第六話
☆∵:・
からんからん。
暇で暇であくびをしていると、喫茶店の白塗りドアが開いた。
「よお、寝坊助」
キャンドルが茶化してくる。
口をいっぱいに開けた所をばっちり見られてしまった。
「猫はいつだって眠いんだ」
「チルチルもすっかり飼い猫になったな」
カウンターの下で伸びをしている僕の前に、
キャンドルはのっしのっしとやってくる。
「すみません、ここを通ったついでにと」
「ふむ、気にせずゆっくりしていきなさい」
飼い主さんはまだお店の雰囲気に慣れていないようだ。
マスターはいつもの優しい微笑みで迎え入れる。
こんな調子で足しげく通ってくれたら、
キャンドルとこうしてお話もできて、暇な時間も減る。
「飼い猫ねえ。もうしばらくはここに居るけど、ずっとはいないよ」
「あれ、そうなのか?」
意外そうにキャンドルが聞いてくる。
「うん。だって暇だし」
「でも外にはドラがお前を殺そうと、うろうろしているよ」
あー、と肝心なことを思い出して項垂れた。
「まだ僕のこと探しているんだ?」
「血眼になっているって、他の野良猫が言っていたな」
「はあ。どうしようもないな」
「そんなことないさ。お前さんがドラを打てば良いだけのこと」
口元をニヤリとさせて、尻尾を振る。
「何の冗談だ。アニキがやられているのに」
「アニキはアニキだ。お前さんとは違う」
「アニキの方が僕より何倍も強いじゃんか。実力の差は歴然で、
そのアニキが負けたのなら、僕に勝ち目なんて」
「チルチル。アニキと直接やりやったことはあるのか?」
今度はニヤリとせずに、僕を真っ直ぐ見てくる。僕は目を逸らした。
「いや、無いけど」
「だったらわからない。実力の優劣なんて」
「そうかなあ。見た目の体格からして違うし」
アニキの体格を思い出してみると、
僕のふたまわりぐらい大きくて、丁度ドラと同じくらいなのであった。
「確かにアニキの方がガタイは良い。
だけど、お前さんにはお前さんの武器があるはずだ」
「僕の武器?」
「例えばそうだな」
とキャンドルは店内を舐め回すように眺めていく。
そして、カウンターで談笑している二人に目が留まった。
「お前さんは良く猫や人の話を聞くじゃないか。しびれを切らさずに」
僕は目を細めてじっとりキャンドルを見やる。
「それが猫の喧嘩で武器になるの?」
「それはお前さん次第だよ」
また口元をニヤリとさせた。
僕次第って結局丸投げじゃん! と文句を言おうとする。
からんからん、と来客のベルが鳴った。
「いらっしゃい。おや、この時間帯には珍しいお客さんだね」
「ええ、ちょっと研究が思い通りにいかなくて、うっかり来てしまったわ」
聞き馴染みのある夜の声が、日も高いこんな時間にやって来ようとは。
しかし白衣はいつも通り着こなしているムツ。
キャンドルの飼い主さんは奥から四番目のカウンターの席についており、
ムツはいつも通りの一つ空けて奥から六番目の席に座った。
つまり入り口から一番近い席。
「いつもの頂戴」
「わかりました」
マスターは赤いポットを蛇口まで持っていく。
「あ、あの」
「何?」
息を詰まらせながら声を発するキャンドルの飼い主さんに、
ムツは煩わしそうに返答する。
「何か研究をなさっているんですか?」
「それを聞いてどうするの?」
「い、いや。その」
あはは、と苦しそうに笑う飼い主さん。マスターが助け船を出した。
「ムッちゃん、そんな言い方は無いだろう。
女の子なんだから、もっと愛想良くしなきゃダメだよ?」
む、とムツは肘をついて口を曲げた。
「薬の研究よ。ちょっと前に話題になった、新種ウイルスの研究」
「す、凄いですね! そんな医療の前線で研究なさっているなんて」
前のめりになって言う飼い主さんを、ムツはついていた肘を解いて手で払った。
「大げさに言わないで。それより、あなたはどこの誰なの?
