だ。
…言わない方がいいと思ったがあえて言うぞ。
雛は自分の道を行け。
お前にチカラで戦う術はない。
そのほかの可能性を探れ。
そしてできればオレを助けて欲しいんだ」
雛は泣き顔を上げて、それを笑みに変え、小さく何度も頷いた。
… … … … …
山王丸公園は人で溢れ返っている。
ゲリラライブの30分前にインターネットで情報を流したのだ。
舞台は半円形闘技場のような野外ステージで、500人ほどは着席できる場所だ。
立ち見を含めると、2千人ほどは楽に全てを一望できる。
真奈美は舞台と客席の間にひとりで佇んでいる。
制服である、軽量化された防弾チョッキを着ているので、
ガードマンだと一目でわかる。
『これから、SKセキュリティーアクター部による、三人姉妹物語を始めるよ!
原作脚本は木下澄美。
きっと楽しいから、みんなに宣伝してねっ!
でも、長いお話の10分ほどしか見せられないことが少し残念かな?
でも本当に楽しいから、みんなも楽しんで欲しいなっ!』
シャドウの少し間の抜けた声に、観客たちは笑みを浮かべている。
まずは10分間演じる女優たちが顔見せを行うため、
ステージにゆっくりと歩み出てきた。
当然のごとく、客席にいたひとりの男が舞台に駆け上がろうとして、
それに倣って大勢のファンが詰め寄ろうとした時、真奈美が素早く動いた。
なんと、先頭の男の胸倉をむんずと掴み、
50メートルほど離れている柿木に投げ飛ばしたのだ。
男は柿木の目の前で信じられない思いで立ち尽くしている。
柿木は柔らかな掌底で、飛ばされてきた男を打ち、
自然に立つように仕向けたのだ。
「SKセキュリティー自慢のガードマンたちよ。
怪我はさせないけど、大人しく観てくれないと、
また飛ばされちゃうわよっ!」
雛が明るい声で恐ろしいことを言った。
立ち上がっているファンたちは、
どう見てもひ弱な女性にしか見えない真奈美を見て震えがきた様で、
すぐさま席に付いた。
その様子に観客は大いに沸き上がった。
「実はね、今日は私たちの仲間入りを果たす女優が現れるかもしれないの。
真樹ちゃんのマネージャーの織田佐知ちゃんよっ!
今日のこの舞台の出来次第で、女優としてデビューするの。
どうか、ファンになってあげて欲しいの…」
雛はほかの女優の紹介をして、今回のゲリラライブの趣旨の説明をした。
そのあと軽くトークをして、早速演技を始めた。
まずはデビューがかかっている佐知が舞台に現れた。
「まあ!
たくさんのかぼちゃが…
あなた、私の好みよっ!」
佐知は女優の笑みで客席に向かって指を差した。
客の受けがよく、指の先にいた者達が嬉しそうにして笑みを浮かべている。
舞台に真樹が登場した。
「マーガレット、何がかぼちゃよ、スイカでしょ?
…それよりも、アンタもお城に招待されたんだって?」
「あら、サンシャイン、ごきげんよう!
王子様、私に一目ぼれしてくれないかしらっ?!」
「そんな訳ないでしょ…
私たちだってお声がかかるのかわかんないのに…
あら、お姉様たちが…」
雛と麻里子も舞台に上がってきた。
「サンシャイン…
あまりマーガレットをイジメないでよ。
今の私たちがこうしていられるのも、
マーガレットのおかげなんだから…」
「はい、シンスお姉様…
でも、イジメてなどいません…」
「そうね、これからイジメようと思っていたんでしょ?」
「もう…
ボピーお姉様まで…
知りませんっ!」
「ですが、一体どんなパーティーなのですか?」
「…花嫁探し、らしいんだけどね…
でもね、ちょっとだけ怪しいの…
ほかの国からの旅行者が大勢来ているの。
何かが、始まりそうな予感…」
「…まさか、戦争…
なんてこと…」
「まだ決まったわけじゃないわっ!
