いつものやつ
【 コードネーム 】
ナイト 男 31才 司令官、ゴーストの運命の男性
ゴースト 女 38才 ナイトの運命の女性
キング 男 41才 警察官、ゴーストの兄、ナイトの友
ガンゴウ 男 55才 元自衛官、元軍人
ゴッド 男 26才 店員一号、科学技術者
シャドウ ? ? 影一号
クイーン 女 29才 秘書一号、ナイトの妹
オウガ 女 25才 ナイト、クイーンの妹
トルゥース 女 23才 真実を知る者
ジョーカー 男 34才 ナイトの兄
秘書83号 女 28才 スパイ
1
「…お客さん、いつ見てもいい男ですねえ!
…おや?
…お客さん、お仕事の様で…」
お客さんと呼ばれた男は苦笑いを店主に見せ、音もたてずに立ち上がった。
道すがら食堂。
この店はごく普通のどこにもでもあるような定食屋だ。
どこの店と変わりのない、平凡過ぎるほどの間取りとなっている。
そして当然のごとく店内は狭い。
美味い飯屋の代名詞のような狭さだ。
カウンター席は逆L字形に椅子が並べられている。
ここには7人分の椅子が並べられている。
ボックス席はたったの二台で4人がけだ。
合計たったの十五席の非常に狭い間取りになっている。
立ち上がった客以外にも数名の客がいる。
近くの工事現場の作業員のようで、
休憩時間が統一されていないのか、
店主に休憩する間を与えることなく、ポツリポツリと来店しているようだ。
「いつも思ってるんだけどさあ…
このきんぴらって、本当に天下一品だなっ!
これだけで商売、成り立つんじゃないのか?」
店内にいる客の現場作業員は、こういった飯屋のエキスパートだ。
至るところの飯屋に顔を出し、
美味いという噂を聞きつければ必ずそこで飯を喰らっている。
こういった者たちによって、オープンしてひと月足らずのこの店は、
いきなり大評判になってしまったのだ。
「いやぁー、ありがとうございます。
オレが好きだから造っているだけでして。
お褒め頂いて光栄です」
「できればレシピなど聞きたいんだが、
それはやめておこうか。
ここに来て喰うから美味いと思っているからなっ!」
「それ、最高に嬉しいお言葉です。
毎日どうも、ありがとう」
巨漢の客は笑みを向け、店主にどんぶり鉢を差し出した。
この飯屋は当然の如くお代わり自由だ。
店舗によっては、席を立ち巨大な炊飯器まで足を運び欲しいだけ注ぐのだが、
この店は狭いので、自宅感覚で飯が食えるのだ。
そして大皿一皿650円均一なので、客の財布にも嬉しい食堂でもある。
「しかし、きんぴらごぼうのイメージが変わったな。
これが、今のオレの最高級のきんぴらだっ!」
客の作業員は少量のきんぴらを食べては、大飯をかき込んでいる。
店主は笑顔で客を見て、素早く客のきんぴらの入った鉢を新しいものに入れ替えた。
今の早業は誰も気付いてはいないようだ。
店主は更に笑みを零し、きんぴらが増えたと騒ぐ客を更なる笑みで見ている。
店主にいい男と言われた男が戻ってきた。
確かにいい男で俳優のジャンルで言えば、
ごく一般的なヒーローアクションものの主役を張れるような、
少々ワイルドなタイプの色男だが、線は細い。
身長は少し高めで1メートル82センチある。
しかし引き締まった肉体はアスリートを思い浮かべるだろう。
そして着込んだスーツが、その筋の者を容易に連想させることだろう。
だが決して、そのような虫ケラ野郎ではない。
そして、この店主はどこからどう見ても日本人ではない。
だが髪の色は黒いので、後ろから見ると少し大柄な日本人と見られることだろう。
店主の身長は1メートル90センチあるが、
今は何故だがそれよりもかなり背が低いように見える。
この店の店主が外国人で
流暢な日本語を話すということで覗きにくる者も多いようだ。
外国人独特の顔の彫の深さは古代彫刻を思い起こさせる。
そして何より、この店主の眼光が異様に鋭い。
だがいつも笑顔なので、愛想がいいイメージで、客も気軽に話しかけるのだ。
男は元いた席に座り、「きんぴら定食」と言い、
店主に苦虫を潰した顔にさせた。
「いやぁー申し訳ないです。
キンピラはただの付け合せでして…」
「この店で美味いのはきんぴらだけだろ…
…まあいい…
少し固めのトンカツプレート」
「少し固めはオレの好みです。
それに、正式名はヒレトンカツプレートです」
「そうか、それは申し訳なかったな。
それ、ダブルで」
「はい!
まいどありがとうございますっ!!」
店主に気合が入り、すぐさまトンカツを揚げ始めた。
「実は今日からがオレの本領発揮でして。
やっと買わされた食材を昨日使い切ったんですよ」
「…なんだ、あの業者の商品だったのか…」
こういった新規開店の店には、必ずと言っていいほど御用聞きが来るものなのだ。
当然店側も安くつくのならと考え、業者から食材を買う。
そしてそれが異様な安さなのだ。
その代わりといいながら、サンプルを試食させられ、
申し分なければ購入して欲しいと、
土下座をせんばかりに頭を下げてくるのだ。
店主は仕方なく希望を聞き入れてやったのだが、
何故だか大量の食材を買わされていた。
当然クレームを申し立てたのだが、
契約書上の半分詐欺紛いのような行為だったようで、
今店主と話している男に成敗してもらったのだ。
「ものにはよるけれど、トンカツだけは今日はオレ特製です。
といっても、素材がいいから変わった事は何もしていないのです。
衣をまぶして、揚げるだけなので」
店主は手際よく料理を始め、揚がった音を聞き分け、
盛り付けの終わっている大皿に素早くトンカツをふたつ並べ男に差し出した。
「ヒレトンカツプレートダブル、お待ちどうっ!」
「おい…
昨日と全然違うぞ…
お前の腕が上がったと思ったが、食材のせいでもあるんだな…」
男は店主を褒めたのかそうでないのかわからないような謎の言葉を呟き、
トンカツに切れ味鋭いナイフを入れ、ソースもつけずにそのまま口にした。
一瞬驚いた表情を見せてから、淡々と食べ始め、
トンカツ一枚は何もつけずにぺろりと食べてしまった。
「…なんだ、これは…」
「でしょ?
