定食
2
ここは道すがら食堂。
どこにでもあるごく普通の定食屋だ。
だが今日は何故だが店内は華やかだ。
「…雛さん、やっぱり別人だが…」
「…オレもそう思います…」
前田が声を潜めて店主である木下に言い、木下もそれに倣った。
昨日、前田が二度ほど目にした女優の越前雛は、
今日は富山真奈美として来店してきたのだ。
この近辺での野外ロケがあり、
真奈美は木下の知り合いとして共演者である主要な女優陣を連れてやってきた。
この道すがら食堂は、ニ時から五時までは休憩と称して一旦店を閉める。
オーナーである木下のビルが間もなく完成するので、
現場作業員の姿がほとんど消えてしまったからだ。
しかし新たなビルが間もなく着工するので、
現在はほんのひと時の平和な時間となっている。
雛はこの休憩時間の情報を、兄である皇から仕入れていたようだ。
「木下さん、お勧めって、なあに?」
真奈美こと雛がコケティッシュな上目使いで木下に聞いた。
木下は軽く笑みをうかべて、ごく普通に客の対応をするようだ。
「オレの一押しはローストンカツプレートだよ。
もしくはフライドチキンプレートだね」
「裏メニューとか、あるんじゃ…」
「従業員用の賄いなら出せるが、一食一万だよ」
木下は黄色い声で女優たちに詰め寄られていたが、
一万は冗談ではないと言い放った。
「ざんねぇーん…
そんなにギャラ、もらってないもん…
…ねえねえ、ここに来る素敵な叔父様、
いつも定食ダブルでって食べてるけど、
料金ってどれくらい違うの?」
「50円安くしているよ。
だから600円」
「一体、どんな金銭感覚よっ!」などと女子高校生風の女優たちに
木下は言われながらも楽しそうだ。
「…そう、だったのか…
ずっと、ダブルにしておけばよかったな…」
「これからは毎食ダブルにしますよ」
前田は笑みを浮かべ、店の入り口の扉を見た。
「なんだ雛、来てたのか…」
店内に入って来た皇は、『しまったっ!』といった顔を見せ、
知らん振りをしたままいつもの席に付いた。
女優たちも皇が真奈美を見て雛と言った事がかなり気になったようで、
女優たちに迫られてしまった皇は頭を抱え込んだ。
「お兄ちゃん、久しぶりに寝たから頭ボケちゃったんでしょ。
いいわ、もう…
…越前雛です。
騙していてごめんなさい…」
真奈美こと雛はみんなにお辞儀をしてすぐに上げた顔は越前雛となっていた。
「…やっぱりオカルト女優決定だ…」
「…そうですね、決定です…」
前田と木下はもう決め付けたようだ。
だが皇は雛を見て苦笑いを浮かべただけだ。
「源ちゃんっ!
賄い定食とローストンカツ定食っ!
絶対に美味しいから、みんなも一緒に食べてっ!」
女優たちは、
自分たちの神とも言える越前雛を目の前にして緊張を始めてしまったようだ。
「これくらいのことで動揺してどうするのよ。
さあ、いつも通りに、ねっ!」
「…きっと、これくらいなどとは思わないと思うんだけどな…」
「…はい、オレもそう思います…」
木下は前田とのヒソヒソ話を終え、まずは賄い定食を出し、
続けざまにローストンカツ定食を五食出した。
「店主のお勧めは、まず端っこを食べてみてください。
きっと、驚きますよ」
「私、脂身ダメなんだけど…」などと言いながらも、
みんなは揃って店主の言った通りトンカツの端を切り、
軽くソースをつけて口に運んだ。
一瞬、女優たちは怪訝そうな顔を見せたのだが、
「んん―――っ!!」と言って、今度は逆側の端を切り口に入れた。
「源ちゃん、なにこれ…
凄く甘くてとろけるのっ!
確かに脂身って甘いんだけど嫌な匂いとかが嫌いな子が多いのに、
凄く美味しいわっ!」
「肉が美味いからだよ。
九州産の黒豚なんだ。
この肉屋の店主は気に入らないが、
かなり美味いので契約して仕入れているんだ」
「おい。
賄い定食と、ローストンカツプレートダブルだ」
皇が源次郎を横目で見ていらいらしながら言った。
「お前、どれほど食うんだよ…
…前田さんもですか?
今食べたばかりでしょ…
…わかったよ。
ちょっと待ってろ…」
木下はふたり分の定食をすぐに作って、皇の目の前に差し出すと、
主演女優の香坂さつきが携帯電話で写真を撮り始めた。
「ごめんなさいっ!
私の、食べちゃったから…
お兄さん、どうもありがとう!」
皇は少し照れたような顔をしてさつきに笑みを向けた。
皇は昨日の様に、一枚は何もつけずに驚きながら食べ、
そして二枚目は笑みを浮かべてゆっくりと食べ始めた。
「今日は最高の雰囲気だね。
女子高校生に囲まれている定食屋はあまりないと思うな…」
「源ちゃん、さつきちゃんだけよ現役って…
ほかのみんなはハタチ越えてるわよ。
それほどいい役者が若い子にはいないからね。
学園ものの場合、普通こうなっちゃうものなの」
「…そう、なのか…
だが、みんなそう見えないほど役にハマっていると思うよ。
一番の驚きは雛だけどな。
…みんな、雛の年齢、知りたいか?」
木下が言うと女優陣は一気に沸き上がり、雛を困らせた。
当然のことながら、雛は実年齢をどこにも漏らしてはいないのだ。
「ま、今回は富山真奈美が越前雛だったというサプライズだけで十分だろ?
