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空より狭く愛より広い  作者: 原 すばる
5/9

第五話

   ・:∵☆


 ぺたんぺたん。

気色の悪い感触を右の前足に感じている。

太陽は本日もコンクリートの地面を焼きつけ、僕は少しでも気を紛らわそうと、

熱い地面に違和感たっぷりの前足を擦りつけようとする。


「おい、地面に擦りつけて、汚れを落とすな」


隣を歩くアニキに、さっそく咎められた。


「う、うん」

「ったくよお。犬っころ風情が、どこでも糞して良い訳ねぇだろう」


僕としては早い所、

前足にべっとり付着しているその犬の糞を取り除きたいのだが、

運悪く糞を踏んづけた所を運悪くアニキに見られてしまい、

その犬の所へ一緒に文句を言いに行くことになってしまった。


喧嘩になるのは目に見えているし、

臆病な僕は無視してどこかへ逃げ出したかった。


しかし、アニキはつい先日、僕の弟を助けてくれた命の恩猫なのだ。

嫌々ながらも、ここは素直に従うしかない。


「あ、あのさ」

「おう、なんだ」

「あなたは糞で犬が見分けられるの?」


たどたどしく聞くと、ぶっ、とアニキが噴き出した。


「やっこさん馬鹿言っちゃいけねえ。

確かにここら一帯でオイラの知らない顔はないが、糞の顔は知らん」

「そっか」


あとよ、とアニキは足を止めてこちらを見る。


「ここらの奴はみんなアニキって呼ぶぜ?」

「わかった。僕はチルチル」


以前にも名乗っているけど、自然の流れで。


「おめえの父ちゃん、良いよな」


折角名乗ったのに、おめえ呼ばわりだった。


「良いって?」


僕が聞き返すと、アニキは止めていた足を動かして前へ出る。


「なんつーかよ。オイラの所にわざわざ子供連れて挨拶に来るなんて、

普通はしないぜ」


小首を傾いで、尻尾を大きく二回振る。

僕はとてとてっとアニキの隣に駆け寄る。足裏の糞が落ちないように忍ばせて。


「父さん、アニキのこと褒めてたよ?」

「そうかい」


アニキはまた足を速めて僕の前に行ってしまう。なかなか顔を見せてくれない。

仕方がないので、金魚の糞みたくくっついていく。


「着いたぞ。ここだ」


目的地に着いてしまったようだ。

足を止めたアニキの前に、黒塗りの高い門がある。


「うわあ。高いなあ。登れるかなあ」

「心配はいらん」


急にくるりとこちらに顔を見せる。左目の切り裂き傷に一瞬目がいった。

それが一気に視界いっぱい、大きくなったかと思ったら、身体がふわりと浮く。


額すれすれに黒塗り門が迫り、気が付くと僕は門の上に宙ぶらりん。


一拍おいてそのままぴょーん、と跳ねて芝の上にごろんごろんと転がる。


「いてて」


全てがあっという間の出来事で、僕の理解が追いつかない。

芝に身体が叩きつけられた衝撃と、首筋に感じる僅かな痛み。

アニキに首根っこを咥えられたのかな。


よたっと顔を上げると、目と鼻の先にでかい顔があった。


「……」


声が出ない。身体が固まる。

でかい顔はもぞもぞと黒い鼻を近づけてくる。


「ぼ、僕は、お、美味しくないよ?」


でかい顔はにんまり笑って、僕の顔を舐める。

うわあ、と情けない声を上げて逃げようとするが、足がすくんで上手く立てない。


「くくく」


背後で笑いを押し殺した声。


「くく、はっはっは。おい、キャンドル。

おめえが怖いってよ、そこのチルチルが」

「参ったな。驚かすつもりは無かったんだ」


バツが悪そうに苦笑いを浮かべながら舌を出す。

この大きな白い犬が僕の糞の主?

それにしては、アニキと気さくに話しているけど。


「こいつはチルチル。一匹で外に歩き始めたばかりのヒヨッコだ」

「よろしくな。俺は飼い犬のキャンドルだ。

なあ、アニキに脅されたりしていないか?」


こそっと大きな顔を近づけて聞いてくるキャンドルを、

アニキが間に入って押しのける。


「おめえよ。第一印象が悪かったからって、オイラを悪く言うのか?」

「誰のせいでその貴重な第一印象が悪くなったと思っているんだ」

「おめえの家の門が高すぎるんだ」

「お前さんがガサツ過ぎるんだ」

「にゃにおー」


アニキとキャンドルが顔を突きあわせていがみ合っている。

その様子がどこかおかしく、僕はぷっと笑ってしまった。


「あっはっは」

「おい、何がおかしい」

「あ、ごめん」

「やっぱり脅されているじゃないか」


鼻を鳴らして勝ち誇るキャンドルに、アニキは慌てた。


「い、いや違う。こいつが軟弱なだけだ」

「どうだかね」


んなことよりだ、とアニキは声を大きくする。


「さっき、そこの道沿いにあるコインランドリー傍の電柱で

こいつが犬の糞を踏んだ」

「犬の糞? 珍しいな」


キャンドルは眉間にしわを寄せた。

だろ? とアニキが芝生の上にどかっとくつろぐ。


「ここら一帯は犬の糞をちゃんと始末するって決まりがあったはずだぜ」

「ああ、俺の飼い主も始末してくれる。

それで、俺にどこの犬の糞だかを当ててくれと」


わかってるじゃねえか、あぐらをかいて前足で耳を掻くアニキ。

よその家の庭でもリラックスした振る舞いだ。


「おめえは特に鼻の利く犬だ。それぐらいお安い御用だろ」


まあねと頷いてキャンドルは僕に向き直った。


「それで、踏んだ糞の跡はあるんだろう?」

「えっと、これ」


おずおずと右足を差し出す。

キャンドルは黒い鼻を近づけて、くんくんと注意深く嗅ぐ。

ぺろっと舌を出して右足をひと舐め。


「え、あっ」


生温かい感触に、微妙なくすぐったさを覚える。

って糞の付いた足を舐めるなんて、キャンドルさん大丈夫ですか?

