月の引力で浮遊する生活/はしもと
生きている……。
目が覚めたとき、一番初めにそう思った。
白い無地の天井。一定のリズムで刻んでいる電子音。
身体に繋がれた幾つもの管。
まだ、私は生きている。
さよならを言えなかった。
どうして「一緒に」なんて言ってしまったのだろう。
***
「やっほー」
幼馴染の芽衣は学校終わりに毎日欠かさず、配られたプリントを持って私の部屋を訪ねてくれる。
「今日ねー、学校に行くときに雨降ってきちゃって、制服ビチャビチャになっちゃったんだよねぇ」
芽衣は気の抜けた笑顔で、今日あったことを話してくれる。
眠たくなるようなゆるい声は、この世界の棘を全部丸くしてくれるようだった。こんな私にも、芽衣は優しい。芽衣の優しさは失敗作の人間に浪費していいものではないと思う。
それでも私は、もう来ないでいいよ、とは言えなかった。
不登校児の私でも、人並みに独りになることを怖れていた。
この世界と繋がっていられるのは、芽衣がいてくれているおかげだ。家族との会話は日が経つにつれて減っていった。家族は私とどう接していいのか分からないのだろう。私もそんな家族とどう接していいのか分からない。両親は私の分の期待を妹に託した。家族とは挨拶も交わさない日もあった。ずっと部屋に引きこもっているからだ。私はもう、家族がどんな風に笑うのか忘れてしまった。
「……い。おーい、美咲ちゃんー?」
「あっ、ごめん」
気がつけば、芽衣が目の前で手をふりふりと揺らしていた。
「えへへ、美咲ちゃんがボーッとするなんて珍しいねぇ」
芽衣と話していると、自然に笑みがこぼれる。
「芽衣」
「うん? なぁに?」
「いつも、プリント持ってきてくれてありがとうね」
「ううん。私の方こそ、ありがとうだよ。いつも会ってくれて、ありがとねぇ。美咲ちゃんのおかげで、毎日楽しいよ」
恥かしそうに、頭を掻いた。
私がベッドに腰をかけていると、芽衣が隣に座ってきた。
頭を肩に預けて、くっついてくる。今朝の雨にうたれたせいだろうか。制服から少しだけ、生乾きの臭いがした。それ以外は全部、いつもの芽衣の甘い香りがした。
雨は、降っていたのだろうか。一日中部屋から出ず、カーテンも閉めきっている暗い空間の中からは、外の世界のことはなにも分からない。覚える必要がないからだ。この隔離された世界にいると、天気の話すら出来なくなってしまう。もう私が話せることは、何も残されていないのかもしれない。
心臓の音が聞こえる。トクントクンと、静かに脈を打っている。二つの別々の音が聞こえる。それが徐々に重なりあって、一つになっていく。一つだけの鼓動になる。心拍数が同じ速度の生き物でよかった。
「……」
「……芽衣?」
寝息が聞こえる。
「……寝てる」
その安心した寝顔を見て、クスリと笑みがこぼれた。芽衣の柔らかい髪を、指でといだ。
「……ごめんね」
一人にして、ごめんね。
私は学校でいじめられていた。話しかけてくれる友達がどんどん減っていく中、芽衣はたった一人で、最後まで味方でいてくれた。それなのに私は学校に行けない体になってしまった。無意味な悪意は、どれだけ私が強がっても、それを嘲笑うかのように、内側から心を壊していた。
私は芽衣を残して、家に引きこもってしまった。芽衣をあのクラスに残してしまった。本人は、今はクラスメイトとはうまくやっていると言っているが、本当のことは分からない。それを聞く勇気がなかった。
「ん、んんー……? 私もしかして寝ちゃってたぁ?」
とろんとした表情で、眠気まなこを擦っている。起きたての体温は高い。
「もう少しだけ、こうしててもいい?」
甘えるような声だった。昔の妹と似ている気がした。
「いいよ」
「ありがとぉ、ねぇ、美咲ちゃん?」
「うん?」
「私ね、美咲ちゃんのこと、大好きだよ」
「……ありがとう」
私たちは別々に同じ壁を見つめている。見つめているというよりは、何も見るものがないので、ただ目を開けていた結果そうなっただけだ。もたれていた芽衣はずり落ちて、私の膝の上に頭を寝かせた。下から私のことを見つめている。私も見つめ返した。目があった。なにか言いたげな哀しげな瞳だった。大きくて丸い、光をいっぱい受けとることが出来る目が、薄い弧を描いて、笑った。
芽衣はいつも私を肯定してくれる。いつも彼女の言葉に救われている。誰かに認めてもらうことは大切なことだ。私たち人間は誰かに認めてもらわないと、傷つくように心が作られている。なんて脆くて弱い生物なのだろう。それとも、この地球の生き物は皆、誰かを求めて生きているのだろうか。そうだったら、なんて残酷な世界なのだろう。
私は生きていくのにむいていない。生きる機能が壊れた失敗作だ。元々人間として生きる寿命が短い運命だったのだろう。
「……」
芽衣は口を少し開けて、私を見ている。薄い唇は、桜色だった。