さらに仲良くなったら、知る機会も増えるだろうな、さつきちゃん」
「はいっ!
同じ事務所で、それに、ニ時間ドラマのヒロインも決まったので、
本当にすごく嬉しいですっ!」
女優陣はさつきに拍手を送った。
しかしさつきは憂鬱そうな顔を見せた。
「でもこのドラマ…
雛さんがヒロインだとばかり…」
「いいの、いいの。
主演が私だから!」
さつきは驚きの表情を見せた。
「ですけど、主演、男性ですよっ?!」
「心配、しなくても大丈夫なんだっ!
ボクが、みんなを守って見せるからねっ!!」
雛は完全に少年になっていた。
声はもちろんだが、姿も少年なのだ。
雛は一旦俯いてから顔を上げた。
「よくも、よくもミーナを…
お前ら、絶対に許さねぇーっ!!
ダリャァ―――ッ!!」
今度は青年の声に替え、姿も青年になっていた。
雛はお辞儀をして、越前雛に戻った。
店内は静まり返り、
前田が拍手をしてから思い出したようにみんなが手を叩き始めた。
「あーんっ!
雛さんっ!
守って欲しいですぅー!!」
「そうね。
お芝居でもそれ以外でも、守ってあげるわっ!
…かなりイジメられていたそうね。
特に中堅女優に…
でも、それも修行よ。
みんな、通っていく道だし。
…だが見つけたら、容赦はしねえ…
なーんちゃってねっ!」
「はいっ!
ありがとうございます!
本当に心強いですっ!!」
いい雰囲気で昼食を終え、雛は真奈美に戻り店をあとにした。
「…オカルトな妹、さらに元気になったな…」
前田が皇に向いて苦笑いを零した。
「そのようだな…
女優としても更に磨きがかかることだろう。
しかし、あの早代わり…
一体どういった仕組みなんだ…」
皇が自分の妹ということを棚に上げ首を捻った。
「オレもそれを聞きたいよ…
だが、言ってくれるまで待つことにした。
何となくだが、聞かない方がいいと思っただけなんだがな…」
木下はふたりに笑みを向けた。
「そうか。
そうしてやってくれ。
オレもそう思ったんだ」
皇は目を伏せ、笑顔を見せた。
「さて、そろそろ始まりますぜ。
注目の国会答弁…」
今回、皇が爺さんと呼ぶ警視庁警視総監の皇翔樹が
国会の席上である報告をすることになっている。
木下たちの働きが大きかった事態だったのだが、警察の手柄として報告するようだ。
『広域暴力団、鵺島組が解散しました…』
翔樹の声に、議員たちが水を打ったような静けさとなった。
議員たちは一斉に携帯電話で事実確認を始めた。
議員の中にも、鵺島組と関わりのある者も多いのだ。
『議会中はケイタイを切れっ!!
叩き壊すぞっ!!』
翔樹の一括が議会室内に響き渡った。
『今回のこの働きは民間の協力あってこそ実現しました。
この先、広域暴力団は根こそぎ解体して行くことでしょう。
この件により、麻薬ルートは八割が壊滅する見込みであります…』
「爺さん、かなり厳格だな…
昨日ここで見た時はかなりの好々爺だったのだが…」
前田が目を細めて笑みを浮かべた言った。
「オレは爺さんの怒鳴り声、始めて聞いたぞ…
かなり嬉しい出来事だったんだろうな。
だから、オレに注目しろ! ということなんだと思うぞ…」
「だが、警視庁からって珍しいよな。
普通、警察庁だろ…」
「そう。
今回だけ、代わってもらったようだ。
爺さんの教え子だからな刑事局長…
それに、今のように怒鳴りたかったんだろう。
そしてまたさらに敵を作ったな…
どうしようもない爺さんだ…」
『尚、私事で申し訳ないのだが、
この国会のマスコットガールである我が孫娘、
越前雛が結婚することになった。
挙式は秋だ。
以上だ』
国会に関係のない答弁をしたのだが、全く罵倒の声が上がらず、
議員たちはまた携帯電話を触り始めた。
議員たちも越前雛を派閥に獲得してイメージガールとする事が、
今後の選挙に大いに役立ってくれることになると知っているのだ。
「…ダメだろ、言っちゃ…
全国中継だよ…
だが、かなり嬉しそうだったな…
しかし、澄美は警視総監に口止めしなかったんだな…
おかしいな…」
木下がかなり戸惑いながら首をひねっている。
「そうだ、おかしい…
何を企んでいるんだ…
…これも、何かの策略か?
事務所、替わったばかりだからな。
明るい話題づくりか…」
皇の言葉を聞いて木下は納得したように笑みを浮かべた。
「だが、いずれにしてもこの行為は、
澄美はマゾとしか思えないよな…」
木下は苦笑いを浮かべた。
「いくら事務所と役者のためだとは言え、一番嫌なことを全国中継させたんだ。
…そうだ、逆にさせたんだ。
次のドラマの視聴率、前代未聞になるかもな…
獲得した舞町テレビは大騒ぎだろうな…」
木下も前田も皇の言葉に頷いた。
「オレの仕事はしばらくなしか…
昨日の奇襲で、もう諦めたのか?」
「警察が出張っていたからな。
いつの間に呼んだんだか…」
皇が鋭い視線で木下を睨んだ。
「いいじゃないか、捕まえやすくて…
警官が何も言わないのに、銃を地面に落としていたそうだぞ」
木下は愉快そうに少し笑いながら言った。
「銃に跳ね返したのか?
