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空より狭く愛より広い  作者: 原 すばる
2/9

第二話

 からんからん。

心地良いベルの音が、遠くで鳴り響いている。

眠気まなこを擦り、前足を伸ばして身体のストレッチをする。


「いらっしゃい」


ぼんやりする視界が白い服装を捉える。


「いつもの」


長髪のお姉さんは慣れた様子でカウンターに座る。入り口から見て一番近い席。

ちなみに入り口から一番奥が僕の指定席だ。


「今日も研究かい?」

「ええ。やっと一区切り付けられたわ」


店内を見回すと、テーブル席の椅子は片づけられている。

閉店後の来客。

そして物珍しい白衣を着こなすこのお姉さんは、マスターの姪のムツだ。


「あら、その黄色い新しい花は、菜の花?」

「お花畑公園を散歩していた時に見つけてね。綺麗だろう?」

「そうね。花瓶に入れられても元気いっぱい。誰かさんみたいに」

「誰だろうなあ」


ムツは白い服の前ポケットから携帯電話を取り出して、何やら指を滑らせている。


「菜の花の花言葉は。ふんふん、快活な愛」


わざとマスターに聞こえるかのように、大きな独り言を呟いて頷いている。


「あの子は関係ないよ。はい、いつもの苦めなブラックコーヒー」

「ありがとう」


コーヒーを受け取り、ひと口含む。ふぅ、と熱の籠った吐息。


「おじさんのコーヒーは落ち着くわ」

「どうも」

「メグちゃんとは上手くいっているの?」

「ちょっとトイレに失礼するよ」


ムツのじっとりした目に見送られ、マスターはそそくさと奥に入っていく。

ふぅ、と今度は呆れの混じったため息をついている。

メグに好きな人がいるってこと、マスターはまだ気にしているのかにゃあ。


僕は心配になりながら、耳元を前足でかきかきする。

ふと、視線を感じて顔を上げると、ムツと目が合った。


「私、猫って嫌いなのよね」


ため息混じり。僕が来た初日にも同じことを言われた。

あの時は嫌悪の顔を見せていたが、今は戸惑いも混じっている。

どこか隙がある。


「ん」


ぶっきらぼうに手を差し出した。こちらを見ようともせずに。

あんなのでこの僕が近寄るとでも思っているのか。

いくらマスターの姪だからって。僕は前足の耳かきを再開した。


「ふぅ」


軽いため息をついてムツは伸ばした手をポケットに引っ込めた。

ほらごらんなさい。ムツは猫の扱いがなっていないよ。

懲りずにまた、ぶっきらぼうに手を伸ばしてくる。


だから、何度やったって……。

んんん? なんだ、この鼻先をくすぐる香りは。


「……」


ムツは相変わらずこちらを見ずに、しかし、ゆっさゆっさと手を揺らしている。

その度に香ばしい匂いがふりかけのように宙を舞い、ぱらぱらと鼻の頭に積もる。


あの匂いの正体はなんだ。物凄く気になる。

く、悔しいけど、猫の扱いわかっているじゃにゃいか。


僕は観念し、むくりと起き上がると、ムツとの間にある四脚の椅子を軽々渡り、

その伸ばした手に一直線に突っ込んだ。


しかし、ムツの隣の椅子まで来ると再びポケットに手を引っ込ませてしまった。

匂いが漏れ出ている白衣のポケットに鼻を押し付ける。


だが、ムツの手は石にでもなってしまったかのように、ビクとも動かない。

僕は戸惑いぐるぐると椅子の上で回り始めた。

ちょっと目がぐるぐるしてくる。


「仕方ないわね」


呆れた声。

はい、とぶっきらぼうに言って、ムツはポケットから手を出した。

小さいお魚が三匹も乗っていた。


僕は手の中に顔を突っ込み、

顔面いっぱいに幸せの匂いを感じながら、むしゃむしゃと食べる。


「いつの間に猫が好きになったんだい?」


タイミング悪く戻ってくるマスター。

もう少しで食べ終えるから、ムツを茶化さないで!