この国の守り神様はお強いもの!
さあ、お茶にしましょう!」
マーガレットは一旦の舞台から姿を消し、茶器をワゴンに乗せて持ってきた。
「マーガレットも座って。
もう、使用人ではありませんから」
「…いえ、そんな…」
「いいから早くっ!」
サンシャインがマーガレットの腕をつかみ、椅子に座らせた。
ポピーが立ち上がり、ティーカップを並べ、お茶を注いでいる。
「…ああ、申し訳ございません…
…なんだか、緊張してしまいますうー…」
「そうね。
今はそれでいいわ。
…マーガレットは今のままでいて欲しいわ…
ずっと、私たちのお友達で…
ね?」
「はい、本当にありがとうございます…」
佐知が何も話さなくなった。
どうやら、台詞が飛んだようだ。
佐知は焦った。
… … … … …
「台詞が飛んだ時、どうしようかと…
かなり焦りました…」
かなり参ってしまったといったような台詞なのだが、佐知は満面の笑みだ。
「でも、アドリブの演技の方が格段によかったわっ!
あら?
ほめ言葉になっていないわね…
でも合格よ、おめでとうっ!」
雛が佐知を抱き締めた。
佐知は感激して本物の涙を流した。
今女優たちはリニューアルした道すがら食堂にいる。
ゲリラライブの観客は少々消化不良気味だったが、大人しく解散したようだ。
「おつかれさん。
いい宣伝になったようだ。
ネットの書き込み、異様だぞ。
映像もアップされているようだし、
佐知の非公認ファンクラブもできそうな勢いだ。
オレと同じくベビーフェスだからな。
実年齢がわかりにくくていい」
雛が木下をみらみつけ、木下は肩をすくめた。
「だがもうしばらく真樹のマネージャーを頼む。
少々雲行きが怪しくてな。
俳優たちが次々と事務所を訴えているんだ。
この事務所にも駆け込んでくる者がいるかもしれない。
そうなれば、優秀なマネージャーは選り取り見取りだからな。
大物で言えば、俳優の木下祐馬。
雛とも仲がよかったよな?」
雛は少しだけ憂鬱そうな顔を見せた。
「実はね…
祐馬さん、私と同じなの…
演技をしてこその俳優なのに、仕事が回ってこないって…
私と同じで年映画一本だけ…
不満が出て当然だと思うわ。
ギャラの改革、始まっちゃうかもね…
きっと今回のこのゲリラライブも、
半数の俳優たちには羨ましく思われちゃったかも…
この事務所だからこそ、できたことだと思うもの…」
「あとひとりくらいなら大物、雇ってもいいぞ。
だがギャラは今の半分だ。
それを条件として連絡してみてくれ」
木下が言い終わる前に、雛はスマートフォンを取り出していた。
「…えっ!
こっちに来ているんですか?
…えっ!
はい、会員制ですので、すぐにお迎えに参りますっ!」
雛は慌てて駆け出し、一階に降りた。
「もう来ていたようだな。
そして、懐かしい…」
皇が怪訝そうな顔を木下に見せた。
「面識、あるのか?
懐かしいと言うことは、最近ではないということだよな?」
「農家として施設が軌道に乗った時、訪問してくれたんだ。
実は、新聞にも載ったんだよ。
オレの両親が来て数ヵ月後だった。
木下さんも孤児院で育ったそうなんだ。
できれば引き取りたいって言ってくれたんだが、誰も首を縦に振らなかった。
もう家族として成立していたからな。
里子に出されるよりも、施設にいる方が幸せだと思ってくれていたようだ。
木下さんも納得されて帰られたんだ」
雛を伴って、木下祐馬が道すがら食堂に足を踏み入れた。
よく見ると澄美も後ろにいて出迎えていたようだ。
「源次郎君、ご活躍、いつも見ていましたよ」
祐馬が声をかける前に俳優たちは全員立ち上がっていた。
祐馬は笑顔で座るように手で指示を出した。
「はい、ありがとうございます。
どうぞこちらに」
「ああ、ありがとうございます。
ちなみに、人をブン投げた子、名前は確か…
真奈ちゃんだったか…
さらに逞しくなったな。
澄美君には挨拶をしてから謝られてしまったっ!
