第一話
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かつんかつん。
この耳障りな音は地面に爪がちゃんと引っかかっていない音。
僕が世界で一番嫌いな音だ。
人間様の作ったコンクリート道路は走るのに適さない。
それでも僕は走らなければならない。組織に追われているのだ。
追いつかれたら袋叩きに合って殴り殺される。
耳の中に拳を詰められ、口の中に拳を詰められ、海に沈められる。
それでいて彼らは何の罪も問われない。
しょせん野良の世界とは無法地帯なのだ。
しかし、無法地帯だからと言って、一般庶民を所構わずにぶち殺すほど、
猫の世界は世紀末でもない。
特に僕のような争いが嫌いな猫が組織的に命を狙われるなど本来有り得ない。
「だいぶ引き離したかな」
ちらりと後方を確認する。
追手の姿は見えない。
あの植木鉢を踏み台に、塀へと飛び乗れば、奴らは完全に僕を見失うはずだ。
「よお、弱虫チルチル」
ああ。決死の思いで飛び乗った塀には、敵の親玉、
ボス猫のドラが待ち構えていた。
「ででっ」
でっかい!
月明かりに照らされるはずが、僕はドラの月影にすっぽり埋まってしまう。
足元が闇に染まっていく。
ドラの垂れた毛の隙間から瞳孔がぎらりと光った。
「俺の嫁さんにちょっかいを出すとは、良い度胸じゃねえか」
「ちが」
違う、誤解だ。
ミケの奴が勝手に僕の所へ押しかけてきて、
お前との新婚生活が上手くいっていないと愚痴を垂れてきたんだ。
という、僕の言い分は恐怖が邪魔をして欠片しか出てこなかった。
その間にもドラのパンチは鼻の頭まで迫っている。
後ろ足が塀の縁に引っ掛かった。
これ以上は下がれない。
僕は咄嗟に屈みこんだ。
バカだった。
空気を切ったドラの爪が額に食い込む。
「ふにゃあああああ」
痛みに耐えきれず、僕は叫んだ。
熱い。焼けるようだ。
だが、焼けている場合ではない。次の攻撃は目の前まで来ていた。
もうダメか。
その時、尊敬していたアニキの顔が浮かぶ。
「攻撃こそ」
肉球に力を入れる。
屈んだ身体は縮んだバネ。一気に塀を蹴飛ばした。
ドラのパンチの軌道から外れ、僕の額とドラの額がごっつんこ。
「最大の防御だ!」
火花散るらん。
僕が覚えている、その夜の記憶はここまでだった。
☆∵:・
からんからん。
聞き慣れた来客を知らせるベルの音が悪夢の終わりを知らせた。
「こんにちはー。あれ、マスターいない?」
誰かがこちらにやってくる。
「ミチルぅ、相変わらずの寝坊助さんだね」
身構えるよりも先に、ひょいっと身体が浮く。
寝ぼけた心臓が宙ぶらりんになる。
ふわりと身体を包み込む感覚。
「おーい、寝坊助」
人間の顔が間近にあった。
短い髪にクリッとした目で覗き込んでくる女の子。
このお店の常連さんのメグだ。
「にゃお」
「おっ。額の包帯、取れたんだねぇ」
包帯と言うのはここ数日間、僕を悩まし続けた額の白い巻モノだ。
気になって気になって思わず手で触ると、
普段は温厚なマスターが繁殖期でも訪れたかのように顔を真っ赤にして怒鳴る。
僕は人の恋路は邪魔しないのに。
「んー? 酷い傷だねぇ。誰にやられたの?」
「にゃお」
ちょっとした言いがかりで。
「恋敵にやられたの?」
「にゃっ」
と僕はため息をついた。