なかなかの優れもののようだな、レーザーの壁…」
「そう。
昼間だからレーザーが見えないからな。
夜でなくて助かった。
まあ、その時の方法も考えていたんだけどな」
「一番大きいところは潰したから、後は楽だな。
だがその先が大変だ。
その時はオレなんかよりも前田の旦那のひとり舞台かもしれないな」
「奇襲ならひとりの方が簡単だが、マフィア相手はちと荷が重い。
できなくはないけどなっ!」
前田は胸を張って大いに笑った。
「前田さん、嫌な情報が入って来たんですけどね。
グラン・ロドリゲスが死んだそうです」
前田は口をゆがめて苦笑いを浮かべた。
「なんだ、折角助けてやったのに…
死因はアル中か何かか?」
前田は全く表情を変えずに大きく笑った。
「その通り。
それに薬物もやっていたそうですが…
真実でしょうか?」
「…なるほど…
だから嫌なニュースなんだな。
オレも一瞬だが思ったぞ。
…オレに復讐しようと自らを殺したか。
だがオレは更に地下に潜ったのと同等だからな。
探しに来ればすぐにわかる。
だが、別の手もあるはずだ…」
前田は満面の笑みを木下に向けた。
… … … … …
「お爺ちゃん、なんてことを…」
雛はかなり嘆かわしい言葉をさも嬉しそうに言った。
「オレたちも驚いたが、澄美の手のひらの上なのは変わりないと思うぞ」
雛は面持ちを神妙な顔に変え、木下を見た。
「さつきちゃんももう驚くのも疲れただろ。
…いいお姉さんができてよかったな」
「…エ…
SKセキュリティーの会長さんが、私たちの社長さん…」
さつきはまだ夢見心地のようだ。
「まあ、それなりに大きくなって、君たちとも出会えた。
オレは幸運だと思うぞ」
「いいえっ!
私の方こそっ!
これからも、精一杯頑張りますので、よろしくお願いしますっ!
そして、ご婚約、おめでとうございますっ!!」
今、木下たちはいつもの様に道すがら食堂にいる。
この狭い店内で、新芸能事務所の親睦会を開催しているのだ。
「美波ちゃんは仕事なんだね。
会えなくて残念だよ」
「そうね。
きっとこの事務所でも一番の稼ぎ頭だもの。
顔を合わせる機会は、現場でしかないと思うわ」
雛は機嫌が治ったようで木下に笑みを向けた。
「そうしようか。
オレも、社長として少しはでしゃばらないとなっ!」
「…私にも役を頂いて、本当に嬉しく思います。
ありがとうございます」
木下に頭を下げた上杉麻里子はベテラン女優だ。
落ち着いた雰囲気が好感を醸し出す、どんなドラマの中にも必要な登場人物だ。
年齢は雛と同じく38才だが、どう見ても雛の姉か若い母親にしか見えない。
「いえ、これは麻里子さんの実力です。
しかもはまり役だと思いましたよ。
台詞も多いので、きっと更に仕事も舞い込むことでしょうね。
アクション大作だが、台詞も多い。
役者としてはかなり楽しいと思いましたが、
そう思うのは雛だけですかねぇー…」
「がんばって、NG控えますっ!!」
さつきは勢い込んで言い、大きな笑いが店内を包み込んだ。
「おっと、前田さん。
予想外にお客さんのようです。
どうも、申し訳ありません…」
「いや、全然構わないぞっ!」
前田は巨体を小さくして、素早く店の外に出た。
みんなは前田を見送り、不思議そうにして店のドアを眺めている。
「今の、瞬間移動?」
さつきの言葉に誰も笑う者はいない。
あまりにも素早かったのでみんなは呆気に取られたようだ。
「瞬歩と言う中国武術の足技だ。
移動、攻撃、防御全てに特化するからな。
あれを極めた者は、戦場では死神に嫌われるはずだ」
「…ああ…
お兄様も俳優になられた方が…
凄くいい台詞回しでしたわ」
麻里子は早速皇に目をつけたようだ。
皇も満更ではないように見える。
「そして色男。
何か話してくれよ…」
木下は視線を正面に移した。
「…は、はあ…
どうも、こんにちは。
結城純也です…」
「知ってるわよっ!!
あははは!!」
さつきが大声で笑った。
純也はハタチを軽く越えているのだが、
まだ少年のように初心に見える。
だがその演技は凄まじく、今の少年のような大人しさはない。
さつきと純也は現場で会う機会が多いようで友達以上に仲がいいようだ。
「それにもう夜だよっ!」
さつきはさらにコロコロと大声で笑った。
「いい事務所だと思うわ。
今まで役者仲間と会社でこうやって会うことなんてなかったもの…」
雛が感情を込めて薄笑みを浮かべて木下を見た。
「それは澄美のお手柄だからな。
雛のお気に入りが勢ぞろいしたと思っていいんだ」
「…でも、真樹ちゃん…」
純也が少女のような声と顔で木下に言った。
「本人は喜んだが事務所が首を縦に振らなかった。
どうやら、女優として鮫島真樹に惚れ込んでいるようだな。
だがこの場合はどうしようもないことだ。
だがいずれ、ここで顔を合わせる事にもなるだろう」
店の扉が勢いよく開き、全員の視線が一気に集中した。
木下に全く感知できないほどの素早さだったのだがそうではなく、
どうやら木下の影が、入って来る者に興味を示したため、
木下に知らせることを怠ったようだ。
「事務所、辞めて来ましたっ!
