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空より狭く愛より広い  作者: 原 すばる
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第七話

「さあ、少々もたついてしまったけど、苦いブラックコーヒーだよ」

「おじさん。まさか、恋敵がここに通っていらしただなんて、

わたくし思いもよりませんでしたわ」


仰々しい言葉遣いでマスターを責め立てるムツ。


「い、いきなり、それか」

「いきなりはこっちの台詞よ。いつからあいつはここに通っていらしたのかしら」


ムツは乱暴にマグカップを手に取ると、澄ました顔で一口含んだ。


「ほんの数日前だよ。まだ数回来た程度だし、

メグちゃんの慕っている人だってこともついさっき知ったんだ」


マスターは冷や汗気味に顔を引きつらせて、両手を前に振った。


「ちょっくらお手洗いに行ってくるよ」


そう言い残して、マスターは奥へと消えた。

その姿をむすっとした表情で見送り、やがて口元が解かれた。

はあ、と息を吐き出す。


「ばっかみたい。こんなの、まだジャブなのに……。ミチルもそう思うよね?」


間に四席挟んだ向こう側の僕に、顔も見ずに言う。

そんな投げやりな態度で僕が相槌を打つとでも思っているのだろうか。


「ん」


白衣のポケットに手を入れたかと思うと、何かを握って取り出した。

お魚だ!

僕は条件反射よろしく、すくっと起き上がって間の椅子を次々と蹴っていった。


ムツの隣の椅子まで来ると、握られていた手が開かれる。


「くく」


開かれた手には何もなかった。

唖然として見上げると、ムツが肩を震わせて堪えていた。


「くっく。何て間抜けな面なの」


あろうことか僕を指差して無邪気に笑い始めた。

ムツは嫌な女だよ。

僕が踵を返そうとすると、身体がふわりと浮いた。


「つーかまえた」

「にゃあ」


捕まった。

そして問答無用で、額にキスされる。

最近は二人っきりになると毎度される。ムツの唇の感触にも慣れてきた。


ちなみにムツの唇はマスターやメグに比べて乾燥体質なので、一番好きだ。

ドライであっさりしていて、ふんわりと微かな温かみだけを額に残す。


「……」


顔を離すと、いつもの自然体の穏やかな表情がそこには無かった。

ムツの想い詰めた表情に、僕は初めて戸惑う。


「もしかしたら今日、勢いで言っちゃうかも」

「にゃお」


言っちゃうとは要するに。


「好き」


もう一度、額にムツの愛を感じた後、すぐに僕は膝の上に置かれた。


「お待たせ。いやあ、年を取るとトイレが早くなってしまってね」

「そうね。メグちゃんはマキノ君のことが大好きだものね」


瞬間的にムツは隙の無い表情に戻った。

のみならず、すぐに口から言葉の棘を飛ばす。一種の芸に思えた。


「う、うむ。彼とは圧倒的なリードがあるね」

「その差をどのように埋めていくかについては、きちんと考えているの?」


きりりとした目つきでマスターと向き合っているムツ。

同じことをムツにも聞いてみたい。


「考えていない、です」


項垂れるマスターに、ムツは短くため息をついた。


「私に考えがあるの」

「考え?」


マスターの問いかけにムツは頷く。


「……」


珍しく、何か言い辛そうなムツ。震えている?

ムツの太ももが微かに震えている。

不安になってムツの顔を覗き見る。


そこにはいつもと変わらない澄んだ表情があるだけ。


「私がマキノ君と親密な関係になるの」

「えっ」

「そうすれば、メグちゃんはマキノ君を諦めて、

おじさんとくっつき易くなるでしょう?」


黒髪を払って淡々と言うムツ。


「しかし、親密になるって言ったって」


マスターは迷いのある手つきで白髭をいじる。


「さっき見ていたでしょう? 連絡先は交換してあるの。

マキノ君の情報もそのキッカケ作りに利用させて貰ったわ」

「ムッちゃんの気持ちはどうなんだい?」

「わ、私?」


この質問は予想外だったようで、ムツは自分を指差して呆然となる。

いつも二人きりになって見せるような表情。

だが、すぐに取り繕った。


「私の気持なんかどうだって良いわよ」

「いや、良くないよ。貴重な青春を、

そんなことで無駄にして欲しくない。私としてはね」

「む」


調子狂うなあ、と結んだ口が言っている。


「それに、ムッちゃんの提案も、一見魅力的ではあるけど、

やはり私には向いていない。自分でちゃんと、けじめはつけないと」

「こういう時だけ、カッコつけるのね」

「あはは」

「でも、まあ良かったわ。その提案、

承諾していたら二度とここに来ないつもりだったし」

「おやおや、怖いなあ」


マスターは怒る風でもなく、ただただ屈託のない笑みを浮かべる。

そんな姿に黒縁メガネの奥にあるムツの瞳が、煌めいていた。


「ご、ごめんなさい。お手洗いを借りるわ」

「どうぞ。場所はわかる?」

「うん」


ムツは抱いていた僕を隣の椅子に降ろし、席を立った。

お客様用のトイレへと入っていく。

その姿を見送った後、椅子に降り立ったばかりの僕をマスターが抱えた。


「情けないよなあ。ムッちゃんに励まされているようじゃ」


僕と向き合って愚痴っぽく零す。


「でも折角、背中を押してくれたんだ。

ちゃんと私の口からメグちゃんに直接言わないと」

「にゃお」


何を直接言うのかといえば。


「好きだ」


そして、何の躊躇いもなく、僕の額にキスをする。

マスターのキスは三人の中で一番ソフトタッチ。その代わり、接触時間が長い。

暗闇の時間が長いので、不安になって暴れそうになるのを何とか押し留める。


「好きな人が別に居たって関係ない、よなあ?」


言葉の最後の方は自信なさげにマスターが呟いた。

しかし表情は柔らかである。


「頑張ろう」


決意のこもった言葉と共に、もう一度、額に愛を置かれる。


「席を立ってごめんなさい。あら、お話をしていたの?」


トイレのドアが開き、ムツが戻ってくる。


「ふむ。今後のことについて、ね」

「そうなの? 私には相談しないのかしら」


どうかな、とマスターは僕をムツに渡す。


「この泥棒猫」


顔を寄せて満面の笑みで罵られる。

こ、怖い。

でも、それが正真正銘僕に向けられた言葉のようで、ちょっぴり嬉しくもあり。


穏やかな午後の時間は続いていく。

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