これは調理人の腕ではなく、食材がいいからです。
問題は間違っていない調理をするだけですよ」
男は何度も頷き、手早くミニチュアのゴマすり鉢でゴマをすり、
ソースとカラシをハーフで入れ、
軽く混ぜてからトンカツに軽く馴染ませて口に入れ、
一瞬だが幸せそうな表情を見せた。
「そうだ、宣伝しておかないと…
トンカツはロースも始めましたので。
こっちの方が更に驚きなんですよ」
「…何故それを先に言わない…
…まあ、今夜でも明日でもいいんだがな…」
この男はトンカツに目がない。
というよりもフライものが大好きなのだ。
中でもトンカツが大好物で、この店ではトンカツしか食べたことがない。
「…おい、きん…」
男が言うか言わないかの絶妙なタイミングで、
店主は盆に乗せたどんぶり飯ときんぴらを丁寧にテーブルの上に置いた。
「…ごまかされると思った…」
男は軽く店主に苦笑いを見せ、手早くどんぶり飯をかき込んだ。
店主は手元を見ている。
「…ああ、来ましたね…
でも今回は私がやりますので、どうかごゆっくりと」
「そうだな。
オレは今かなり忙しい…」
男はきんぴらを少量つまみ、さも幸せそうな表情で食っている。
暫しの静寂となった店内の入り口に近いカウンターの隅にいる
ひとりの作業員風の男が立ち上がった。
「650円、ここにおいとくよ」
「はい!
毎度ありがとうございますっ!!」
店主は満面の笑みで男を見送った。
「なんだ、もう終わっていたのか…
何人殺した?」
店主の左にいる巨漢の作業員の男の箸からきんぴらが零れ落ちた。
店主は眉を八の字にして困った顔を見せた。
「怖いこと仰らないで下さいよ…
今回は死者ゼロです。
改良したことが功を奏しましたよ。
命中率も98パーセント。
まあ、全てが跳弾ですのでこれが限界かもしれませんねぇー…」
「そうだな。
跳弾だからな。
自業自得だ」
男はどんぶり鉢を店主に渡した。
ついでにきんぴらの鉢も渡したのだが、それは却下されたようだ。
現場作業員の男は、このふたりの話しを聞き、背筋に寒いものを感じた。
「すみません、前田慶造さん。
驚かれましたよね。
邪魔な客が消えてくれたので、
やっと話しやすくなりましたよ」
「…どうして、オレの名前を…」と前田は久しぶりに驚きの感情をあらわにした。
「少々調べさせて頂きました。
元軍人で凄腕スナイパー。
《戦場の悪魔》と始めて名づけられた男…
そのチカラ、オレに託して頂けませんか?」
前田は意表を突かれたようにぼう然とした。
そして、振り返ってテーブル席を見て、我が子同然の前田の社員たちを見回した。
「前田さんのお子様たちには聞く権利もあり、
反対する権利もあります。
ですので、邪魔者ではありません。
さっきの女は部外者ですので退席願ったんですよ」
「…女?
どう見ても男だったが…」
「越前雛、ご存知ですよね?
かなりの有名女優です」
前田は開いた口が塞がらなかった。
「今の作業員、雛だったのか?!」
男は慌てふためいた。
そのついでに、どんぶり鉢を店主に差し出した。
「驚いたけど、そうでもなかったようだな…
面白くない客め…」
「客に妙な言葉を使うな…」
「そうだ、アンタ…
見たことあるぞ…」
前田は男を見据えた。
「そうです。
ただの公務員です」
店主が答えると、男は大笑いを始めた。
「確かに公務員だろうが…
…射撃の世界チャンピオン、そして柔術も…
全ての体術に精通していると聞く…
皇一輝…」
「そうです。
数年前は少々有名人でしたからね。
今は公務員でありながらも、私の僕です」
「オレは客だ…」
皇は文句をいいながらも、大飯を喰らい続けている。
「…ここ、禁煙じゃなかったよな?」
前田は少し落ち着きたい様でタバコを取り出すと、
前田の子供たちはかなり驚いている。
「ええ、構いませんよ」
店主は灰皿を出す代わりに、前田をエアカーテンで包み込んだ。
カウンターの下が数センチ動き、吸引装置と灰皿が出てきた。
タバコに火をつけた前田はかなり驚いたようで、目を見開いている。
「煙が消える…
こんなの、どこにもないぞ…」
「無臭の消臭剤入りのエアカーテンです。
しかも風を感じないでしょ?」
「そうだ、それだ。
かなり不思議な気分だ…」
「風の温度調整をしています。
肌の温度よりも二度ほど高いのですよ。
よって、あまり気になりません。
今回、始めて使いましたよ。
前田さん、喫煙者のはずなのに吸ったことがなかった。
子供たちも驚いている。
やはり、匂いを気にされますか?」
「そう、これはもう習性だな。
オレの部屋にある排煙装置の前でしか吸った事がない。
この装置のレシピも知りたいほどだ…」
「いつでもここで吸って下さい。
レシピはもうすぐここに来る店員に聞いてくださって構いませんよ」
「それに、越前雛… さん…
そう言えば、彼女はよくテレビで見かけるが、
いつも違うイメージを残す不思議な女優だ。
そう言えば顔も微妙に違っているような…
整形疑惑があとを断たない…」
前田の言葉を聞いて店主は大いに笑った。
「彼女のお遊びのようなものです。
同じではない自分を常に演じているんです。
心底俳優だと私は思っているのです。
本名は皇巫女と言います。
これは内緒でお願いしますよ。
どこで調べてもヒットしないと思いますので」
前田は無愛想に飯を喰らっている凄腕公務員を見た。
そして、大いに笑い始めた。
「こちらの旦那の奥様で…」
「…妹だ…
それくらい察しろ…」
前田は皇に軽く頭を下げた。
「時々、私の恋人役も勤めてくれています。
本心は未だ見えませんけどね。
彼女は本当の彼女自身を見られたくないようです」
「そうか…
あんたの正体、かなり気になってきたな。
だが無理には聞かないし、この先自然に知ることになるだろう。
…お前ら、他言無用だぞ」
前田は振り返り、テーブル席にいる五人に顔を向けると、
前田の子供たちは神妙そうな顔つきで軽くうなづいた。
「あまり有名店になりたくないので、ご協力を。
私は木下源次郎と言います。
時代劇俳優のような名前ですが、そうではありませんよ」
前田は更に驚いた顔を見せ、タバコを取り落とした。
そして素早く拾い上げ、ひと口吸ってから大笑いを始めた。
「一体どんな爺さんかと思っていたが、全然違っていたなっ!