一から頑張りますので、どうかよろしくお願いしますっ!!」
今話題に出たばかりの鮫島真樹が店に飛び込んできたのだ。
雛が感激して、真樹を抱き締めた。
「一からじゃなくていいの。
もう、役はあるから、心配しないで…」
「…まさか、あの、ドラマ…
ウソ…」
真樹は涙を流し、雛を抱き締めた。
「この事務所所属の俳優は全員出演するのっ!
この事務所のための、私たちの初仕事なのっ!」
「…はい…
はい…
がんばりますぅー…」
真樹は雛を強く抱き締めた。
雛を姉と慕う鮫島真樹は、若手と中堅の間のような位置にいるが、
どのドラマの脇役でもハマり込む、なくてはならない存在だ。
だが時には主演も張れる、雛の一番のお気に入りの女優だ。
「そうだ、頑張ってくれ。
お前たちの真の社長の原作だからな。
はっきり言ってなんとでもなる。
知っての通り映画化の話も着々と進んでいるからな。
しばらくは喰いっぱぐれることはない。
…ああ、前田さん、お疲れさまでした」
「…全く疲れなかったな…
最近の若者はどうなってるんだ、純也君…」
前田は純也の肩に優しく手を置いてから、カウンター席の一番奥に座った。
「…はあ…
前田さんのように逞しくなりたいです…」
「役の上ではあれほど大胆な演技ができるのに、
本当に面白い男だな…」
前田は笑みを見せ、純也の頭を撫でた。
純也は照れくさそうにしてはにかんだ。
「…お父さんのようで嬉しいですっ!」
「純也は母子家庭だったな。
なんならお父さんにしてもいいんだぞ。
そして、鍛えてもらえ。
会社の社長だし、
前田さんの子供たちは工事現場で働く逞しい若者たちばかりだからな。
役作りのためにもきっと役立つようにも思うな」
純也は笑顔で木下に頷いてから、前田と話しを始めた。
「聞きたいんだけど…
SKってどんな意味があるの?」
雛が社名に興味を示し、木下に聞いてきた。
「セキュリティーナイトだ。
安全安心な騎士、という意味だな。
昔はセキュリティーナイトという社名だったのだが、
頭文字だけを残したんだよ」
「そうだぁー…
騎士のナイトは発音しないけどKが頭に付くもの…
そうだったんだ…」
「だが、そうではなかった。
とオレは思っているんだ」
木下の言葉に、全員が注目した。
「スミ・キノシタでSKだと、昨日始めて気付いた。
澄美はすでに、オレの女房気取りだったということだ」
雛は呆れた顔をしたが、かなり信憑性が高い話しだと思ったようだ。
「もし事務所のことを聞かれたら、
セキュリティーナイトの宣伝をしておいて欲しいな」
「はい、社長っ!」
社員たちの元気な声が、木下には嬉しく思えたようだ。
「…バレて、いたようですのね…」
澄美がトイレから出てきた。
抜け道を通ってこの店にやってきたようだ。
「入り口から入ってこいよ。
そこ、勝手口じゃないぞ…」
「無駄に広いトイレで助かっています」
「それはオレの趣味だ。
トイレが狭いのは、客商売をする上で客に失礼だと思ったからな。
特にここは飯屋だ。
当然、利用価値は大きいはずだ」
「そう言えばオレ、入ったことなかったな…」
前田は立ち上がり、純也もそれを追った。
ほかの社員たちも前田と純也について行った。
前田は戻ってきて、ひたすら首を振っている。
「店よりも広いんだな、トイレ…」
木下は前田の言葉に笑顔で頷いた。
皇は苦笑いを浮かべている。
「女性用も同じ広さだからな。
だが、使っている形跡はほとんどないな…」
気を使ってなのか、女性社員が次々とトイレに駆け込んで行った。
店内の女性が澄美ひとりとなった。
「スミ・キノシタです」
澄美は頬を朱に染めた。
「好きに言ってろぉー…」
木下は呆れた顔を澄美に見せた。
皇は腹を抱え、大いに笑った。
「だが澄美ちゃんは何故そんなにしてまで自分を隠したんだ?