あーはっはっは!」
木下は澄美たちは何をやったんだと澄美に視線を送った。
澄美は真顔で礼をしたので、
きっととんでもないことをしでかしたんだろうと感じたようだ。
「何か失礼なことを。
申し訳ございません」
「いいや。
あれは家族を守る愛だ。
…澄美君はこの国の頂点に立った。
だがその上には君がいる。
本当にすばらしい青年に育ちましたね」
木下は少し照れた顔を見せ、丁寧にお辞儀をした。
「事務所を辞めて来ました。
エキストラでもいいので、どうか雇ってくださいませんか?」
「そうですか。
エキストラからと言いたいところですが、すぐに働いて頂きます。
ギャラは現在の半分。
正式な所属事務所は、現在建築中のビルの一階と地下にある劇場です。
まずは澄美と契約を済ませてください」
祐馬は笑顔で頷き、澄美と膝を付き合わせて契約を交わした。
「実はお願いがあるのです。
優秀なマネージャーを探しています。
できれば今すぐに二名。
心当たりがおありでしたら誘って頂きたいのです」
「そうでしょうな。
マネージャーから女優への転進。
夢が叶って何よりです。
すぐに連絡します」
祐馬はすぐに電話をかけ始めた。
数分間の沈黙のあと、祐馬は笑みを木下に向けた。
「私のマネージャーだった者と以前マネージャーをしていた者、
それに木下静香をスカウトしました。
静香はしばらくはマネージャーとして使って頂きたい。
佐知さんのような喜びを味合わせてやりたいのです」
木下静香は、男がらみで干されてしまった女優だ。
てっきり、女優は辞めていたと思っていた木下は、少し嬉しく思い、
祐馬にさらに好感を持てた。
「実はですな…
ひとつ言えなかったことがあったのです。
ああ…
これも言っておこう…
静香は私の姪です。
ちょっとした親心なのですよ。
だから、いい話しでも何でもないのですよ」
「いいえ。
木下さんは厳格な方だと聞いておりました。
見込みのない者に眼をかけるはずはないと思っています。
これは優しさではないと思っています。
これは木下さんの厳しさだと感じています」
「…はは、そうかもしれませんな…
そう言えば厳格と言えば…
澄美君は苗字が木下になっていたが、
以前は岩窟王のような苗字だったと…
色々な文芸作品に木下澄美の名がありますが…」
「はい、巌剛という苗字です。
戸籍上は今は私の子供です。
作家木下澄美も漣蓮子も澄美です」
祐馬は軽く自分の頭を叩き、『参った!』といった感じの表情を木下に見せた。
「とんだ才女で女王様だったのですな…
…もうひとつ…
木下源太は私の甥です。
だが、あの雰囲気ではいい出せませんでした。
今だからこそ言えることだと感じています。
静香も源太も、私の妹の子供です。
源太の父は誰だかわかりません。
ですが、目星はついています。
…政治家…」
今は引退している、女優だった木下有香里は祐馬の妹だ。
「蛙の子は蛙と言いますが、まさにその通りに育たれたようですな…
国会に進出する動きがあったようですが…」
「澄美のおかげで留まりました。
源太兄には、引き続き実家を守ってもらうことになっています」
祐馬は何度も大きく頷いた。
「…木の下にもうひとり赤ん坊がいたそうです。
その子が木下君ですか?」
「はい、そうです。
同い年ですが、源太を兄として育ちました。
私には名前がなかったのですよ」
祐馬は渋い顔を見せて軽く頷きました。
「政治家に実業家、そして国のトップ…
素晴らしい実家ですなっ!」
祐馬は大声で笑った。
「ただただ、腹いっぱい飯を食いたかっただけです。
おかげで逞しく育ちました」
祐馬は何度も頷いてから、今更ながらの自己紹介を始めた。
… … … … …
社員食堂となってしまったここ、道すがら食堂は、