とかく年頃の人間の女の子は何でもかんでも恋愛にもっていこうとする。
しかし、あれからミケは大丈夫だろうか。
隠れて僕に会っていたことがばれて、
ドラに酷い目に遭わされていなければ良いんだけど。
「おや、メグちゃん。いらっしゃい」
「マスター遅いよぉ。店先のオープンの看板は嘘なの?」
嘘じゃないよとマスターは細長いビンに黄色い花を何本か詰めて、
ニコニコしながら登場する。
白いお髭がとってもダンディなこのお人こそ、僕の命の恩人のマスターだ。
ドラに決死の頭突きを食らわせて気絶した後、
偶然通りかかったマスターに拾われ、傷の手当てまでして貰えたのだ。
「お客さんを一人で待たせるなんてさ。
この喫茶店、ちょっといい加減じゃないの?」
「ミチルが相手をしてくれていただろう?」
「そうだけどさー」
僕は少々乱暴に、カウンターの椅子に降ろされる。
六脚並んだうちの一番奥だ。
メグはふて腐れながら僕との間に椅子を一つ空けて座った。
さっきはあんなに可愛がってくれたのに。
「メグちゃんこそ、平日の昼下がりに来て、学校はサボりかい?」
からかい混じりにマスターが言った。
「今週と来週は三者面談で午前授業なの」
「ミチルの包帯が取れたのは気づいたかい?」
「とっくに気づいている」
メグはふて腐れてカウンターの上で両腕を枕にし、顔を隠した。
と思ったら、その顔を横にして僕の方を盗み見た。
「ごめんね」
口をぱくぱくさせて、マスターに聞こえないように謝る。
「にゃあ」
「うん」
ほっこりした笑み。
「今度、新メニューを出そうと思っていてね」
マスターは顔を伏せているメグを気にせず、話し出した。
カウンターの奥からコポコポと聞いただけでよだれが出そうな音がする。
続いてカチッと音が鳴り、モクモクと白い煙がのぼるのが見えてきた。
「どうぞ、お口に合えば良いけど」
ことり、とメグの目の前にコーヒーカップが置かれた。
最近鼻に馴染んできたコーヒーの酸っぱい匂いはしない。
「これは?」
「新作のココアだよ」
ふーんとメグは興味なさそうにカップの取っ手を掴むと、勢いよく飲む。
「あつっ」
「おお、大丈夫かい? 熱いからゆっくり」
メグは唇を厚ぼったく曲げて、今度は慎重に触れていく。
マスターは花瓶に手を伸ばして花先を整えながら、メグの唇を気にしている。
「美味しい」
ほおっと、温かい息を吐き出して呟く。
聞こえるか、聞こえないか。
それでもマスターは満足げに頷いた。
「マスター、これ甘くて美味しいよ。超気に入りました!」
メグはテンポ良くココアを飲みほしていった。
「ならば今日からでもメニューに加えよう」
「えへへ」
さっきまであんなにご機嫌斜めだったのに、
メグは調子良くカウンターの下で足を泳がせている。
女の子というのは猫も人間も変わらないにゃあと、ミケを重ねながら思った。
「そういえばマスター。好きな人はできた?」
メグはカウンターに身を乗り出してウキウキ顔で聞いている。
マスターは困惑顔だ。
「できないなぁ」
「どうして? 女性のお客さんもいっぱい来るんでしょう?」
「ハートが煌めかないんだ!」
マスターは服にしわができるほど、自分の胸を鷲掴みにして言った。
メグは小首を傾いで、うーんと唸っている。
ぴんと来ていない様子。
「はあと?」
「そうだよ。素敵な女性とお話していると、心が弾むんだ!