真奈美ちゃんもそうだが…」
「社長の心が見えていたので、言えなかったのです…
ですが、時が経つに連れ、想いが募るばかりで…」
「おおー…」と男性陣が関心の声を上げた。
純也は澄美に拍手を送っている。
「俳優としてとってもいいお手本のような感情の込め方でした。
やっぱり、作家さんは出てくる言葉が普通の人とは違うようですね!」
「純也君、ありがとう。
こんなことばかり考えていたら、いつの間にか作家になってたの。
今、純也君が演じてくれている、
『ナデシコの秘密、ケラウエラの奇跡』も私の作品なの…」
純也は驚き、カバンから台本を出した。
「原作…
木下澄美…
ああ、ほんとだぁー…」
男性陣は大きく目を見開き、そして肩を震わせた。
「いつもは原作者の先生は必ず現場に来てくださっていたのですが、
今回のこの作品ではその気配を感じませんでした。
監督も凄く残念に思っていたようなんです。
言い触らしてもいいですか?」
「…恥ずかしいけど、お願いするわ…
私、仕事だと何とも思わないんだけど、対人恐怖症のようなの…
一度会って打ち解ければ、何とも思わないんだけどね。
そうやって私、強い女を演じてきたの…」
澄美は木下を見た。
木下は純也から台本を借りて、真剣な眼差しで読んでいる。
「スケールの大きさが違うだけで、オレたちが題材じゃないか…
そして、お前の妄想、入り捲くりだな…
今日来ていない大山美波が主演なんだな。
美波に想いを乗せたか…」
「若手で一番の役者だと思っています。
演者は美波だけ指名させていただいたのです。
私のイメージ通りの演技をしてくれているので、
現場に出向く必要はなくなったのです」
「きっと美波ちゃん、泣いて喜びますよ。
…あ、ごめんなさい…」
真也は素早くスマートフォンの画面を見てすぐに耳に当てた。
「美波ちゃん、すぐに来てよっ!
いい話しがあるんだっ!
…10分だね、わかったよ!
もうすぐ、来るそうです。
今、タクシーに乗り込んだそうですよ」
純也が満面の笑みで澄美を見て言った
木下が苦笑いを浮かべながら言い、純也を見た。
「忙しくて、ゆっくりしている暇もないんだろうな…」
「現場のストレスはこうやって会って発散しているんです。
…熱愛疑惑、出ちゃいましたけど、あはは…」
「ホテルで食事をしていただけなんだろ?
パパラッチの野郎ども、叩き斬ってやるっ!」
皇がトンカツ用のナイフを軽く振って本気の顔で純也に言った。
「…はあ、是非お願いしたいところです…
マネージャーもいたのに、写真に画像処理までしていたんです。
悪質過ぎますよ…」
純也はすがるような眼を澄美に向けた。
「この先、そのようなことは起こらないわ。
この会社がフルにバックアップして、あなたたちを守るから。
もう数件成敗したから、明日くらいからお詫びの番組が流れるはずだわ。
それとは別に、SKセキュリティーが全テレビ局を10分間だけ乗っ取ったの。
だから、視聴率100パーセントのお詫び番組になるのよ!」
「かなリ派手なバックアップ方法だが稟議、降りてないだろ?
オレ、その件は知らないぞ…」
「私のポケットマネーで買い取りましたっ!!」
澄美の堂々とした言葉に、木下は呆れ顔を作った。
「…どれほど金持ちなんだ…
オレなんて貯金ゼロだぞ…」
「いいえ、大丈夫です。
私が溜め込んでありますので、大いにお使い下さいませ」
澄美が木下に通帳を手渡した。
表紙には木下源次郎の名がある。
開くとそこには、信じられないほどの金額が記入されている。
「…なるほどな…
こういうことをしながら、女房気取りに変身していったわけか…
かなり納得したな…」
「…そう…
銀行に行くたびに、心が躍るような気分になって…
ついに支店長自らが出迎えてくれるようになりましたわ!」
「ただでさえこの銀行はオレ達に頭が上がらないからな。
使われているはずなのだが、使っているように思えてしまう…」
「こちらの銀行の頭取にも就任致しました。
これからは、何もかもが思いのままですわっ!!」
普通は驚く場面なのだが、木下は全く動じなかった。
「残念だが、オレだけは思いのままにはならないぞ。
…お前これは犯罪だぞ…
虚偽を申し立てたが、訴えは起こさなかったけどな」
木下は懐から一枚の紙を出し、澄美に渡した。
「…やはり、ダメですよね…
申し訳ございません…」
「オレは結婚しないと言ったはずだ。
…お前、オレの会社辞めるか?
いや、よく考えるとオレには何のチカラもないな…
志半ばだが、実家に引っ込むのもいいだろう…
真奈とふたり、農業に明け暮れるのもまた一興だな。
そうだこれはオレの運命だ、そうだ、そうしよう!」
澄美は泣き崩れ、全てはなかったことにと言い、木下に縋った。
「一途な思いは受け止めているが、オレの想いを曲げることはないな。
それだけは諦めてくれ。
それに、新たな社員の足を引っ張ることはオレにはできない。
だが、木下姓を名乗りたいのなら方法はあるぞ」
木下は一枚の紙を懐から出し、澄美に渡した。
「…養子、縁組…
私、社長の娘ですか?!」
この場にいる全員は、澄美と手に持ている紙をぼう然とした顔で見ている。
「なんなら木下姓のやつの嫁に行け。
形だけなら木下姓を名乗れるだろ?
お前の本懐ではないだろうが、結果は同じだ」
「この届け、提出いたします、お父様っ!!」
澄美は喜びと興奮を隠しきれずに言い放った。
「変わり身、早いな…
だがいい高揚感だ。
みんなの足だけは引っ張ってもらいたくないからな。
それだけは重々承知して欲しい。
…みんなも呆けてないで座れ…
SKセキュリティーのSKはスミ・キノシタだと言い触らしてもいいぞ。
オレの娘になってしまったがな…
巌剛の名前、誰かに譲って欲しいところだよな…」
「嫌いな苗字ですので、真奈だけに背負わせますわ…」
「お前、いつもそうしていたからな。
だが真奈は笑顔でそれを受け止めていた。
きっと今回もそれに似たようなことなんじゃないのか?
