第四話
☆∵:・
ぽたりぽたり。
コーヒーを注ぐ、最後の一滴まで音が聞こえる。
それほど喫茶店は静粛に包まれていた。
時々、雲間から覗き込む日の光が、やってるかいと窓ガラスを叩く。
やってるよ、と僕はあくびをして返事をする。
暇だ。
この喫茶店は平穏すぎる。
野良だった時は毎日毎晩、餌と寝床と身の危険の心配をしなければならなかった。
それがなんだ、この体たらく。
このまま日がな一日ぐうたらな日々を送っていたら、
デブ猫になってしまうのではにゃいか?
そんな姿を野良時代の友達なんかに見られた日にゃあ、笑いモノ待ったなし。
しかし、春の風に誘われるがままにあの扉を出て行ったら最後、
再びドラに追われ殺される。
あのアニキだって殺されたんだから、
僕なんかが間違っても生きて帰られるわけがない。
マスターに拾われた、この間は運が良すぎた。
そこまで思考を巡らしたところで、僕はつい先ほどまで見ていた夢を思い出す。
あの時も運良く弟は電車に轢かれずに済んだけど、
もしアニキが助けに来なかったことを思うとぞっとする。
たった一歩、駅のホームで足を滑らせたために、
死んでしまったのかもしれないのだ。
そうだ。それは今の僕だって変わらない。
あの入り口のドアの向こう、一歩先に死が存在する。
そういう場所で暮らしているということを忘れてはならない。
僕が白塗りのドアに固く意志の鍵を閉めていると、何やらぼそっと声が聞こえた。
その方向にはマスターが居た。
先の僕と同じく、入り口の白塗りドアをじっと見つめたまま。
「メグちゃん」
今度はハッキリと聞こえた。僕は肩を落とす。
何がメグちゃんだ。
こっちは無に近い緊張感を必死でこねくりまわして作っているのに。
あのぽっかりと開いた口に、
できたてほやほやのこの緊張感を投げ込んでやりたい。
「暇だし、メグちゃんを味見しておこうか」
声を弾ませて、マスターは僕を抱き上げた。
暇で味見できるほど僕の額は安くない!
「わんわんわん!」
僕が手足をばたつかせていると、外から犬の吼える声が聞こえた。
次いで白い扉が慌てたように開く。
マスターも騒がしく僕を抱き直した。
「どうしたんだキャンドル。あ、すみません」
ドアから出てきたのはメグと同年代ぐらいの人間の男の子と、
手に持ったリードにはキャンドルと呼ばれた大型犬。
あの美しい白い毛並みに、僕は見覚えがあった。
「キャンドル!」
僕はマスターの腕から飛び出してキャンドルに近寄った。
「チルチル! やっぱりお前さんだったか」
尻尾を強く振って嬉しそうに僕の頬を舐める。くすぐったい。
「どうしてここが?」
「なに、散歩中偶然に外からお前さんの苦悶した表情が見えてな。
もしやと思って来てみたんだ。その額の傷も、酷い有様だが大丈夫か?」
鼻をひくひくさせて尋ねてくる。僕は安心させるために、尻尾を振った。
「これに関しては大丈夫。あのマスターにきちんと手当てをして貰えたんだ」
「そうか、お前さんは昔から運の良い奴だったからな。
最近、姿を見なかったから随分と心配したんだぞ」
僕たちが話している間に、
キャンドルの飼い主さんは奥から五番目のカウンターに座って
マスターと何やらお話をしている。
「実はドラに追われていてさ。
あの夜、ついに見つかっちゃって、これをやられたんだ」
「ドラに追われただぁ? まさか、あの女に手を出したんじゃ」
はぁはぁと大きな舌を出しながら、唾を飛ばして聞いてくる。
「いやいや、ミケに手を出すわけないじゃないか。
ただ会っている所を奴の取り巻きに見られたぐらいで」
僕は後ろめたく視線を逸らした。
がっくし、とキャンドルが耳を閉じてうな垂れる。
「忠告していたのに。言わんこっちゃない」
「しようがなかったんだ。向こうから勝手に押しかけてくるし」
「話なんて聞かずに追い払うのが普通だろ?」
「話は最後まで聞かないとダメだって」
キャンドルはじっとりと僕を見てくる。
「アニキか? お前さんも好きだよな。ミケと同じく」
僕は喫茶店の床にお腹をつけ、体勢を崩した。
「弟の命の恩猫だし、キャンドルとだってアニキが会わせてくれたし」
キャンドルも大きなお尻をのっそり置いてその場に座った。
「恩猫ねぇ。それに話を最後まで聞けっていうのは、人間の場合だろう?」
「そうだっけ?」
「そうだよ。猫なんて人間に負けず劣らずお喋りなんだから、
猫の話まで聞いていたら日が暮れちゃうぜ」
僕は口を曲げて、床にくっつける。
「猫も人間も大差ないし。誰かの話を中断したり、無視したりするのって、
僕の性に合わないんだよ」
「お猫好し、お人好し」
「何とでも言いな」
キャンドルはため息をついて、店内を見回す。
「それにしても、年季が入っていて小奇麗な店だな。
落ち着けるし、長く居たくもなる」
「僕もこの雰囲気が好きなんだ。カウンターや壁は開業当初のまま、
不自然さのない木目の褪せ方で愛着も湧くし目にも優しくなる」
ふ~ん、と鼻をひくつかせてキャンドルは観察していく。
「お前さん、やけに詳しそうだな」
「そりゃあ、マスターとお客さんの会話はなるべく聞くようにしているからね」
「よっぽど好きなんだな。マスターのこと」
「うん。だって、僕の命の恩人だし」
なるほどね、とキャンドルは優しく微笑む。
「お前さんを見ていると、性格は違えど、どこかの誰かさんを思い出すよ」
「誰かさん?」
「馬鹿みたいに義理を気にする。だけど、ぶっきらぼうでガサツな誰かさん」
自然と笑みがこぼれた。
「僕はぶっきらぼうでガサツじゃないよ?」
「そうだな。お前さんは猫が良すぎる。もっと自分勝手に伸び伸び生きろよ」
その時、コーヒーを一杯だけ飲んだキャンドルの飼い主さんが席を立った。
「また時間がある時に立ち寄ってみます」
「ああ、いつでもいらっしゃい」
「ほら、行くよ、キャンドル」
男の子に急かされて、キャンドルはすくっと起き上がる。
わんっ、と一つ景気良く吼えて、キャンドルはお店から出て行った。
「ミチル、お友達になれそうかい?」
マスターに抱きかかえられる。
「ふにゃあ」
もうお友達だよ。背中を撫でられ、喉を鳴らしながら僕は答えた。
「それじゃあ、さっきの続きをしようか」
それじゃあじゃないよ!
と、とっさに自分の額を隠そうとしたが、時既に遅かった。