社員たちの呆気に取られた顔で朝食の時間を迎えている。
社員たちはテレビではなく、多重化した監視カメラのモニターを見ている。
「予想以上の反応だな…
…澄美…」
「承知致しました。
厳しい入社試験を行ないますので…」
澄美はゆっくり歩み、トイレにその姿を消した。
「私も受けた方が…」
祐馬がきんぴらを端に挟んだまま呆然として言った。
「コネ入社ということで。
不本意でしょうけど我慢してください」
木下の言葉に祐馬が大笑いをして、
さもうまそうにしてきんぴらごぼうを噛み砕いている。
「どう考えてもこの日本の俳優の半数を受け入れるのは無理だからな。
だが、自分の事務所を閉めてこの事務所に来ている者もいるんじゃないのか?」
皇が苦笑いで木下を見ている。
テレビのワイドショーで、皇が言っていたことを放映していたのだ。
「そんなこと知ったこっちゃない…
路頭に迷ってもオレの責任ではない、自業自得だ…
そもそも、雛が気に入った者でないと雇う気はない。
…だが、さらに大きくなってもらいたいという親心があれば、
その限りではないけどな。
だが今は必要ないな」
昨夕、一足違いで祐馬と入れ違いになっていた麻里子が食堂に入ってきた。
「おはようございます。
…知り合いがたくさんいたわ…
みんなに拝まれちゃった…
…あら?
祐馬様っ!
おはようございますっ!」
麻里子は陽気な雰囲気で、祐馬の席の隣に陣取った。
祐馬は昨夕の経緯を麻里子に告げている。
「モニター、テレビにしてくれ」
木下が言うと、シャドウがリモコンでテレビに切り替えた。
「なかなかアナログな方法だな。
忙しいのか?」
「うん、ちょっとね。
命令があっても今は自分の手でやらないと無理だ」
「わかった。
出来ることは自分でしよう」
シャドウはネット環境のサーバーとしても稼動しているのだ。
常にこのような状態ではなく、今日の昼までだ。
木下から依頼があった件のデータ蓄積をしているのだ。
「木下、やっぱりちょっとマズイよ。
情報屋、撤退させてよかったね!」
シャドウが一枚のコピー用紙を木下に渡した。
「使いっ走り、やはり殺されたか…
自白したことと同等だな…
…社員たちはオレたちの話しを聞かない方がいいぞ。
この会社を辞めたくなるからな」
数名の社員が首を竦めたが、俳優陣に動揺はなかった。
全てを受け入れてこの事務所にしがみ付く覚悟を持っているようだ。
「だが、何かの攻撃をしたわけではないからな。
…情報を掴んだと同時に消されたか…
…街中で死んでいるから、殺害現場はここじゃないな…
空軍基地も近くにはない。
ここで死んでいるはずがない。
よって、クラークの手の者の仕業にほぼ決定だな。
隠すから亡き者にする必要があるんだ。
隠さなきゃいいのに…
だが、それほどまでに母親を愛しているとは思えんが、
やはり大統領選か…」
「そうだろうな。
今のところそれしか思い当たらない。
この件はもう?」
皇はどんぶり鉢を木下に渡した。
木下は素早く飯を注ぎ、皇に返した。
「無駄死にをさせるのもかわいそうだからな。
大統領になれなかったらオレ自らが探ろうか。
その方が、人死にを出さなくて済むからな」
「だがほぼ決定だろ…
若いが金持ちだからな。
問題はスキャンダルだけだ。
本来ならば、母親を隔離したいところだろうな。
だが自由に仕事をさせている。
目的があってのことか?」
前田が木下にどんぶり鉢を差し出した。
素早く飯を注ぎ素早く返した。
いつもよりもかなりの早業だったので、前田はかなり驚いたようだ。
「利用価値は十分にあるからな。
ハリウッドでも一二を争う女優だ。
年を感じさせない若さを保っている。
だが雛とは違う保ち方だな。
オレの目で見ると、年相応だと感じる」
「だが、まだ50になってないんだよな。