弾んで弾んで、穢れが落ちきって、ハートが煌めく」
マスターは大げさな身振り手振りで語って見せる。その瞳は煌めいていた。
「よくわかんないねーミチル」
「にゃあ」
「ほら、ミチルもよくわかんないって」
「はっはっは。それはメグちゃんに気を遣ったんだよ。
偉いなーミチル。もう立派なうちの従業員だぞ」
「にゃあ」
マスターに褒められて嬉しい。
「そうだ、ミチルもおやつの時間だったね。用意してあげるから」
カウンターの下から僕専用の容器を取り出して、
先ほど白い煙を昇らせていたミルクを注いだ。
「ほら、できたよ」
ことり、とカウンターの上に置かれる。
よっ、と椅子を蹴ってよじ登ると、
もわっと温かなミルクの匂いが視界全てを埋め尽くした。
おずおず、舌を出す。
うん、熱くない。
口元の髭にかからないよう、ゆっくりと舐めていく。
「お前さんは相変わらず、がっつかないねー」
メグの優しげな声。慌てん坊なメグとは違うのさ。
「あはは、間抜け顔」
容器から顔を上げるとメグに笑われた。
注意していたにもかかわらず、
口元の髭にいくらかミルクが引っ掛かっていたようだ。
ぽたりぽたりと白い雫が落ちていく。
恥ずかしい。
「あまり笑わないでやってくれ」
あああ、マスタにゃあああああ。
衝動的に湧き起こるマスターへの忠誠。
飲み込んでいくミルクがさらに熱くなる。
メグは僕の頭に触れた。
「ごめんよ、ミチル」
「ミチルは優しい猫だからね。私も、
気疲れした時はよくこいつに愚痴ってしまうんだ」
ぺろぺろ。ミルクを舐めながら、マスターの愚痴について思い起こす。
今日はメグちゃん来なかったね~、
今日のメグちゃんは物憂げだったね~、なんでかなあ。
閉店間際になると、こんなことを面と向かって言ってくる。
「意外~。どんなことで悩んでいるの?」
「御嬢さんには理解できない、大人の悩みさ」
気取ったマスターの回答に、メグは不満そうに唇を曲げる。
「どうせ色恋沙汰でしょ? 話してごらんよ」
「まったく、若い子はすぐに悩みを恋愛と結びつけたがるものだ」
やれやれとマスターがため息をついた。
「なうなう」
ミルクを飲み干した僕は相槌を打った。
その僕の頭に、今度はマスターの手が置かれる。
撫で方はツボを心得ていて、僕の目はとろんとろんになってきた。
「人の恋愛ばかり気にしていないで、メグちゃんにはいないのかい?
お慕いしている人」
「もちろんいるよ」
えっ、とマスターの撫でる手が止まる。
「げっぷ」
ミルクの香りのげっぷが出た。
マスターは顔をしかめて手を引っ込める。
ごめんにゃさい。
「だ、誰かな。それは」
「クラスメイトのマキノ君。今日も体育の授業で踊ったんだけどね。
誰よりも優しく手を握ってくれて、
でも支えてくれる力強さってのも伝わってきて……。はあ」
メグは瞳を煌めかせながら言う。
「悩める乙女だね。ちょっと失礼するよ」
そう言うと、マスターは奥に引っ込んでしまった。
ああ見えてマスターは傷つきやすい。
「マキノ君」
ぽつり、と物憂げな声。ひょいっと身体が浮く。
メグに持ち上げられ、僕とメグは顔を突き合わせていた。
「マキノ君」
僕はマキノ君ではない。ただならぬ予感に早く腕から逃れたい。
しかし、猫と人間の話はちゃんと聞け、と尊敬していたアニキが言っていた。
大人しく、面と向かって。
「好きです」
告白される。
「ちゅーしていい?」
良いわけがない。
だが、僕の気持ちにはお構いなく、
メグは茶色がかった瞳をゆっくり閉じつつ、
ぷっくりとした唇を近づけてきた。
「……」
包帯が取れたばかりの額にキスされる。
メグのほんのり温かな吐息がくすぐったい。
「なんてね。ミチルに捧げるわけないよ」
悪戯心溢れる顔で言われた。変に力が入っていたようで、僕は脱力する。
メグは優しげに微笑んで、僕を膝の上に戻した。
「お待たせ。さあさあ、今日はそのマキノ君のお話をたっぷり聞こうじゃないか」
傷口を癒してきたそうそうに、マスターは意気込んで火達磨になろうとしている。
「んーいいよー。マキノ君とはねー」
僕はメグの膝の上で、軽く自分の額に触ってみる。
ざらっと固い皮膚の感触。傷跡は思った以上に広そう。
人間と向き合ってお話するとき、
よくこっちの方に目線が行くことは感じていたけれど、
メグがここにキスをしたのはやっぱり目立っていたから?
そう言えば、ミケがまだアニキの婚約猫だった頃、
アニキの左目の傷を舐めていたのを弟と見たっけ。
猫も人も変わらないにゃあ、
と考えたところで睡魔に襲われて眠りについた。