「好きになってなんかいないわ」


肩をすくめるだけで、それ以上は動かさないでくれている。

ムツの気が変わらないうちにささっと食べよう。

手のひらに舌が付くのもお構いなしに勢いよく、最後の一欠片まで。


「ああん、もう。落ち着いて食べなさいよ」

「にゃあ」

「だから嫌いなのよ」


ムツがむすっとした顔で見てくる。


「にゃあ」


ごちそうさま。さあてと、食べるモノも食べたし、戻ろうか。

僕は踵を返して前足を上げる。

だが、上げた前足は地に着かず、さらに後ろ足も宙に浮いた。この体勢は。


「撫でてあげる」


ざらざらざらー。

毛先の一本一本に神経が宿ったのかと思うほど、わかりやすく逆立った。


「どう?」


どうもこうもない。見てわからないのか。この僕の、あられもない姿。

睨みつけようと見上げる。

そこには、白い肌をほんのり赤く染め、全く似合わない穏やかな顔つきがあった。


「ご満悦ね」


ご満悦な君に、もう何も言えません。

僕はムツの膝の上に伏せて、苦痛に耐える。


「頭の辺りを、少し指を立てて撫でるんだ」


いいぞマスター。


「こうかしら」


がりがりがりー。

なんて芸術的な下手くそ加減。

思わず、ムツの膝に爪を立てそうになって、堪える。


「ミチルが苦しがってないか?」

「そんなことないわ。良いご身分よ。おじさんと同じね」

「それはどういう」


マスターの困惑した声。


「本当は年の差を気にして手を出せないヘタレなのに、

大人の余裕ぶってメグちゃんの相手をしているご身分」


ムツの撫でる手がようやく離れ、カウンターの上に肘をついた。

んふ、と楽しげに笑みを浮かべている。

野良で命のやり取りをしていた時を思い出させるような笑み。


「ふうむ。なかなか手厳しいな。

しかし、若い女の子に手を出すというのは、勇気がいるものだ」


気まずそうに髭を擦る。


「そんな弱気じゃ誰にも相手にされないわ。

いいこと? 肝心なのは身分じゃないわ」

「と、言いますと?」

「中身よ、中身。内面からおじさん臭かったら、

若い子が相手にするわけないでしょう。

もっとフレッシュな気持ちになった方が良いわよ。変に気取らず」

「う、うむ」


マスターがたじたじになっている。

ムツの容赦のない物言いは、僕は嫌いではない。


言葉という名の刃物を突く様が、

生きるか死ぬかの野良の世界を見ている気にさせるからだ。

平穏な喫茶店で見られる、貴重な刃物。


「手をこまねいていたら男を作られてしまうわ。

とりあえず、何か作戦を立てましょう」


ムツはコーヒーに口を付けて、喉を潤した。


「それがですねムツさん。メグさん、お慕いしている人がいるようでして」


マスターは喉元にムツの刃物が掛かって敬語だった。


「は? 好きな人がいるって?」

「はい」

「誰よそれ」

「クラスメイトのマキノ君だそうで。体育で踊る時は優しく手取り足取り」

「ねえ、おじさん。それって、メグちゃんの好きなマキノ君のお話よね」


はい、とわかりやすく項垂れるマスター。


「おじさんのことだから、大人の余裕を見せた相槌で、

はいはい聞いていたんでしょう? 恋するマキノ君に心が躍る様を」

「はい」

「よく耐えられたわね。恋敵の惚気話なんて」

「伊達に三十六年生きていないさ」


一旦トイレに駆け込んでいたけどね。

その隙に、僕の額が奪われたけど。メグの唇によって。


「強がるの止めたら? かっこ悪いし、聞いているこっちも疲れる」

「ちょ、ちょっとトイレに失礼するよ」


マスターは酷くやつれた声を出し、再び奥へと引っ込む。

はぁ、とあからさまにため息をついて、膝の上の僕を持ち上げた。


「おじさん、へたれで困っちゃうね」

「にゃあ」


面と向かって愚痴られる。


「でも、好き」


突如、目の前が真っ暗になる。額に生温かな、覚えのある感触。

僕は混乱して、毛先一本動かせない。


なんで、どうして?

好きって、ムツがマスターのことを?


心の中で問いかけていると、喫茶店の暖かな証明が戻ってくる。


「夕方ここを通った時に見えちゃった。おじさんがここに」


ムツは照れくさそうに、言い訳っぽく僕に説明する。

不自然さの無い穏やかな表情のムツ。

って、マスターも僕の額を奪っていたの? 寝込みを襲うなんて、酷い!


「うん。あと三秒で、戻すわ」


まぶたを閉じて、深呼吸。

温かに染まった頬に白い雪を落としていく。

春は遠い。


「お、お待たせ」


腰を引かせながらマスターが再登場。


「帰って来なければ良かったのに」

「まま、そう言わずに。おじさんの恋愛話に付き合ってくれよ」

「聞くだけ聞いてあげるわ。おじさんがどれだけヘタレなのか」

「酷いなぁ」

「酷いのはおじさんよ。恋敵の話なんて聞いて、何にも思わなかったの?」

「もちろん思わないわけじゃないよ。

どういう人がメグちゃんのタイプか知る絶好のチャンスだと思ってね。

あ、そうそう。その好きな人の家でも猫を飼っているみたいで、

四匹居たんだけど、一匹が脱走しちゃって……」


しかし、恋敵の話を聞くことに耐えているのは、ムツ自身も同じではないのか。

こうして毎晩コーヒーを飲みに来て、マスターの恋愛話に付き合って。

その表情は興味が無さそうだけど、

あの仮面一枚の下ではどんな顔になっているのだろうか。


先ほど僕に向かって好きって言った時の、あの穏やかで自然な笑みを思い出す。

酷いのはムツだよ。恋敵の話なんて聞いて何にも思わなかったの?

投げかけた言葉は仮面に当たって、そこに切なげな表情が浮かんだ気がした。

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