それにしては若く見えるが、確かに雛さんほどではないな。
やはり全体のたるみが年を感じさせるな」
「均一に弛んでいるから気になり難いようですね。
オレもクラークも、紗里奈には似ていないな…
多少は似るものだと思うんだが…」
「母親からの遺伝は、わかりにくいところに現れるようだぞ。
髪質、皮膚、性格…」
皇の言葉に木下も前田も深く頷いた。
『私の所属するSKセキュリティーアクター部は
私のために木下源次郎社長が設立してくださったのです。
全ては役者のギャランティーの高さです。
…私を始め、所属する全ての役者のギャラは半分に抑えられています。
そして、仕事を選びます。
それを許された事務所なのです。
ですので、今駆け込んでこられても、
ほとんどのアクターは門前払いになるはずです…』
テレビで、雛が今回の事態の説明をしているようだ。
舞町テレビから急遽電話で出演依頼があったので、
喜んで出演させてもらったのだ。
ほかのテレビ局はそれどころではなく、
SKセキュリティーとの示談交渉の方がかなり忙しいようだ。
視聴率も、何の問題のなかった舞町テレビがダントツで稼いでいる。
多くのスポンサーも舞町テレビに逆営業に来ているようだ。
民間放送局4社が揃ってスポンサー契約料の引き下げを発表したと、
テロップに流れた。
舞町テレビはこの報道に素早く反応して、雛をコメンテーターとして使うようだ。
『ですが思い切った手に出ましたね。
しかも4社協議の上ですか…
この舞町テレビは置いていかれたようですね』
レギュラーのコメンテーターが感想を述べた。
メインキャスターが雛の意見を聞きたいようだ。
『雛さんはこの事態、どう思われますか?』
『テレビ局でのドラマ作りについて関係があるとは思いましたが、
関係ありとしてお話させて頂きます。
…これって、俳優のギャラを下げるということでしょうか?
それとも役者の質を下げるということでしょうか?
あまりにも早計過ぎて、あとで後悔する事態になり兼ねないと感じました』
『ほうほう、なるほど。
あとで後悔する…
スポンサーが契約違反で訴えるなど、考えられますよね?』
『はい。
やはりドラマはその現場が引き締まる人たちが必要です。
それはベテランです。
そして中堅の役者も重要な役割を果たしてくれます。
脇の多い役者を集めても、きっと視聴率は取れません。
そして役者の質の向上もありません。
役者ではない人たちにも、すぐにそのことに気付くはずです。
無駄な足掻きという思いを込めて、後悔する事態と言ったのです』
「…おい、シャドウ…
雛の口調が澄美に似ているようだが…」
木下は核心めいた思いでシャドウに聞いた。
「うん、中継してるんだ。
問題ないよっ!!」
問題大ありだろ、と木下は思ったが、何も言わなかった。
皇と前田は苦笑いで首を横に振っている。
「雛さんが広告塔の事務所だからな。
別にいいんじゃないのか?」
前田は大笑いを始めた。
「ハイテク、というヤツですな。
このお子様のような方も、ハイテクらしいですな」
祐馬が興味津々でシャドウを見ている。
『ハイテク、というヤツですな。
このお子様のような方も、ハイテクらしいですな』
シャドウが祐馬の口真似をした。
「って事もできるんだよっ!」
シャドウの言葉に、祐馬は大笑いした。
「ハイテク過ぎて、買収されたり、恋をしたりもします。
人間と何ら変わらないロボットのシャドウといいます。
雛が芸名をつけた様で、本名は影と言う名です」
シャドウは木下の影に重なり、すぐさま姿を現し、祐馬に笑みを浮かべた。
「買収…
これは参ったな…
そして恋か…
誰に恋をしたのか興味津々ですなっ!」
「今日はまだ来てない…
…あっ!」
シャドウはすぐさま木下の影に隠れた。
「…ん?