これが一番驚いたっ!!」
前田の子供たちが一斉に立ち上がり、木下に頭を下げた。
木下は困った顔を見せ、すぐに座るように言った。
「あんた、30にも届いていないはずないのに、
あんたが一番の凄腕だな」
「いいえ、私は31です。
ベビーフェイスと、私の僕によく言われます」
木下は皇に顔を向けた。
「オレは客だと何度言わせるんだ?」
皇は木下を睨み付けた。
木下は素早く、空になっているきんぴらの小鉢をすり替え、
皇を喜ばせた。
「なるほど…
死角から入れ替えられると増えたように思ってしまいそうな早業だな。
そうやって入れ替えてくれたのか、ありがとう」
前田は笑みを浮かべて礼を言った。
「いいえ、大したことではありません。
誰だって、褒められると嬉しいものですよ」
「オレの仕事は護衛ではなさそうだな。
それよりも、オレ、一応社長なんだけど…」
「それもお気になさらずに。
全てがうまく回りますから」
前田は何度もうなづいた。
「オレにとってはありがたい話しかもな。
…ここがオレの戦場になるとはな…」
前田はなんとも言えない高揚感に満ち溢れたのか、
その顔は悪魔そのものになっていた。
前田の変貌ぶりに、その子供たちが一番驚いたようだ。
「そうです。
その顔です。
引き受けてくださって何よりです」
「オレの仕事がかなり楽になるが、
更に仕事を押し付けるつもりだろ…」
皇は笑顔で木下を睨み付けた。
「そんなことはしない。
常にオレに張り付いていてくれ。
勇ましい友にいてくれた方が、オレとしても動きやすいからな」
木下の口調の変化に前田は納得したようだ。
「だが、公務員だろ?
そんなことできるのか?」
「裏でね、色々と策略があったんですよ。
皇争奪戦の裏表がね…」
前田は何度もうなづいた。
「前田さんもだからこそ名を替え職も替えたんでしょ?
この男はそれを変えずに、公務員職を利用したのです」
「公然と人殺しができる、とか…
殺人許可証…」
皇は柔らかな笑みを前田に向けた。
「公然ではありませんが、それに似たようなものです。
警察官は裁いてはいけない。
だが、攻撃されると防御することは必要です。
その防御が激し過ぎるだけなんですよ。
皇の上司、警視総監なんです。
皇は警視独監という、変な称号を授かっているんですよ。
もちろん、公にはこのような階級はありませんよ。
皇のためだけの階級です。
よって、何事もフリーなのです。
給料は、皇の意思によって、巡査部長レベルのようですけどね」
「オレはここで飯が喰えればそれでいいんだ。
好き勝手やってるんだ、それくらいのペナルティーは当然だろ…
だが、時折爺さんの手下が来ているぞ。
雛もそのひとりのはずだ」
皇は無言でどんぶりを木下に差し出した。
「それはオレも知らないよ。
でも、暇な時はいつもここに来ているから、そうなのかもな」
「お前、ひと言くらい言え…」
「自分の妹なのに見破れないお前が悪いんだ…
もっとも、オレはハイテク技術を駆使しているからな。
偉そうなことは言えない」
「妹さんの名前、ミコ、さんだよな?」
前田の質問に、皇は渋い顔を作った。
「本人の希望だ。
いつの間にかオレも普通に雛と呼ぶようになったんだ。
女優になる前からだからな。
自分の名前、あまり好きじゃないんだろう。
皇だって芸名ぽくっていいだろ?
それを越前って…
一体どこから持って来たんだ?」
皇は木下を睨んだ。
「それ、オレに聞くことか?
だがオレは知っている。
婆ちゃん、福井県の出身だろ?」
皇は憮然とした顔を更に歪めた。
「それ、今思い出した。
あいつの、雛の楽しかった日常は婆さんと共にあったからな。
そう言えば、その頃から雛と呼べと言われたんだ。
婆さんの職業柄、何かが降りてきたのかもな…」
「霊能力者…
身罷る前に一度検査したかったな…」
「そこは普通に会いたかったでいいだろ…
雛もきっと、何か持ってると思うから、検査してみればいい」
皇はいやらしそうな笑みを木下に向けた。
「それらしいことを言ったりしたりすれば…」
木下はひと言言った途中で言葉を止めた。
雛はもうすでにそれをしているのではないかと考えたのだ。
敏感な皇を欺ける者はいないと木下は思っている。
「…今度検査してみようか…」
「なんだ、今の間は…」
木下は自分が思ったことを皇に告げた。
「…ふん…
考えられなくはないな。
オレから見れば全くの別人だった。
だが、科学の目で見れば越前雛だった。
とんだオカルトな妹を持ったものだな…」
「お前だってそれに近いじゃないか。
射撃の腕だって、百発百中を常に維持する者なんてどこにもいないはずだ。
前田さんはどう思われます?」
「オレも狙った獲物は外さなかった方だが、イメージと違う場合が良くあった。
オレの中では百発百中はあり得んことだな」
「それみろ!
オカルト兄妹め!」
皇はどんぶりと大皿を綺麗に平らげ箸を置いた。
「引継ぎ、今からでいいか?」
「少し待ってくれ。
社長代行と従業員が来てからだ」
「いつの間に連絡したんだ?
お前こそオカルトだな」
皇は少し笑みを浮かべて木下に言った。
前田も軽く頷きなから木下を不思議そうにして見ている。
「オレ、ロボットだって言ったら信じるかい?」
一瞬の間を置いて皇と前田がいきなり身を引いた。
「…お前、物の怪だったんだな。
いい度胸だ!
成敗してやろうっ!」
皇は素早く立ち上がり異様な姿の木下を見入った。
前田も驚いていはいたのだが、天井に視線だけを移していた。
「前田さん、さすがです。
やはり戦いにおいての勘の様なものですか?」
前田は我に返り、ふたりになった木下の後ろにいる方を見た。
「今、はっきりとわかったぞ。
…まあ、それに近いことだな。
不思議なものには必ず理由があるものだからな」
「そう、オレは人間です。
そしてこれはオレの影です」
木下は少し前にいる木下に似た少年とも言える顔の者の頭の上に手を置いた。
その少年は憮然とした表情を木下に向けた。
「オレを子供扱いするな。
全部、オレがやっているんだろうが…」
「はい、その通りです。
ごめんなさい」
木下は素直に謝った。
「…い、いや、言い過ぎた…
こっちこそゴメン…」
「どうだ一輝!