本心はきっとかなり辛いんだと思うぞ…」
木下は軽く澄美を睨んだ。
「実は、それだけは感じないのです。
好んで東京に出てくるつもりの様で、
毎日溢れんばかりのメールが来ます…」
「そうか、安心した。
だったら何も問題はないな。
住む家、どうしたんだ?」
「隣の家を買い取って、現在リフォーム中です。
広い庭を農地にしました。
ここでも農作業をするつもりのようです…」
「そんなことやってる時間…
まあ、あるだろうな。
今だって寝てるのか寝ていないのかわからない生活だからな…
売れっ子芸能人と農家の方は、同じような生活をしているとオレは思うな…
真奈美はそういうタフなヤツだ。
付き人に当った者は、安心して縋りついていていいからな。
だが、オレの起こした事がずっと続いていることは嬉しいことだよな…」
「ご飯を気兼ねなくたくさん食べることだけが望みでしたから。
今もその思いは受け継がれておりますわ…」
「よしっ!
オレも今日は飯を食うぞっ!
少々恥ずかしいので、今までみんなの前では食わなかったからな。
澄美も一緒に食え!」
「はい!
お父様っ!」
木下の影がその姿を現し俳優陣を驚かせたあと、自己紹介してから素早く調理をして、
木下と澄美に賄い定食を出した。
ふたりは競うようにして食事を始め、お互いのおかずを取り合っている。
前田は納得したようにしてふたりを笑みを以って眺めている。
「あの手捌きの本質はここにあったんだな。
生きるか死ぬかの戦いが、
このふたりには食だったということなんだろうな」
「どこで鍛えていたのか気になっていたが、
もうすでに持っていたんだな。
だが、オレたちが少食のように思えるが…」
皇の言葉に、前田は深く頷いた。
「オレはいつもごく常識的な思いでお前たちを見ていた。
だが今は言おう。
お前たちは少食だ!
…こら!
皿ごと取るなっ!」
… … … … …
「久しぶりの満腹感だ!
やはり食は最高だなっ!」
「化け物社長よ…」「そうだな、間違いなく物の怪だ…」
社員たちがヒソヒソ話を始めた。
「なんとでも言えぇー…
これがオレの願いだったんだ。
それがやっと叶ったような気がするな…」
木下は感情を込めて言った。
「だがお前、飯だけでよく食えるな…
やはりおかずがあってこそだろ?」
前田が呆れた顔を見せた。
「それはその通りなんですけどね。
オレにとって飯もメインディッシュなのですよ。
…あの握り飯、うまかったなぁー…」
「…悔しいわ…
私が造るといつも真奈ちゃんに笑われて作り直していたもの…」
「あれって真奈の手作りだったんだな。
…そうか…」
木下は柔らかい笑みを天井に向けた。
雛が落ち着きなくカウンターの中に入ってこようとしたので、木下が止めた。
「慣れないことはしなくていい。
更に凹むぞ…」
木下が言うと雛は冷たい視線を木下に向けた。
「そうよ、わかってるわ…
でもね、凹んでこそそれを知り、演技に役立てるのっ!」
「でもね、もうご飯ないよ。
今日は店じまいだね!」
影の言葉に皇が一番に笑い転げた。
その皇を雛が怒りを込めた拳で叩く振りをした。
… … … … …
親睦会は終わり、英気を養うため新入社員たちは夜の街に繰り出して行った。
雛の行きつけの店があるので、そこなら有名タレントが店内にいても安全なのだ。
当然、
SKセキュリティーのSP部に所属する社員がボディーガードと化しているのだ。
「さて…
オレもカラオケに行きたかったのだが、
ここからは大人の親睦会だ。
…おっ、早かったな…」
「賄い定食を…
…ん?
まさか…」
「はい、残念ながら、飯はなくなりました。
大皿だけなら出せますよ。
一本浸けますか?