どうしたんだい?」
「おはようございますっ!!」
元気な真樹が食堂に現れ、みんなから笑みを以って迎えられた。
「真樹ちゃん、早いな…
今日は何にする?」
「あのぉー、お好み焼きって…
実は今日、お好み焼きを焼くシーンがあって…
予習、しておこうかなぁーって思って…」
「それならシャドウに聞いてくれ。
オレも、数回しか作ったことがないからな」
真樹は木下のそばにより、シャドウと朝の挨拶をしてから、
一緒になってお好み焼きを作り始めた。
木下はウソを付いた。
B級グルメと言われるお好み焼き、ヤキソバ、たこ焼きなどはプロ級の腕前だ。
やはり調理人の興味として、試しに作ってみたところハマってしまったのだ。
皇の目を盗み、何度か造って食べている。
この道すがら食堂が、お好み焼き屋になることだけは避けたかったようだ。
祐馬は何となくだが、シャドウの意中の人が誰だかわかったようだ。
真樹とシャドウのふたりを見て笑みを零している。
フライパンで焼いているので、シャドウはフライ返しを使い簡単にひっくり返した。
真樹はかなり緊張しているようだが、
シャドウの見様見真似で一発で成功して喜んでいる。
「一回目だけは緊張するよね。
でも二回目はもう固まってて簡単だからそれで練習すれば、
フライ返しの上達も早いよ!」
「うん、わかったわ。
…ああ、凄くおいしそうっ!」
シャドウは楽しい時を過ごしている様だが、
バックグラウンドでは想像できないほどの処理をしている。
しかし、人間がすることであれば、ごく普通にこなせるようになっている。
「お好み焼きはどちらかと言えばソースが決め手なんだ。
たこ焼きは普通、出汁を入れるからね。
お好み焼きに出汁を入れても美味しいそうだよ!
…ふっくら仕上がる決め手は玉子なんだ。
粉物って言うけど、長いもや自然薯を入れても美味しいんだけど、
この場合、小麦粉とハーフにすることがお勧めだね!
理由は簡単、固まらないんだ。
それに、早く食べたい場合は、火を通してある食材を入れると、
固まれば食べごろだね!
おやつ感覚ですぐに食べられるから、真樹ちゃんにはお勧めかもしれないよ。
食べながら焼くだけでいいからね!」
「うん!
夜中にお腹がすいたらそうするわ!
でも、本当に太っちゃいそう…」
「そうだね、きっと太っちゃうと思うから、
あまり食べ過ぎない方がいいと思うよ!
でもおやつに油の効いたお菓子を食べるよりは太らないかも。
スパイスを効かせれば発汗を促すから、それほど太んないかもね!」
真樹は満面の笑みでシャドウを見た。
シャドウはまさに幸せの絶頂という感情を始めて体験した。
「ソースはオレの好みのものだが、かなり美味いと思うぞ」
メーカー品のもので2リットルのペットボトルを木下がストッカーから出してきた。
そろそろ底が尽きそうだが、二枚程度なら問題はない。
真樹は木下に礼を言って、焼きあがったお好み焼きにソースを刷毛で塗りつけた。
「ああ、ほんと!
ソースが凄くおいしい!
その美味しさがお好み焼きに回って、さらにおいしくなってる感じだわ!
家に帰ってからすぐに作っちゃいそう!」
真樹の隣でシャドウも食べ始めた。
木下以外は全員目を剥いた。
「ボクが食べ物を食べると、ほんの少しだけどエネルギーになるんだ。
そして栄養分はタブレットとして再利用出来るんだよ。
一家に一台ボクがいれば、きっと楽しいと思うよ。
…なーんちゃってねっ!」
シャドウはアピールをしたのだが、真樹はお好み焼きに夢中だった。
もう食べ終わりそうだったので、シャドウは自分の物を半分に切って真樹に渡した。
真樹は笑顔でシャドウに礼を言って、顔色を変えた。
「シャドウ君が作った方が、凄くおいしいんだけど…」
「ボクの方は出汁と長いもを入れたからね!
