猫の声~過去~
俺の築17年のボロアパートの前には何故かデカイ猫が住み着いている。
他の住人達は、『でぶ』『ぶたん』『にゃーにゃ』など変なあだ名を付けて可愛がっているが、俺には甚だ理解出来ない。
「なぁーお」
デカイ猫は、今日もなく。
俺の持ったコンビニの袋に入った魚缶を寄越せとでも言うようにふてぶてしくなく。
「……お前はいいよな。何もしなくたって生きてけるからな」
だからお前に魚缶はやらないよ。
猫なんて可愛がる気になれない。
がさがさと音をたてて袋をふる。
中の魚缶と缶ビールがぶつかって嫌な音が響く。
猫の視線は俺から外れない。
姿を見なくたってわかる。
あの猫はいつだって俺に恨めしげな視線を向けているから。
「なぁーお」
「……なんだよ」
いつもなら決して返事なんかしない。
だが今日は、ささくれだった心のままに思わず声が漏れた。
猫はじっと俺の瞳を見つめると、俺に向かって歩いてくる。
「ばにゃぁう!」
「?!」
コンビニの袋の脆さ。
カンカンと魚缶がアスファルトに転がる。
「あっ!おいこら!」
猫はそれを一つ咥えるとその巨体からは想像も出来ないような速さで走り出す。
「だから待てって!」
他の商品を拾い追いかけようとした時
「先生」
心臓が音を立てた。
足は動かない。
振り返ることも出来ない。
金縛りにあったように頭のてっぺんから足の先まで動かない。
「先生」
もう一度呼ばれる。
小さくて儚げな鈴のなるような声。
ザッ
俺を呼んだ相手が一歩近づいたのがわかる。
でも俺は振り向かない。
「先生……」
あと一歩。
「なぁーお」
猫の声に我に返る。
「……もう会わないって言ったろ」
そう喉から絞り出すように呟き、俺は振り向かずに猫の声の方へ歩き出した。
思考の片隅で、長い黒髪が揺れる。
同時に鈴の音も聞こえる。
それでも俺は振り返らない。
「なぁーお」
猫の鳴き声を辿り、路地裏であいつを見つける。
猫はカリカリと魚缶に爪を立てていた。
「……今日だけだから」
魚缶のふうを切る。
アスファルトに戻してやると猫はがぶがぶと食べ始めた。
どうせコイツは俺の言葉なんて理解できないから、独り言のように呟く。
「さっきの子はな、俺の元教え子なんだ。生まれてから……家族に愛してもらえなかった、独りぼっちの子なんだ」
猫が魚缶にがっつく隣に腰を下ろす。
「だから…どうにかしてやりたかった。……俺が傍にいてやりたかった。馬鹿だよな。立場も弁えずにさ」
遠くで車のクラクションが聞こえる。
「それでも俺にも彼女にもお互いしかいなかった」
いつしか猫は魚缶から口をはなしこっちを見ていた。透き通った目が先を促す。
「……愛してたんだよ。彼女のこと。……離したくなかった。それでも」
今でも思い出す。遠いようで近い昔話。
その傷跡は今も消えない。消えるはずがない。
「俺達は……一緒にいられないから。」
猫が前足で顔をかく。そしてなぁーおと鳴いた。猫の伸ばした手に雫が落ちる。
「俺は…彼女を守れなかった。結局また傷つけただけだった」
涙が止まることなく流れる。
喉が焼けるように痛い。
周りに隠しながら、ふたり紡いだ思い出。
許されないと分かっていても、彼女が笑ってくれるなら構わなかった。
「お前は……いいな。みんなから無償で愛されて……どうして彼女は愛してもらなかったんだ」
俺はお前みたいな猫が嫌いだ。大嫌いだ。
お前が愛されるなら彼女も愛されていいはずだろう。
悔しかった。俺自身も彼女を愛してあげられないことを。大手を振って守ってやれなかったことを。
「……なぁーお…」
猫が俺の指先を舐める。
何度も何度も飽きることなく舐める。
どれ位時間が経ったのだろうか。
「でも…お前にも家族はいないんだな。俺にも……彼女にも。みんな独りぼっち」
そう考えると少し笑えてくる。
人間も猫も関係なくて、結局俺達は孤独だ。
「なぁーお」
猫が一層大きな声でなく。
まるで俺に早く行けとでも言うように。
唇を一度噛んでから立ち上がる。
ズボンは、すっかり皺になっていた。
「じゃあな」
空になった魚缶を回収して歩き出す。
猫はついてこなかった。
彼女にもあの猫にももう会えない気がする。
何故かは分からない。
ただそんな気がする。
それでも、いつかもう一度会えたなら、
かなしい独り身どうし
『家族』になってもいいかもしれない。
幸にも不幸にも、俺は安月給の公務員。
ありふれた教師。
家族二人くらいなら養える。
鈍く光る鍵で自室の扉を開く。
バタンと扉がしまる前に、
「なぁーお」
と聞こえたような気がした。