羨ましいだろっ!」
「面倒なだけだ、羨ましくもなんともない」
皇は呆れた顔を前田に見せて席に付いた。
「オレには信じられないのだがな。
ここからはオレはお前の全てが見えていた。
だが、影か…」
すると、影と言われた木下が消え、皇は更に驚愕した。
前田から木下は上半身しか見えないので、
皇の後ろに回り感心したように、「ほうっ!」とだけ言った。
そして一点を見入り、影の中から手が出てきて前田に向かってピースサインをした。
前田は愉快そうに笑い、自分の席に戻った。
「…今は本当に影になっていたのか…
外では使えないだろうが、ここでも気付くはず…」
皇は天井に顔を向けた。
どう見ても可動式のダウンライトがひとつだけあった。
皇は安心したように安堵の笑みを見せタバコに火を点けた。
「コメント、ないの?」
「謎が解けたからな。
もう興味はない」
「ほんとに面白くないヤツだ…」
木下は言ってすぐに、口に右手の人差し指を当てた。
皇も前田も出入口を見た。
皇はすぐさま電話をかけた。
『ヴーン、ヴーン』と、バイブレーターの小さな音が聞こえた。
そして出入り口の扉が開いた。
「いらっしゃいませっ!!」
「あ、イヤ、済まない。
帽子を忘れたんだ」
帰ったはずの作業員風の男こと越前雛は、素早く帽子を取り、
踵を返そうとした。
「…盗聴器は壊したぞ。
巫女、これからは挨拶くらいしろ」
「巫女って呼ぶなって言ったでしょっ!
…あっ…」
作業員風の男はまさにバツが悪そうな顔をして固まった。
「雛、脆いな…」
木下は言った後、下を向いて腹を抱え始めた。
雛は憮然とした表情で席に座った。
「きんびら定食っ!!」
雛の言葉に、この店にいる全員が大笑いをした。
「あんっ!
もうっ!
源ちゃん、ほんとに、大好きよっ!!」
作業員風の男装のまま、雛は大盛のきんぴらごぼうを前に歓喜した。
「…おい、キンピラ定食あるじゃないか。
それに肉じゃが…
何故メニューにもない付け合わせがあるんだ?!」
皇のコメカミが激しくビクついている。
「細かいことを気にするなよ…
それは本職の時だけでいいだろ…
…これは客に出すメニューじゃない。
賄いだ」
「賄い定食くれ」
「今大飯喰らったばかりだろ…
どれほど喰えるんだ…」
「賄い定食、オレにも…」
前田も欲したようなので、二人は店員として木下は賄いを作った。
作ると言っても、冷えたものを見栄え良く盛り付けるだけだ。
「…これは、賄いなどではなく、オレにとっては究極だっ!!」
皇は感想を述べたが、前田はそれどころではなかった様で、
数秒でどんぶりを空にした。
「こうなるのが嫌だからきんぴら定食は設定しなかったんだ。
…賄い定食、一万円だぞ…」
「支払ってやる。
何も問題はない…」
木下は冗談で言ったのだが、皇には通用しなかったし、簡単に受け入れられた。
「オレも全然構わない。
それに、これだけ飯を食って一万なら、損をした気にもならない。
以前、炊飯器を空にして出入り禁止を食らったからな。
オレの飯は、いつも金を取ってくれても構わんぞ」
「いいえ、構いませんよ。
飯はいくらでもあります。
遠慮なく召し上がってください。
米どころから送ってくれるので、飯はただ同然で提供できるんですよ」
「お前の実家からだろ?
児童保護施設で本格的な農業をやっているところなんて聞いたことがない…」
「オレはこの飯が一番うまいと思っている。
何の変哲もないノーブランドだが、
喰っても喰っても喰い飽きないんだ。
ま、オレの偏見かもしれないんだけどな」
どうやらそうでもないらしく、雛、皇、前田の順にどんぶり鉢を受け取り、
木下は飯を注いだ。
「だが、何故山盛りにしないんだ?
その方が楽だろ…」
「一番美味い飯の注ぎ方ですよ。
押し付けたんじゃ、暖かい飯が台無しです」
「そうだ、それでか…
確かに量は少なく感じてしまうが、
その分美味い気がしているのかもしれない…
そうだ、柔らかい食感だ。
米の硬さが均一に思える。
口の中がもごもごしない…」
「食べ方を正すだけで、美味しくなるものなんですよ。
特に変わった事をする必要なんて、何もないんです。
…ジャーからどんぶりに注ぐ際に、
軽くほぐして飯の表面を削ぐようにして数回に分け注いでます。
そうすれば美味い飯が更にうまく感じる。
米と空気を一緒に食っているので、柔らかく思うのかもしれませんね。
…飯屋をやりたかったのも、
こういった飯をたらふく食いたかったからなんですよ。
子供の頃は競って炊飯器を空にしていましたからね」
前田は何度も頷きながら、笑顔できんびらをじっくりと観察しながら喰っている。
「…施設との繋がり、まだあったのね…」
雛は木下を睨み付けた。
「まだって…
あそこはオレの実家で家族の家だ。
一体何を怒っているんだ…」
雛は、木下の育った児童保護施設の話しは嫌いのようだ。
それには理由がある。
雛は、こっそりと木下の実家である施設を覗きに行った事がある。
「真奈美さん、元気にしてたわよ」
「行ったのか…
道理で…」
木下は何を言っても言い分けにしかならないと思い、雛の言葉を待った。
「どうでもいいが、そろそろ着替えて来い。
オレの妹が弟になった気分だ…」
「…わかったわよ。
二階、借りるわよ」
雛はカウンターの下の奥にあるボタンを押すと、
左側の壁がスルスルと左に移動した。
そこには二階へ続く階段がある。
前田は感心するようにしてその扉を見た。
「凄い細工だな。
壁にしか思わなかった…」
「でしょ?
オレの影も、エアカーテンもこの壁も、ここの従業員一号が造ったんですよ。
正式には科学技術部門のエンジニアですけどね。
オレと同じく料理が好きなので、ここに引き抜いたんですよ。
…雛、早いな…」
「着替えなんて10秒で済ませたわ。
越前雛です。
皆さんこんにちは」
雛は、前田とその子供たちに女優の笑顔を見せた。
前田たちは、ボーッとして見ていたが、すぐに頭を下げた。
雛はそれほど女優らしくないカジュアルなジーンズとブラウスの装いだ。
だが手に持っているコートは、どう見ても数百万はするものに違いないと、
前田は見て取った。
「真奈美さん、源ちゃんのこと忘れられないそうよ」
「妙な言い方をするな…
オレの妹のようなものだ。
当然会って話をしたんだよな?
誰に変装していたんだ?
ルポライターか?」
「越前雛としてに決まってるじゃない。
そんな小細工、したくもないわ」
「真奈美、お前の大ファンだったのに…
大切なファンをひとり失くしたな…」
「平和的にお話したに決まってるじゃない。
当然、源ちゃんのことを聞きに来たってはっきりと言ったわ。
色濃い戸惑い…
ああ、可愛いそう…」
「今の最後の台詞、心がこもってないぞ…
いつ行ったんだ?
真奈からは何も言って来てないが…」
「もうひと月ほど前よ。
ここ、来たでしょ?
そのあとすぐに訪問したのよ。
ロケで近くに行ったから」
「越中富山の薬売り殺人事件か?