これも裏メニューですが…」
「そうですな。
少々身体が冷えたので頂くとしましょう」
翔樹は満面の笑みで椅子に座った。
定食屋道すがら食堂は居酒屋に変貌した。
今回、ここでの会合は二回目だ。
それまでも、この会合はこの場所で行っていたのだが、
その時はここはただのボロアパートだったのだ。
「まずは計画通りに事は運んだ。
議員の3分の1が辞職した。
よって、少数派の野党が政権を握ることになった。
だがその野党の中にも、辞職した者が数名いたようだがな…
事務連絡になるが、一輝の働きが認められ、
今年度一杯は正規の給金と賞与が支払われる。
これはオレの意思ではないので反論はしないで欲しい」
「…爺さんの意思のようなもんでしょ…」
皇は軽く翔樹を睨んだ。
翔樹の周りはその教え子たちが取り囲んでいるのだ。
よって皇としても動きやすいことこの上ないのだ。
「だがオレからは言っていない事は確かだからな。
…さて、これからだが、今日襲ってきた者は別件だ。
暴走族を取り仕切っている広域暴力団、焔號組の手下だ。
これからは交通機動隊も出回ることになりそうだが、これは一石二鳥だ。
オレの株も更に上がる!」
翔樹は酒が入るたび、饒舌となってきたようだ。
前回までの会合は酒は出さなかったので、終始敬語で話していたのだが、
今日は部下に話す口調となっている。
「となると、少々頑丈な盾が必要ですぜ」
「昨日紹介した忍者、すでに一輝と前田さん用にチューンしてあります。
あとで、地下訓練場で試乗してください。
軽く走っても時速百キロは出ます。
ただし、夜は発電できないので着用時間は一時間。
ですが昼は直射日光でなくても暗くなければ使い続けられます。
この忍者開発での最大の収穫は太陽電池パネルの進化です。
…ああ、夜でも明るい場所…
街灯の下であれば充電可能です。
家庭用の100ボルトコンセントでも充電できますので、
街中でも不便なく使えると思いますよ。
…一応、オレが試乗した時のデータです」
影がその映像とデータを出した。
皇も前田も眼を剥いてから笑みを零した。
翔樹は驚きながらも笑みを浮かべた。
「これなら防御も楽だろうな。
交通機動隊もバイク、やめるかな…」
「現在、一番肝心なバッテリーを新規開発中です。
それが出来上がり次第、
高速そして長時間の追跡用としてプレゼンテーションを行うことにします」
木の下の言葉に翔樹は笑顔で頷いた。
「さらにホッパーも開発中ですので、
半分空を飛ぶ感覚で追跡もできるようになると思いますよ」
「細田君、それなりの施設に隔離した方がいいんじゃないのか?
あ、いや…
君の社にいた方が安全だったな…」
「はい。
それは重々承知していますので、
細田はすでに重役レベルの待遇にしてあります。
よって、SPも付けています。
彼は家を引き払い、社内に寝泊りを始めました。
今は仕事と趣味が混在していてかなり楽しそうですよ。
ここの地下訓練場にも彼の研究室を造りました。
ここは更に安全ですので」
翔樹は深く頷いた。
「焔號組の詳しいデータは澄美君に渡してある。
…彼女も欲しいな…」
「色々と忙しいようなのできっと無理だと思います。
銀行の頭取もバイトで始めましたので、きっと難しいかと…」
翔樹は大きく笑い、席を立った。
影がすぐさま寄り添い、警視総監をSPに引き渡した。
… … … … …
「地下訓練場…
皇の旦那も始めてなんで?」
「そう。
今まで隠していたみたいだ…」
「そうじゃない…
今朝完成したんだよ。
最終的にはオレが手直ししたから、
少々時間がかかってしまった。
細田がなにやら始めていたから、あまり使いたくなかったんだ。
まさか、あんなに凄いものだとは思いも寄らなかったけどなっ!」
木下がカウンターの下にあるボタンを押すと、
皇と前田が座っているカウンターが一瞬にして消えた。
さすがのふたりも、これには驚いたようだ。
「これも細田の作品だ。
アイツ、木工細工が大の得意で、
建具職人になろうと思った事もあったそうだが、
それを趣味にしたんだよ。
よってオレとしては、かなり得した気分だ。
さあ、黄泉の世界に行こうぜ!」
ふたりは首を振りながらも、調理場の中に入り込んだ。
「ゆっくりと動き出すのでご安心を」
木下がリモコンを操作すると、床ごと地下にのめりこみ始めた。
前田が少しだけ中央に寄った。
皇は相変わらずの仏頂面だ。
「訓練場は地下30メートルの場所にある。
少々大きな音を出しても、外には漏れないからな。
そして、今建設中の本社ビルにも繋いだ。
当然秘密裏の工事なので、社員一同総出で穴を掘ったんだ。
そして、思わぬものを発見して展示してある。
きっと国に返すことになるだろうからな。
ここからは外に出さないことにした」
「埋蔵金でも出たんですかい?」
木下は答えることなく、笑みを浮かべて前田を見ただけだ。
「到着です。
なかなか広いだろ?」
木下がリモコンを操作すると扉が開き、目の前に外の世界が広がっている。
「外で昼間じゃないか…
どこの異次元と繋がってるんだ?」
「照明だと味気ないからな。
天井を巨大スクリーンにして太陽も造ってもらった。
電気代は充電したバッテリーなので無料だ。
自然な感じで訓練できるだろ?」
「オレはこの芝生で昼寝を楽しみたんだがな…」
皇はすぐさま寝転んだ。
「…おい、風も吹いてるぞ…
かなりリアルだな…」
「そうしないと酸欠になるだろ?
風が止まったら要注意だな。
だから酸素ボンベも用意してある。
一番怖いのは地震なんだが、それは安心してもいいぞ。
この空間は少し宙に浮いている。
当然出入り口も一ヶ所じゃない。
非常口の確認だけはしておいてくれ。
念のために、重機類も置きっぱなしだ。
外に出る手立ては確実にしておかないとな。
当然手で掘ることになるかもしれないので、
シャベルも置いてあるぞ。
そして、食糧もな。
言い換えれば、ここはシェルターにもなっているということだ。
…ああ、あれか…
今始めて気付いた。
澄美の秘密の出入り口…」
木下が壁に近付き手を伸ばすと扉が開いた。
皇と前田は少々驚いたようだ。
明かりが灯り、上へと続く階段が現れた。
「これも、非常口のひとつだな。
少し離れると壁と同化して、
扉があるとはわからないように細工をしたようだ。
ちょっとした美術品感覚か?