見た所、高校生っぽいけど」
「俺は北高に通っているマキノと言います」
「そう。マキノ君に、北泉高校ね」
「は、はい」
聞き覚えがあるわ、とムツはわざとらしいひとりごとを言う。
「この近くの高校だからね」
ムツのひとりごとに、間髪入れずに返答するマスター。
心なしか、声が上擦っている。
「ねえ、おじさん。どこかで聞いたことのある高校ね? あとマキノ君って」
「あ、ああー」
マスターの情けない声が聞こえたと思ったら、
かしゃーん、と耳障りな甲高い音が続いた。
カップを落としてしまったようで、耳も目もあてられない。
「だ、大丈夫ですか?」
「ふむ、急な音を立ててしまってすまない。
新聞紙やら何やらを奥から持ってくるから、ちょっと失礼するよ」
そう言い残して、そそくさと去るマスター。
僕とムツは呆れて口が開きっぱなしだ。
「なあ、お前さんのマスター、大丈夫か? 急に動揺していたけど」
キャンドルも飼い主さんと同じで慌てた口調。
「うん、複雑な事情が絡んでいて、ああなってしまったんだ」
「ほおう」
唸り声を上げ、キャンドルは腹の底から感心していた。
そんな立派なモノじゃないよ。
そう思っていると、唐突にムツが振り返ってこちらを見てきた。
「マキノ君、あの犬の名前、キャンドルって言うんでしょう?」
「は、はい」
「他に、家に猫を飼っているんじゃないかしら。
その猫、昔は四匹居て、うち一匹は脱走しちゃっていて、それから」
「ちょ、ちょっと待ってください」
「うん? 何かしら」
「どうして、そんなに詳しく俺のことを知っているんですか」
「さあ、どうしてかしらね。これも研究の一環かしら」
適当な流し目を送るムツ。
キャンドルの飼い主さんマキノは、
突如目の前に現れた白いベールに包まれた謎の女ムツに、
ちらりちらりと煌めく瞳を見せ始めていた。
「なあ、あのムツって女はどうしてマキノのことを良く知っているんだ?」
キャンドルもマキノと同じで不思議がる。
「うん、あれも複雑な事情が絡んでいるんだ」
しかし、ムツはどうしてマスター伝いで聞いたメグのマキノ情報を
本人に告げたのだろうか。
「いやー、待たせてしまったかね」
マスターが新聞紙とガムテープを抱えて奥から出て来る。
「いえ、すみません、そろそろ俺はこれで」
マキノは頭を掻きながら席を立つ。
「ああ、もう良いのかい? 変に気を遣わせちゃったかな」
「それは全然平気ですので。えっと最後に、
ムツさんの連絡先を聞いて良いですか?」
「別に、良いわよ」
二人がごそごそしているのを横目に、キャンドルも立ち上がった。
「そうだ、こっちも最後に。ミケがお前さんの居場所を尋ねに来ていたぞ」
「み、ミケが?」
弟が目を付けていた猫。アニキの元婚約猫で、ドラの現婚約猫で、
僕が死にそうな目にあう原因を作った猫。
それがどうして僕の居場所なんか聞いてくるのだろうか。
「もちろん知らないと言っておいたが、
今度来た時は、ここに居るって言っておくかい?」
「うーん、そうだな」
ミケに関しては少々特別に考えないといけない。
アニキの特別だった猫なのだから。
「ここの居場所、教えて良いよ」
僕の言葉に、がくっと姿勢を崩すキャンドル。
「教えて良いのかいっ」
「うん。ミケはアニキの特別な猫だったから」
「アニキの特別ねえ」
キャンドルは腑に落ちないようだった。
「ねえ、キャンドル。君にとってもミケは」
「おっと、それ以上は言うなよ。
あいつはもう何でもない、他の野良猫と変わらないんだ。
俺も向こうもそういう風になっている」
強い口調で拒絶するキャンドルに、失言してしまったことを少し反省する。
このことはタブーなのに、気が緩んでいた。
「ごめん」
「ほらキャンドル、行くよ」
マキノがリードをくいっと引っ張った。
「お前さんらしいけどさ。しっかりミケに伝えておくよ」
「ありがとう。ばいばいキャンドル」
「おう、またな」
キャンドルは尻尾を揺らして去って行った。
白塗りのドアが閉まった後も、キャンドルの居た余韻が僕の中に留まっていた。
それを大切にお腹の中に仕舞うように、僕は自分の指定席で身体を丸めた。