今週だったよな?」
「そう。
犯人は私よっ!!」
雛はこの場にいる全員から顰蹙の目を浴びた。
「まあな、大体の予想は付いていたが、
この場で言うべきことじゃないだろ…
またファンを失くしたと思うぞ…」
「あら、
信じちゃったの?」
「惑わすな…
テレビ雑誌の名前、4番目にあるからな。
犯人として80パーセントの確率で決定だ。
そして少し長いあらすじから、役名が一番多く出てくる。
当然雛は事件の中心人物の役だ。
だがヒロインは二番目に名前がある三条静子だ。
普通、主役級の方が、あらすじに役名が出てくる回数が多い。
…有名な作家の作品だったから読んで確かめた。
だから間違いなく、雛が犯人だっ!
…あ、あれ?
言い過ぎたか…
しまったなぁー…」
木下は頭をかいて苦笑いを浮かべた。
「推理でもなんでもないな…
…脚本家がどれほど優秀でも、さすがに犯人は替えないだろうからな。
だが、かなりの興味本位で、番組を見られそうだ」
皇が半分笑いながら言った。
雛が不敵な笑いを見せた。
どうやら、真実を闇の中に葬ろうとしている演技のようだ。
「そうね。
先入観を持って観てもらえるとさらに面白いかも。
…本当に妹なのよね?」
一瞬時が止まった。
木下はまずいことに口篭ってしまったのだ。
よって肯定するとウソっぽく思われるので、
雛のように不敵な笑みを木下の影が見せた。
「イヤァ―――ッ!!」
雛が悲鳴を上げるとは思わなかった様で、木下は影をすぐに仕舞い込んだ。
「…な
…な
なに、なに今の…」
雛は目を見開いて、木下の腹の辺りを見ている。
「…霊、じゃないのか?
源次郎の…」
皇は腹を抱えて笑っている。
木下は何とかごまかせたと思い、ホッと胸を撫で下ろしたが、
雛はさらに怪訝そうな目を木下に向けている。
「真奈美がオレに異性として好意を持っていることは知っている。
だが、そういった関係は全くない。
まあ、信じるも信じないも雛の勝手だ。
当然、金目当てではないということだけ言っておこうかな」
「当然よ。
そんな女なら負ける気がしないわっ!
…源ちゃんとの歴史が、私を不安にさせるの…」
「おー…」とこの場にいる全員が声を上げ、雛に拍手を送った。
「そうね、今の、なかなか…
いえ、かなりよかったわ!
恋に戦う女の役、来ないかしら…」
「だが最近、連続ドラマの出演ないよな?
人気がないわけでもないのに…
やっぱり、ギャラか?」
雛が暗い顔で頷いた。
「最近、スポンサーが渋いんだって。
制作費が少ないから、大物俳優は一本に付きひとりかふたりなの。
…だからね、バイトを始めたのっ!」
木下は大物女優も大変だなと思いつつ、
どんなバイトなのかも気になったようだ。
雛はカバンからテレビ雑誌を取り出し、番組の特集記事を開いた。
「この番組、大注目でしょ?
漫画が原作で、女子には大人気っ!
特に憎まれ役のこの子、ふてぶてしいわよね…」
「それはわかるが、一体何のバイトなんだ?」
「この子、私なのっ!」
一呼吸置いてみんなが、「えーっ!」と叫び、
前田の子供たちが雑誌の写真に釘付けとなり、
雛の顔を見比べ、全員が首をひねった。
「芸名、富山真奈美…
まんまパクッてるよな…
だが事務所の社長が良く許したな…」
「黙って変装してオーディション受けたら受かっちゃったっ!」
皇は笑いが止まらなくなったようだ。
「…そのあと、どうなったんだ?
大問題だろ…」
「受かって、第一話を撮り終えたあと社長に話したわ。
頭を抱えてたけど、違約金が膨大なことになるので、
テレビ局の社長とうちの社長、監督だけには話したの。
最終話の冒頭の主題歌のテロップでその正体を明かして、
再放送でスポンサーを付ける企てをしていたわ。
最終話だけ、私の名前で出演することに決まったの。
映像媒体の販売の準備もしたそうよ。
でも、一番困っていたのがマネージャーね…
かわいそうなことになっちゃって、円形脱毛症になっちゃったわ…
女性なのに…」
「悪魔だな」「そうだな、悪魔女優だ…」とみんなは口々に言った。
「くれぐれも、悪魔女優と流さないでくれよ。
誰も意味がわからないからなっ!」
皇が大笑いをしながら前田の子供たちに言った。
前田の子供たちも、それは弁えている様で、
この秘密を自分の宝物のように思ったようだ。
「映画の主演は決まっているんだけど、撮りは来年からなの。
これからは、年一本の映画出演とバラエティー番組だけになりそうだわ…
これじゃ、女優になった意味がないのに…」
「舞台とかは?
話し、ないのか?」
「やっぱりギャラね…
…ねえ、源ちゃーん…
お願いがあるんだけど…」
「いいぞ。
どこでやるんだ?
練習場はこの近くでなら、
今建てているビルのテナントがあるから、そこ貸すぞ。
というか、パトロンになれということだよな?
だったらなってやろう。
オレも雛を女優として応援しよう」
「いやんっ!
もう!
ほんとに源ちゃん大好きよっ!!
…さあ、それじゃレッスンに行ってくるわっ!
ごちそうさまっ!!」
雛は颯爽とした足取りで店を出て行った。
「嵐のようだったな…
だが、あの向上心は見習わないとな…」
前田はボソリと呟くように言った。
「久しぶりに大笑いをした。
…源次郎、ありがとう」
皇は木下に頭を下げた。
「あまりにも可愛そうだろ…
まだまだこれからの女優なのに…」
「年齢的にはそうでもないだろ?
…おい、雛の年、聞いてないのか?」
木下は少し呆然としていた。
皇の年齢は41だと聞いている。
だが良く考えると、
年の離れた妹だとしても20の年の差はないだろうと思ったのだ。
「どこからどう見てもハタチそこそこだと思っていたんだが、
当然違うんだよな?」
皇は呆れた顔を作った。
「まあ、恋は年齢じゃないからな。
オレたちの婆さんは80で天寿を全うしたが、
オレたちが物心ついてからの婆さん、姿形が全く変わらなかった。
80なのに肌も30台ほどにしか見えなかったし、皺なんてほとんどなかった。
年齢が良くわかるのが喉首と手の皮膚だが、若い主婦よりも若く見えた。
…雛は38だぞ」
誰もが何も言えなかった。
どう考えでも20台中盤にしか思えない肌艶なのだ。
「オレの秘書一号の方が婆さんに見えるな。
まだ30になってないんだけどな…」
「悪いがオレの目にもそう見える。
…婆さんはやはり、雛に何かを託して逝った様だな…
そもそも婆さんの血に秘密があるようだ。
雛を本気で検査して欲しいところだな」
「…7つも年上か…
まあ、何も問題はないんだけど、
7年分オレを小さく思わせるんだよなぁー…
…しかし、年を取らない身体。
検査した方がいいかもしれないな。
…だがこの学園ものって、16才の役だろ?