僕は自分が犬の糞を踏んだすぐ後に、その足を舐めたことを思い出す。


良くない好奇心が働いてしまったのだ。

泥か何か得体のしれない緑濃茶色のモノを、

ぺろっ、と舐めた次の瞬間、胸にずきゅんと来た。


胸焼けみたいなものが湧いて、うわあっと腑抜けた声を上げた。

それを通りかかったアニキに見られ、連行されてきたのだ。


「ん、これは、違うな。うーん、ここか」


しかしキャンドルは念入りだった。

以前にレストランの廃棄を漁りがてらワインを飲む人を見たことがあったけど、

匂いを嗅ぎ、一つ舐めてはまた匂いを嗅ぐ、今のキャンドルにそっくりだ。


真剣な面持ちも拍車をかけ、糞まみれの僕の足にも

ワインぐらいの価値があるのではないかと思ってしまう。

高く評価されている気分だ。悪くない。


「ふんふん。大体わかった」


僕の足を離して、キャンドルが頷いた。

僕はさりげなく、ごしごしと芝に足を擦りつける。


「おう、どこのどいつだ。フトドキな奴は」

「隣町に新しく開店した薬局屋のペット、ブルの糞だな」

「へぇ~隣町からここまで来るんだ」


僕が感心して頷いていると、

アニキは納得していない様子で耳を前足で掻いている。


「そのブルって奴の根拠はなんだ」

「この一帯で道端に犬の糞を放置する犬は、一部例外を除いて、まずいない。

隣町の犬でも心当たりはない。とすると、新参犬だ」

「例外って、ボス犬のジャックだろ? あいつの糞じゃねえのかよ」


どうやらアニキはそのボス犬に当たりを付けていたようで、

くつろいだ姿勢を解いて、勢い良く肉球を丸める。


「いや、ジャックの糞はもうちょっと強烈な臭いなんだ。

あいつは人間の食べ残しにも平気で手を出すからな。色ももっと黒い。

対して、チルチルの踏んだ糞は緑がかった茶色。

栄養バランスが整ったドックフードと、

この春先に野草を食べられるのは隣町のお花畑公園の他はまずない。

隣町に最近越してきた薬局屋の犬に間違いはないだろうさ」

「ほおお」


何でもない風に語って見せるキャンドルに、僕は身震いした。

やたらな場所で糞をしたが最後、こんな風に吊し上げられてしまうのだ。

怖い。プライバシーも糞もない。アニキとか手加減を知らなそうだし。

こっそりアニキを見ると、いきり立っていた。


「そうと決まったら本丸に乗り込むぞ」

「本丸?」

「ブルの野郎の家に行くんだよ。

ちょっと痛い目に遭えば、道のど真ん中で糞なんて出来ないだろうぜ」


僕たち猫なのに、犬に痛い目なんて遭わせられるのだろうか。

しかし、シャドウ猫パンチを景気良く放っているアニキを見ると、

そんな疑問も薄れてくる。


「待て。お前さん、ここに来たばかりの犬に暴力を振るうのか?」

「そうだ。ルールを守らない奴は糞以下だ」

「そのルールを知らなかったということもある。

何も知らずに理不尽な暴力を受けるだなんて、

いくらなんでも可哀そうじゃないか」

「あ、ああ。そいつは、そう、だな」


キャンドルに言われてアニキは掲げていた拳を静かに降ろした。

アニキが折れるだなんて、珍しいこともあるもんだ。


「今回のことはどちらかといえば飼い主の責任だろう。

犬の糞はきちんと処理しましょうって張り紙が、区役所の裏道に何枚もある。

それを拝借して飼い主のポストに突っ込んでおくんだ」

「ちっ、それだけかよ」


キャンドルの提案に、血気盛んなアニキは不満そうだ。


「おいおい、新参犬をこらしめるために猫の手を借りただなんて噂になってみろ。

恥ずかしくて街を歩けなくなる」

「わかってるよ。おめえに嫌われたって、しようがないからな」


ぷいっとそっぽを向くアニキ。

種族は違えど、アニキとキャンドルはお互いに信頼関係を築いているようで、

僕はちょっと羨ましかった。

猫以外の友達なんて、僕にはいなかったから。


「おい、ぼさっとするな。行くぞ」

「あ、うん」


アニキの後を追おうとする。


「チルチル」


後ろで自分の名前が呼ばれた。


「飼い犬ってのは暇なモノでな。お前さんも、気が向いたら遊びに来いよ」


わんっ、と一声吠える。

心の底から嬉しくなって、にゃお、と僕は精一杯声を上げて応えた。

これが僕とキャンドルの出会いだった。

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