第三話
・:∵☆
ひゅうひゅう。
冷たい風が吹きつける若葉の季節。
しかし、鉄製の線路は柔らかな日差しの熱を溜めこんでいた。
線路を踏んだら最後、肉球から煙が出てしまいそうだ。
「なあ、どこまで行くんだよ?」
不安そうに、僕は前を歩く弟に声をかける。
「そう焦るなって。もう少し先の日向ぼっこスポットに、
可愛い子ちゃんが居るんだよ」
「可愛い子ちゃん?」
「マキノのとこの四番目の子。俺のハートにずきゅんと一発」
「ずきゅんとねぇ」
僕は以前、踏んでしまった犬の糞を舐めた時のことを思いだした。
あの時もハートにずきゅんときたモノだが、
弟はその可愛い子ちゃんに犬の糞でも食わされたのだろうか。
それでこの浮かれ具合。
「なあ、その可愛い子ちゃんってのはどんな猫なんだ?」
「うん? そうだな。月のように丸くて可愛い目をしているんだ。
チルチルも一目見れば気に入るよ。ほら、もうそろそろだ」
前を歩く弟が駅のホームに登った。後を追う。
「どこら辺?」
「あの小さな石段さ」
前足をちょんと指した方向に、隠れるように石段があった。
駅員さんが利用しそうな、こじんまりとした石段。
「今日は来てるっかな~」
るんるんと声を弾ませて、弟は顔を伸ばす。
ぴーん、と耳を立たせ、るんるんが止まった。
「どうしたの?」
僕も弟の尻尾を押しのけて、顔を伸ばす。
「だからね、あたしと遊んでよ」
「うるさい。オイラは今、お昼寝中にゃんだ」
声が聞こえてくる。透き通る声と、ガラガラ声。
僕にはこのガラガラ声に聞き覚えがあった。
アニキだ! ここ一帯のボス猫の。
住宅街でペットと野良が入り混じる中、
秩序と安息を重んじ、義理高く、猫以外の動物からも信頼が厚い、
と父さんから説明されていた。
「こんな所よりも、もっと居心地の良い場所、あたし知っているよ?
隣町のお花畑公園」
「前にも言ったろうミケ。あそこはダメにゃん。縄張りの外」
父さんと挨拶に行って以来、アニキを見るのは二度目だけど、
こう遠目から見ていても存在感が他の猫と段違い。
あんなにまん丸なお腹をお天道様に向けて寝るなんて! 大胆。
「けちー。良いじゃんか、細かいことは」
「ダメと言ったらダメにゃん。
決まりを守らないと、日向ぼっこもできなくなるにゃんて」
「むぅ。だったら、ここで我慢する」
そう言いながらアニキの一つ下の石段で丸くなっている可愛い声の主は、
弟のお目当てミケか。
「なあ」
「何も言わないで、チルチル」
弟にしては珍しい、小さくて弱った声。
なあ、相手がアニキじゃ、ダメだよ。
僕は出かかった言葉を、そのまま心の中で呟いた。
「ミケはオイラのこと怖くにゃいのか?」
「どうして?」
「片目の傷。これ見ると、みんな逃げる」
アニキの片目の傷。
左目に斜めに入ったひっかき傷で、深くえぐれていて生々しい。
僕もその傷にビビって思わず逃げ出しそうになったっけ。
父さんに首根っこを咥えられ、無理矢理頭を下げさせられて謝ったけど。
「そんなの、男の勲章よ」
しかし、ミケは澄ました口調。
そして丸めていた身体を伸ばし、ぴょーんとアニキよりも一個上の階段に登った。
首を捻るアニキに、ミケはペロリと左目の傷を舐めた。
「やめろ」
アニキは低い声で言う。
しかし、ミケはミルクを舐めるように、ペロペロと舐めだした。
「やめろって」
僕たちは顔を並べ、固唾を飲んで見守っていた。
が、弟は僕の顔を押しのけて、石段から黙って背を向ける。
「なあ、元気出せって。女の子なんて星の数ほどいるよ」
「可愛い子は月の数だ」
そう吐き捨てるように言って弟は駆け出した。
慌てて追いかけながら、僕はそのしょぼくれた尻尾に声をかける。
「なあ、僕はどこにも行かないからさ!」
「……」
焼かれた線路の軋む音が、僅かに聞こえる。ごとん、ごとん。
「なあ、電車が来るぞ!」
弟の耳には何の音も入ってこないようだった。
次第に線路の音が間隔を狭めていく。
ごとごと、ごとごと。
熱を溜めた線路が悲鳴を上げ、
甲高いブレーキ音と、ぶ厚い汽笛の音。
それらの音に吸い込まれるように、弟の身体はよろけた。
「あぶな」
がたんがたんがたん、しゅうー。
容赦の無い速さで滑り込んできた鉄の塊。
押し出された空気の圧が目に入り、前足で顔を覆う。
風が全身の毛の隙間を通り抜けていく。
やがて、ぷしゅうという空気の吹き出す音が聞こえ、風は止んだ。
恐る恐る前足をどけていく。
「……」
睨みをきかせ、弟の首根っこを咥えたアニキが居た。
僕は口をぱくつかせるしかない。
「ちゃんと前を見て歩きな」
どすっ。目の前に弟が放り出される。
放り出された弟は、じたばたしながら立ち上がった。
「なんだ、良い目をしてやがる」
起き上がった弟がアニキを睨み返している。
「甘く見やがって」
「ああ、ちっさい奴だ。だが、オイラはいつだって相手してやるよ」
アニキは腰を低くして、いつでも飛びかかれる構えをとった。
「にゃにおー」
弟も命の恩猫なのに、今にも前足が出そうであった。
傍目から見ても体格差が酷い。ふたまわりも違う。
こんなところでおっぱじめたら、今度は線路の上に落っこちてしまうか、
はたまた目玉の一つでも潰されるか。
「ごめんなさい!」
僕はそう言い放って、弟の首根っこを掴むと、一目散に逃げた。
僕自身もまだまだ子猫なので、
弟の身体をほとんと引きずってのノロノロとした逃走であったが、
それでもアニキは追ってこなかった。
引きずられている間、弟は何やら喚いていたが、関係ない。
野良の世界では弱肉強食が常なのだから、
いくら義理高いアニキとは言え、
女に手を出そうという男には、子猫だろうが容赦はしないだろう。
駅のホームの陰から出ると、いつもと変わらず太陽が笑っていた。