違和感、ないよな…
こんな女子高校生、きっといると思ってしまったからな」
皇は木下を見て笑みを浮かべている。
「顔つきがまるで違う。
本当に整形しているようにしか見えない。
特殊メイクだろうが、いつの間に練習したんだろうか…」
「だが、二階に上がってほんの数秒で戻ってきたんだぞ。
着替えだけならできるだろうが、
いくらなんでもメイクを落とす時間はなかったはずだ。
…やはり、オカルトな妹のようだな…」
前田は苦笑いで皇を見ると、皇も苦笑いを返した。
「肌の質は自然だった。
マスクを被っているようにも見えなかった。
そう言えば薄っすらとだが髭も生えてたぞ。
…まあいいか。
今度じっくりと聞くことにするよ…
…おっと、まずは秘書一号が来たようだ。
秘書一号に社長を代行させますので、引継ぎ、よろしくお願いします」
木下は前田に向き直り言った。
「また強烈な女性じゃないだろうな…
もう、驚く事も飽きたぞ…」
「個性的ではありますけど、
真面目過ぎて面白いですよ!」
皇は肩を揺らして笑っている。
今日ほど笑った日はないと、皇自身も思っているようだ。
「社長、遅くなって申し訳ございません」
「悪いんだがな、入り口から入ってきてくれないか…
そこ、トイレなんなだが、どこに抜け穴を作ったんだ?」
前田は後ろから女性の声が聞こえたのですぐさま振り向き、
鬼のような顔をしている。
木下の秘書一号もその顔を見ているのだが、
平然としてその眼力を受け止めた。
「それにオレは会長だ。
社長はお前だろうが…」
「社長はあだ名のようなものですので気になさらないで下さいと
再三申しております。
まだお分かりになられていないのですか?
いいでしょう。
この際、社長の家に入り、社長の子を生むことに致します」
「…それ、何の関係があるんだ?
そんなこと、今までに一度も聞いたことがないぞ…」
「…女の匂い…
社長が愛しているのは私だけと自負しておりました。
ですが、越前雛…
許すまじっ!!」
皇がまた腹を抱えて笑い始めた。
前田は呆れた顔を見せている。
「言っていなかったことは謝るが、どこで知ったんだ?」
「スパイがおります」
「おい、影。
お前…」
木下は自分の影を睨んだ。
「スーパーロボットタスマニアン、買ってくれるってっ!」
影は姿を見せずに子供のような声で言った。
「…まあいい…
言えばいくらでも買ってやったのに…」
「ブースター付きのだよっ!」
「店員一号に宇宙に出られるロケットも造ってもらっていたはずなんだがな…
それにお前を乗せてやったんだが…」
「木下、怒んないでよ。
いずれわかることだったし、別にいいじゃんっ!」
「…まあ、その通りだが、なんかムカつくなお前…
…早速だが、前田さんの社長の引継ぎ…」
秘書一号はすでに前田と向かい合い、書類一式をカバンから出して、
前田を辟易とさせていた。
「澄美ちゃんの方がロボットぽいが、違うのか?」
「巌剛は出会った時からあんな感じだ。
オレが推薦で大学の入学が決まってから今の事業を起こしたんだが、
全く今と変わらず当時のままだ。
確かにミスはしないな。
だからロボットよりも優秀だと思うぞ。
ロボットは時には買収されてしまう事もあるようだからな…」
皇は腹を抱えて蹲った。
大汗を流している前田が、木下に助けを求めた。
木下は書類を見て、わかりやすく前田に伝え、程なく引継ぎは終わったようだ。
「…オレ、よく社長をやっていたなと今日ほど思ったことはないぞ…
巌剛さん、凄いな…
名前も…」
「そうでしょ?
一輝か前田さんが名乗った方がよく似合いそうな苗字です。
巌剛、オレの書類は?」
「もう済ませました。
確認だけお願い致します」
「はいはい。
…仕事をしている気にならないよな…」
「社長、会長職とは閑職ですので、文句を言わないで下さい。
そして、私と結婚しなさいっ!」
「オレは結婚しないとお前にも言っていたはずだ。
忘れたのか?」
「でしたら、越前雛ともっ?!」
「もう言ってある。
承諾も得ている。
子供も作らない。
納得した?」
「…ああ、私ったら、そのことだけすっぽりと忘れておりました。
てっきり、結婚されるものと…
…真奈ちゃんとも結婚はしないわけですのね?」
「しない。
お前の妹だろうが…
真奈にも言ってある。
何故お前が忘れてたんだ?」
「…越前雛…
彼女ほど魅力的な女性はどこにもおりません。
…真奈ちゃんは泣き崩れていました。
その時に私の記憶から消し去ってしまったものと…」
木下はバツが悪そうにして頭を掻いた。
前田は今度は子供たちに引継ぎを始めた。
仕事のことは前田の代わりもしていた様で、何も問題なく引き継ぎは終わり、
子供たちは勘定を済ませて仕事へ向かった。
「店員一号、遅いな。
何かあったのかい?」
皇は澄美に聞いた。
「はい。
現在、特許出願の書類を大量に作成しております。
ですが、間もなく来るものと。
彼は私たちの金づるでもありますのでご容赦くださいませ」
皇は大声で笑った。
「まあな。
影のような精巧なロボットまで造ってしまうんだ。
大切にして大いに働いてもらわないとな」
「社長がお優しいので、のびのびと研究に明け暮れております。
一番助かっているのは開発費がほとんど必要がないことです。
彼の給料分の開発費であれば、痛くも痒くもございません。
…社長、ボーナスは、いかがなされますか?」
「当然、上乗せしておいてくれ。
社長級でも構わない。
だがそれも、何かを造って消えるんだろうけどな…
だが、会社を辞めて独立する気はないんだな。
それほど、いい施設でもないのだが…」
「社長が何も仰らないからですわ。
まるで自分の家のようにして研究室にいますから。
ほかの企業ですと突き上げが厳しいそうです。
そんなに簡単に新しいものができるはずもありませんのに…」
「オレたち門外漢にはわからない話しだからな。
余計な口出しはしない、と言うかできないんだよ。
それに、十分過ぎるほどの功績を残している。
何も言うことはないからな。
…お、来たようだ」
店の入り口が開き、入って来た者に全員がぎょっとした。
「…それ着て、戦いにでも行くのか?