どう考えても、細田の作品のようだがな…」
「源次郎を監視するつもりだったんじゃないのか、澄美ちゃん」
木下は苦笑いを零した。
「ここに3台の忍者がある。
一台は生贄として破壊しても構わない。
破壊するのは、前田さんの瞬歩になると思って、
データを分析するために置いてあるんですよ。
瞬歩を使った場合、音速を超えるかもしれないので。
人類初の、マッハを超え走る人になって欲しいものです。
今話題のリニアにも勝てる可能性は大きいですね」
前田は苦笑いを浮かべたが、皇は少し噴き出して笑った。
ふたりは早速忍者を着込み、基本動作から確認を始めた。
「これ、無重力空間で作業をしている感覚に陥るな。
一度だけアメリカのこういった場所に行って体験させてもらった」
「エリア38ですよね?
この施設はそこを真似てバージョンアップしたんですよ。
オレも体験しましたが、まさにその通りですね。
細田ははしゃぎ捲くってました」
前田は笑顔で頷いた。
ふたりとも軽く走り出し、その性能の確認を始めた。
そして前田が忍者を脱ぎ、テスト用の忍者を着込んだ。
「データ、取るぞ」
「はい、よろしくお願いします」
前田は数回素早く走り、一呼吸置いて瞬歩を一瞬だけ使った。
止まったあとに、『ボッ!』という音が聞こえ、忍者は煙を吐き出し始め、停止した。
前田はすぐさまリジェクトされ地に足を付けた。
「素晴らしいデータが取れたようです。
人類初、マッハで走る人の誕生です!」
「なるほど…
壊れても放り出されるようになっているんだな。
高速移動中に壊れたとしても、停止してから吐き出されるようだな。
もっとも、マッハで走る必要はまずないだろうからな」
前田は大声で笑っている。
「だがこれ、装甲がかなり薄いが大丈夫なのか?
昨日、細田に見せてもらったものよりは安全だろうが…」
「薄いからこそだよ。
乗ってもらってわかっただろうが、重量70キロだ。
ほとんどが強化プラスチックでできている。
当然その中に仕込んでもいる。
銃で撃たれても貫通しないんだよ。
そして衝撃も緩和される。
つまづいて転んでも、痛くもかゆくもないぞ」
皇はかなり無謀な受身を始めたが、
大地に胸を付けたあと跳ね上がるようにして簡単に起き上がった。
「なるほどな。
自動的に起き上がっている感覚だな。
これ、足腰立たなくなる前の老人に着込ませたら喜ぶんじゃないか?」
「そう。
そっち方面も細田の部下が試作を始めたぞ。
危険がない介護用スーツになるだろうな。
早く走ろうとしてもリミッターを設定するからそれは無理だ。
健常者には全く役に立たないものになるだろうな。
そうしておけば、悪用されることもないからな。
…おっと、こんな夜中に誰だ?」
モニターに食堂内の映像が流れた。
雛が二階の秘密の扉から店内に潜入してきたようだ。
「雛はどうやって二階から降りてきたと思う?」
皇が少し申し訳なさそうな顔をして木下を見た。
「裏手の電柱だろ。
全く、どうしようもないお転婆だな…」
「昨日二階に上がった時に、ベランダのサッシの鍵を開けておいたんだな。
しばらく、観賞させてもらおうか…」
雛は真っ直ぐ冷蔵庫に向かい、
ほんのわずかに残ったきんぴらを幸せそうな顔をしながら食べ始めた。
「ただのこそ泥のようだな…」
前田は腹がねじれんばかりに笑い始めた。
影が現れ、雛はかなり驚いたようだ。
皇も腹を抱えて笑い出した。
影は、湯を沸かし、雛にお茶を出すつもりのようだ。
「音声、入れるか…
キーボード」
木下が呟くと、レーザー式のキーボードが現れた。
前田も皇は木下の手元を見て驚いている。
「もうすでに、SFの世界にいたんだな…」
「細田の趣味ですよ。
もう二年前から研究室でも使っていますよ」
前田も皇も呆れ顔を木下に向けた。
『真樹ちゃんってさあ、彼氏いるの?』
「やっぱりか…
いきなり店内に真樹が入って来た時、あいつ何も言わなかったんだよ。
どうやらファンを通り越して恋愛感情が沸いたようだな…」
「不思議なことではないからな。
おもちゃを袖の下にもらうようなヤツだ。
恋くらいしても不思議はないな」
皇が言うと、木下は少し笑った。
『シャドウ、真樹ちゃん、好きなの?』
「雛のヤツ、名前、勝手に替えたな…
だが影のヤツ、妙に喜んでるな…」
「ドラマ用じゃないのか?
影の芸名だろう。
意味は一緒だし、いいんじゃないのか?」
『うん…
今日仕事でね、始めてミスしちゃったんだ…
真樹ちゃんに一目惚れってやつしちゃって…』
『そう…
真樹に彼氏はいないけど、シャドウのことを好きになる可能性は低いわよ。
どう言う意味なのかはわかるわよね?』
『うん…
ボクは造られたロボットだから…』
『でも真樹はひょっとしたら気にしないかもしれないわ。
かなりの人間不信に陥っていたから。
でもそれが治ってしまったら、人間のことを好きになっちゃうかもね。
…シャドウ、人間になってみる?』
ほとんどのことに動じない木下たち男三人は、言葉を失った。