ふっくらしてて味もしっかりしているから、もうB級グルメじゃないと思うよ!」
「私、お好み焼き大好物になりそう!
ほんと、幸せだわぁー!
シャドウ君、ありがとう!」
真樹の笑みにシャドウは照れてしまったようで、頭を掻き始めた。
「おい、こら、源次郎。
何が数回だ。
かなりの数焼いただろ…」
皇はソースの残量で確信を得たようだ。
「ここはお好み焼き屋ではない。
知っての通り、ここから商店街を右に50メートル歩けばあるから、
そこで食ってきてくれ」
皇は何も言い返せないようだが、はたと気が付いた。
「この数ヶ月、ほとんどお前と一緒にいるよな?
いつの間に作ってたんだ?
オレが仕事をする時間は最大でも20分ほどだ。
その時間内に作って食っていたのか…
…そう言えば何度か青海苔の香りがしていたな…
磯辺揚げでも作っていたのかと思っていたがその形跡はなかったからな」
「…呆れるほど細かいことを覚えてるな…
確かにその通りだが…
…これはオレだけの楽しみだから取らないでくれ。
それに、定食のように大量には作れない。
もし作るのなら一枚限りだ。
だがこのフライパンで作るから、半分にしても食い応えあるぞ」
木下は直径50センチのフライパンを出した。
「ただし、具はほとんど何も入れないぞ。
お好み焼き自体の味を楽しんで欲しいからな。
オレはいつもそうやっておやつ代わりにしていたんだ」
「だがそんな巨大なフライパンで、裏返せるのか?」
前田が軽く放心しながら木下に言った。
「何も問題ありませんよ。
ただし気を抜くと、失敗しますけどね」
木下は手早くキャベツとネギを刻み、流水で洗った。
小麦粉に玉子6個と塩、コショウ、一味、紅ショウガ、
天かす、かつお節、おろした長いもを入れ、
水を入れずに解き始めた。
そのあとキャベツとネギを入れ、手早くかき混ぜ、
油を引いたフライパンを中火で温め、
形を整えながらフライパンに、先に合わせたタネを流し込んだ。
「いつもよりも少し小さかったな…
オレが食べるわけじゃないからいいけど…」
皇と前田は立ち上がって、ただただフライパンを覗き込んでいるだけだ。
焼き面が少し硬くなったことを見計らって、
軽くフライパンを回しながらフライ返しをお好み焼きの下に入れ、
一気に持ち上げ綺麗に宙で裏返った。
落ちてきた巨大なお好み焼きを柔らかくフライパンで受け止めた。
「うまくいったな。
形を整えるまでもない」
真樹とシャドウが拍手を送っている。
約5分後、焼きあがったお好み焼きを超大皿に乗せ、皇と前田の席の間に置いた。
「ソース、青海苔、マヨネーズはお好みで」
容器に入った三品をカウンターに置いた。
「油はサラダ油だ。
ブタラードでも試したがそれほど味は変わらない。
だが、ヤキソバにはブタラードがあうな。
このフライパンなら、10人前ほど一気に作れそうだな」
「さらに食欲をそそらせるな…
…これ、かなり美味いな…
言っていたようにやはりソースか…」
「かなりの安物だが、試しに買って驚いた。
さすが一流企業はブレンドがうまいな。
このソース、二キロで358円だぞ。
信じられないだろ」
皇と前田は感心がない様で、黙々とお好み焼きを食べている。
「言っておくが、喰い終わって10分後に腹に来るぞ。
昼飯、いらないかもな」
「大丈夫だ。
賄い定食なら食える」
前田は自身満々に言った。
ふたりはあっという間に巨大なお好み焼きを平らげた。
「お好み焼きなんて久しぶりだったな。
いや、堪能した!」
前田はかなり上機嫌になった。
「そうだ、言うのを忘れていたが、
ここで食った料金は給料から引くからな。
そうしないと、ほかの社員に示しがつかないからな」
「…それは確かにその通りだ。
ここの飯代で、給金飛んで行きそうだな…」
「普通の給料ならね。
この部署は危険手当が半端ないですから、
ほとんど問題ありませんよ」
前田と皇は苦笑いを浮かべ、同時にタバコに火をつけた。
… … … … …
木下がただひとり残された道すがら食堂に、真奈美がやってきた。
「休憩かい?