街中をその格好で来たのか?」
戦闘のプロの前田が感心したようにして店員一号のパワードスーツを見ている。
農作業用のものをかなり小さくしたもので、
見た目にはそれほどにメカニカルではないが、
街中にいると確実に目立ってしまうだろう。
「いいえ。
これ、迷彩処理ができるんですよ」
店員一号が言ってすぐに、その姿が消えた。
かすかなモーター音が聞こえ、トイレの入り口に姿を現した。
「ここは静かなので、モーター音が聞こえましたね。
次は更に静かに移動しましょう!」
すぐさまその姿が消え、狭い店内のどこにいるのか全くわからない。
当然音もしないのだ。
だが、前田と皇にはわかったようだ。
ふたりとも席について木下を見ている。
「一般人のオレには無理だな。
降参だ。
…おい、細田、どこだ?」
木下は皇の視線を追った。
なんと、細田は天井に張り付いていたのだ。
「…凄いな、まるで忍者だ…」
「はい。
ネーミングはそのまま忍者にしました」
細田は床に足を付け振り返ると、背中に『NINJYA』の文字が描かれている。
木下は、満足そうにして笑顔で頷いた。
「ATMの集金、忍者姿に変更するかな。
輸送車の助手も着させた方がいいか…
乗用車なら乗れるだろ?」
「はい。
それに合わせて造りました。
軽自動車は少々厳しいです」
「大型のバンかバイクだから大丈夫だろう。
…許可、取っておくかな…」
「客として来るはずだから、オレが書いておく。
定型用紙、くれ。
…ああ、ありがとう」
先を読んでいた様で、澄美がすでに申請用紙を出していた。
「おいおい…
まさかここに来るとはな…
…雛も一緒に来たぞ…」
皇は首を振りながらも、申請用紙を書き終えた。
店の扉が開いた。
雛が開けたようでまだ外にいる。
「やあ、木下君。
孫たちが世話になっているね。
いつもありがとう」
「いいえ。
こちらこそ助かっているのです。
さあ、こちらの席にどうぞ」
皇が爺さんと呼ぶ男が木下の勧めた椅子に座った。
そして徐にタバコに火をつけた。
「おおっ!
ほっほっ!
いいなこれ!
…おいおい、戦争にでも行くのか?」
男は細田を見て言った。
「申請用紙です。
来たついでに持って帰ってください。
名前は忍者。
警察でも採用しますか?」
男は素早く用紙を見て懐に仕舞い込んだ。
「SWATに30台。
口約束だが、用意してくれないか?」
男は木下を笑顔で見た。
「はい、喜んで。
細田、100台造れ。
ラインに乗せてもいいぞ」
細田は姿を消し、男を更に喜ばせた。
「あのスーツ自体を守らないといけないようだな…
セキュリティーは?」
「専用キーと指紋、網膜、顔認証、暗証です。
登録した者しか使うことができません。
もしハックされそうになってもその時点でロックがかかります。
メンテナンスできる者は今は細田だけです」
男は笑顔で何度も頷いた。
「来週、プレゼン頼む。
…山田太一郎こと前田慶造さん。
ここにおられましたか…」
「はい。
もうすでに雇われの身ですがね」
男は少し渋い顔を木下に見せた。
「前田さんも欲しいのだがな」
「残念ですがそれは聞けませんね。
前田さんにもロックをかけてあります」
前田は少し驚いた表情を見せた。
「賄い定食…」
木下の言葉に、前田が頭を抱えると、
男は大笑いを始めた。
「食で釣りましたかっ!
さすがですな…
賄い定食、頂きたいものです」
「はい、すぐにお持ちいたします」
「雛、大人しいな。
借りて来た猫のようだ」
雛は皇を睨んだ。
「報告したらね、一緒に来いって…
折角やる気が出てたのに…」
「今以上に演技を極める必要ないとオレは思っているのだがな。
不満なのか、雛」
男は雛を見ながら言い、少し笑った。
「不満です…
ギャランティー下げてもらっても演技したいもん…
でも、外国には興味ないの。
この国でたくさん演技をしたいだけなのに…」
「お座成りな言い方だが、これもベテランとしての宿命だ。
事務所としても、低い賃金で働かせるわけにはいかないんだろ?
いっそのこと、独立するか?」
「賄い定食、お持ちどうっ!
…舞台も事務所も面倒見るぞ。
ギャラの件も何とかしてくれるだろう。
澄美が」
澄美は名を呼ばれて、笑顔で木下に頭を下げた。
木下は澄美のことは巌剛としか呼んだことがなかったのだ。
雛は澄美をひと睨みしたが、背に腹は替えられぬと思ったのか、
満面の笑みに変えた。
「巌剛さん、どうか、よろしくお願いしますっ!」
「はい、かしこまりました。
暫し席を外してもよろしいでしょうか?」
「ああ、頼む…」
木下は、『済まないな』と付け加えようと思ったのだが、その言葉は伏せた。
「雛の本気のライバルか…
かなり手強そうだな…」
男は笑みを雛に向けた。
「まだ源ちゃん…
木下さんと知り合って半年だもの…
まだまだ弱みは多いの…」
「そのようだな。
施設からずっと?」
男は木下を見た。
「はい。
巌剛澄美とは男友達のようにして8才の頃から育ちました。
ですが今日いきなり求婚されたんですよ」
いきなり無表情で雛が立ち上がった。
だが、全く言葉を発しないまま椅子に腰を下ろした。
「38…」
木下がボソリと呟くと、雛は皇を睨んだ。
「お前が言わないからオレが言ったまでだ。
こういうことはフェアにしないと、
騙していたようで気が引けるからな。
それに、源次郎の言葉にオレは感心した。
7年の差は、自分自身を小さく見せると源次郎は言ったんだ。
決して年が行っているからというような偏見はない。
オレは友として、源次郎なら雛を嫁にやってもいいと思ったまでだ。
それにお前は、演技のこと以外はまるで世間知らずだからな。
オレは釣り合いが取れていると思っているんだぞ」
「なるほどな。
…木下君、雛をよろしく頼みましたよ」
「はい、と言いたいところですが、雛とは結婚しません。
オレは生涯、独身で過ごしたいのです。
オレの家族は雛と、富山の家の家族たちだけで十分です。
それに、誰かの占有物にもなりたくないのです。
そういう理由で、雛にも説明はしてあります」
男は苦虫を潰した顔を見せたが、
きんぴらを口に運ぶとその氷のような表情が溶けた。
「人それぞれ考え方はあるな。
無理強いをするのはよそうか…
…結婚式、楽しみだったんだがな…」
「式典だけなら構いませんよ。
ですがオレは自由を貫き通します」
「なるほどな。
いいだろう。
式、いつにするんだ?
…雛、泣かずに答えなさい…」
「来年のね…
映画の撮影が終わったら…」
「来年の秋ごろだな。
…本店に帰って言い振らすっ!!」
皇がそれはやめろと男に強く言った。
男は大いに笑い、皇と同様に大飯を喰らい始めた。
「賄い定食…
裏メニューというヤツか…」
「従業員だけに食わせる質素な飯だったんですけどね。
食べていただいたので、お爺様もオレの従業員です」
「そうだな、定年も近いし…
天下り禁止法…
何とかならんかな…」
「ここの従業員でしたら大丈夫でしょ?
ただの飯屋です」
男は笑顔で大きく頷いた。
「料理、久しぶりに始めるかな。
だが、ここに来た方が美味いものが食えるからな。
…さて、戻るか…
雛はどうするんだ?」
「まだここに…
巌剛さんが帰ってくるまで…」
「そうだな、そうだった。
お前の転機の時だ。
再出発を祝うパーティーでもするかなっ!」
男は大声で笑いながら店を出て行った。
その影に、影が重なった。
「放っておけばいいのに…
だが、外でも使えるんだな。
驚いた…」
「護衛なしで警視総監を戻すわけには行かないだろ…
もっとも、SPがいることはわかっているけどな。
お、引継ぎ終わったようだ」
影がトイレから現れ、素早く木下の影と同化した。
前田が感心したように木下を見た。
「ほう…
視線を外していると気付かれないな…
そして、かなりすばしっこい…」
「でしょ?
朝か夕方なら外に出ても悟られることはないでしょうね。
あれ?
巌剛、もう帰ってきたな…
玉砕か…」
雛が意気消沈してかなり残念そうな顔を見せた。
澄美は今度は店の入り口から店内に入って来た。
「移籍金15億で越前雛さんを買い取りました。
あなたは今日から私の僕ですっ!!」
雛は驚愕の顔を見せた。
「冗談ですわ。
社長が社長に就任します。
マネージャーもついでに引き抜きました。
少々色んな事務所を回って、
雛さんのお気に入りの方々も引き抜いてまいりました。
…これが一覧です。
如何でしょうか?」
雛がリストを受け取って、満面の笑みを澄美に見せた。
「はい!
全く異存はありませんっ!
澄美さん、本当にありがとうっ!!」
「我が社がメインスポンサーとなることで、
テレビ局に逆営業に行って参りました。
二時間ドラマですが、
『セキュリティーターミネイト』の台本も添えて…」
「セキュリティーターミネイトって、
漣蓮子のベストセラーじゃないか。
作家本人にも話をつけたのか?」
「私のペンネームですので何も問題はありません」
雛も含め、一同は固まってしまった。
「そのお話、ボクも出てくるんだよっ!」
影が顔だけ出して、また雛を怯えさせた。
影は全身を晒して、雛に挨拶をした。
「やはりな。
木下さんよりも少し小さいんだな。
だから影なら、ほぼ確実に溶け込める」
前田が得心いったように頷いた。
「その通り。
さすがです。
さっきは一瞬で見抜かれてしまいましたね」
「澄美さん、本当にありがとう。
これで雛も大いに実力を発揮できそうです」
皇が澄美に頭を下げた。
「宝の持ち腐れですもの。
仕事の内容を選んで働いていただくことに致しますわ。
それでよろしいでしょうか?」
澄美は雛に顔を向けて聞いた。
「はい、今日からよろしくお願い致しますっ!!」
「結婚式、中止していただけますね?」
木下が影を見ると、すぐさま木下の影に隠れた。
「…はい…
私は仕事を取ることにしました。
ですので、今回は諦めます。
ですが私はこれ以上年を取りません。
誰が相手でも、決して負けませんっ!!」
雛の迫力に、さすがの澄美もたじろいだ。
だが澄美は、姿勢を無理やり正した。
「話しは全て聞いています。
最強のライバル出現ですわっ!!」
木下は呆れた顔を澄美に見せた。
「オレはどう転んでもお前と結婚する意思はないんだがな。
男友達のようにして育ったことが大きいんだよ」
「はい、重々承知しています。
ですが私は、真奈にも雛にも負けませんわっ!!
…では、こちらが契約書類一式となっておりますので。
雛には事務所からは命令は下しません。
雛の思い通りの仕事を選んでください。
ギャラに関しては中堅レベルのものになりますが、
数をこなせば、今よりも年収は軽く上回ります。
かなり忙しくなりますので、覚悟しておいて下さい」
澄美のメリハリ、凄いなと男三人は思ったようだ。
「役者は私の命です。
どんなことになっても、弱音は吐きませんわっ!」
「はい、承知しております。
この先しばらくは少々風当たりが強くなりますので、
お付きとして当社の社員をひとり付けます。
異存はございませんね?」
「はい、ありがとうございます。
役に集中できて、とても嬉しく思います」
「そうはならないかもよ…
うふふ…」
澄美が不敵な笑いを雛に晒した。
「ここで、真奈の登場かい?」
木下の言葉に、澄美も雛も驚きの表情を見せた。
「それ、真奈が落ち込むだけだろ…
可愛そうだからやめておけ。
自分の妹を手駒に使うな…」
「始めはそのつもりだったの…
でも、真奈がやる気になっちゃったのよ…
何だか失敗した気分だわ…」
澄美がいきなり意気消沈した。
木下も驚きを隠せなかったようだ。
雛はかなり神妙な面持になっている。
「いいんじゃないか。
オレはいいチームだと思うぞ。
だが真奈美さん、かなりの細腕だが、大丈夫なのか?」
「お前、農業舐めてるのか…
チカラだけなら、男数人が相手でも抑えられるんだぞ…」
皇はそれがあったと思い直したようだ。
前田はみんなに笑みを向けている。
「では社長。
私は社に戻りますので。
私の作品、期待しております」
澄美はトイレに消えていった。
「トイレからの出口、どこにあるのか聞いてないぞ…
まあ、いいが…
…しかし、漣蓮子が澄美だったとは驚いたな…」
「ハイテク満載の小説だろ?
映画にしてもいいほどだぞ…
…両方、狙っているのか…
ちゃっかりしてるな…」
皇は苦笑いを零した。
カウンターの上に厚みのある台本が置いてある。
雛は素早く読み始めた。
どうやら全ての役を演じている様で、雛はトランス状態に陥った。
男三人は、雛の早送りの演技に魅了された。
「ふう…
これ、凄いわ…
私、主役やっちゃおっ!!」
「おい、主役、男だろうが…
…まあ、できるんだろうけど…」
雛は満面の笑みを木下に向けた。
男三人は呆れてものが言えなかったようだ。