コーヒーでも入れよう」
「どこが、好きになったの?
ただただ、綺麗なだけじゃない。
一皮剥けば、女なんてみんな同じよ」
「そんなことを言っても、澄美と真奈は恋愛対象じゃないぞ。
澄美は親友で、真奈は妹だ」
「…答えて…」
真奈美の言葉はかなりの強制力があった。
「…一輝とは、出会ってもう五年以上になるが、妹がいるとは知らなくてな。
半年前、いきなり連れてきたんだ。
目の前に越前雛がいたんだぞ。
信じられなかったなっ!
まずここで一目惚れだ。
…先、言ってもいいか?」
真奈美は拒絶しそうになって首を小さく横に振ったが、
それを否定するように首を縦に振った。
「オレは知らなかったのだが、雛はオレの事を見ていたそうだ。
その方法は最近知った。
雛は今まで誰とも付きあったことがなかったそうだ。
38にもなってまだ経験ないそうだ」
「…38…
ウソ…」
「そう、信じられないよな。
普通に見てもハタチそこそこだ。
どう見ても30にはなっていないと誰もが思うはずだ。
その秘密は昨日知った。
…澄美から、何も聞いていないんだな。
いつも通りといえばそれまでだが…
「そうね、いつも通りだわ。
聞かないと教えてくれないもん…」
「デートはいつも雛のマンションだった。
ひと目に付くから外で合うことは控えていたんだよ。
雛はよくしゃべるんだ。
それが愚痴ばかりでな…
女優の亭主になると、ずっと聞かされるだなと思って、
離婚して当然かとも思ったな。
そして雛の場合、全てに再現の演技が付くんだよ。
まさにひとり芝居だ。
それが素晴らしくうまいんだ。
オレは飽きることなく毎回見ていたんだよ。
ここまでのオレは、雛に一目ぼれしただけだ。
それ以外には特に何もなかった。
こういった場合、当然のごとく、どちらからか襲うことになるんだが、
オレはしなかった。
その理由、わかるか?」
真奈美は首を横に振った。
「オレは越前雛に一目ぼれしただけだ。
皇巫女はまだ出てきていない。
…という理由だ。
オレはそれを迫ったが、淋しそうな顔をするだけだ。
その顔にオレはときめいてしまった。
越前雛だが、女優ではない越前雛に惚れたようだな。
…皇巫女はまだ5才だ」
「え―――っ!
…ウソ…」
真奈美は両手のひらで口をふさいで目を見開いて驚きを表現した。
「昨日確認した。
澄美も知っている。
皇巫女に戻ると、身体が幼児化するんだ。
これ、一輝も知らなかったんだぞ。
…だが巫女は33年間の越前雛の記憶を持っている。
直接聞いてはいないが、
雛は霊媒師で、
そういった能力によって若さを保てる血を受け継いでいるようだ。
越前雛は、もうひとりの皇巫女だ。
かなりややこしいが、オレの知った雛の秘密だ。
…どうだ、かなりミステリアスだろ?
そういった雛にまた惚れた。
今の雛の年になったら、オレと一緒に年を取ろうと言ってプロポーズした。
今のところ、これが全てだな」
「…無理やり、襲うしか手はなさそうね…」
真奈美の眼が燃えていた。
「その時オレは、雛を思い起こそう。
それでいいか?」
真奈美は木下の知る妹の真奈美に戻って、涙を溢れさせていた。