キスが出来そうだった。キスなんてしたことないけれど、なんとなく出来そうな気がした。キスというのは、お互いが見つめ合って、言葉を使わずにするものだと何かの本で読んだ。口が塞がるから当たり前じゃないか、なんて思ったけれど、そういう意味ではないと、自分自身にツッコミを入れた。キスをするとき了承を得てしまうのは、心の何処かで相手がキスを拒絶しているからだと、自分が気付いている証拠なのだと思う。でも、だからこそ、了承を得たあとにするキスは、いつもより切ない味になるのだと思う。キスをしたことはないから、そんなことは知らないけれど、私はそうだったらいいなと思った。
キスを経験したら、この世界のどこかに隠された歯車が動き出して、こんな私でも幸せに生きていける世界に作り変わったりしないだろうか。それともキスを経験しても、同じ世界が続いていくだけなのだろうか。私をこの部屋から、この世界から脱出させてくれるのだろうか。
「一人にしないでね。私も美咲ちゃんを、一人ぼっちにはしないから」
芽衣は両手を伸ばして、私の首の後ろに回した。そのまま上半身を起き上がらせて、抱きついてきた。温かかった。なぜ、平熱が変わらない私たちは、抱きしめ合うと温かく感じあえるのだろう。
見抜かれていたのだろうか。きっと、そうだと思う。
私はもう自殺しようと考えていた。この部屋から脱出する手段は、もうそれしか残されていないから。
芽衣の前では、どんな嘘も意味を成さないような気がした。彼女の脳の検問を通り抜けられる自信も、罪悪感を背負う自信もなかった。だから、本当のことを言った。
「一緒に死のっか」
言わなければよかった。後悔した。そんな私の靄を吹き飛ばすように、
「うん、いいよぉ」
と、芽衣は笑ってみせた。私の脳の検問は役立たずだ。
それとは対照的に、やっぱり芽衣の脳の検問は優秀だった。
***
「怖くない?」
「平気だよぉ」
こんな所に立っていても、芽衣はいつもの気の抜けた笑顔で返してくれた。今から飛び降り自殺する人間が作る表情とは程遠い、温かい笑顔だった。
学校の屋上の、フェンスの向こう側。なぜ学校を選んだのかというと、私は無意味だと分かっていても、クラスメイトに罪悪感を植え付けたかったのだ。一生消えない蔦で、絡みついて取れないようにしたかった。そんなことにはならないと知っていた。彼らは私たちが死んでも、何も気にしない。道端で野良猫が轢かれているのを、なんとなく覚えている程度にしか関心がないのだ。でも、それでもいい。人殺しだと、誰かが私たちの代わりに彼らを糾弾してくれれば、それだけで死ぬ意味はあった。私たちが死ぬことに意味を与えたかった。
「美咲ちゃんは、死ぬことが怖い?」
「……怖い、よ」
下から見上げるより、上から見下ろす方が、距離があるように感じるのは、きっと今だけなのだと思う。朝の匂いがした。あともう少ししたら、生徒たちがあの小さな正門をくぐって、虫のように溢れかえるのだろう。
その光景も怖い。どちらの方が怖いだろう。
死ぬことと、生きることは、どちらの方が怖いのだろう。
私は誰よりも臆病者だと思う。この世界は私にとって怖いものが多すぎるみたいだ。怖いものは嫌いだ。だから、この世界は嫌いだった。好きだったときなんて一度もなかった。親が連れてきた見合い相手と、ずっと一緒に生活をしていくようなものだ。みんながみんな、伴侶を愛しているわけではないように、この世界を愛せない人間もいる。私はこの世界を愛せない。愛してもらえないから。
「だいじょうぶだよ」
芽衣が私の手を繋いでくれた。
「こうすれば、怖くないよ」
芽衣はスカートのポケットから、包帯を取り出した。繋いだ手が離れないように、ぐるぐる巻きにして、最後に二人で可愛らしい蝶々結びを作った。それは今にも大空を舞いそうな、大きくて美しい羽根を持った蝶だった。
「美咲ちゃん、死んでからも忘れないでね。大好きだよ」
この世界に好きなもの、一つだけあった。
「忘れないよ、忘れられるわけないよ。私も大好きだから」
死ぬ前に気付けてよかった。ずっと二人でいられるなら、怖いものなんて、もうどこにもない。芽衣は最期の微笑みを見せてくれた。
「今だから言えるけどね、私、クラスでいじめられてるんだー……」
芽衣の声が、震えている気がした。
「だから、毎日放課後にね、美咲ちゃんに会うことだけが私の楽しみだったの。それだけで、ずっと今まで頑張ってこれたんだよ。でもね、もう疲れちゃったんだ……」
「私も毎日、芽衣と会えて嬉しかった」
「よかったぁ。じゃあ、もういこっか」
朝の匂いがした。小鳥の囀りが響いていた。
同じように誰かも、私たちの小さな悲鳴を、聞いてくれるのだろうか。
「いっせーのーでっ」
私たちは手を繋いで飛び降りた。地面までの距離は思っていたよりも長くて、その間に色々なことを思い出した。思い出したのは、芽衣の笑った顔ばかりだった。包帯は外れなかった。左手から感じた体温は、薬指を通って、私の心臓に芽衣を送ってくれた。
目が覚めると私は病院のベッドにいた。
生きている……。
目が覚めたとき、一番初めにそう思った。
白い無地の天井。一定のリズムで刻んでいる電子音。
身体に繋がれた幾つもの管。
まだ、私は生きている。
*
「お姉ちゃん……!」
妹の陽菜が私の姿を見た途端、抱きついてきた。
「ごめんね……、ごめんねぇ。生きててよかった。生きててよかったよぉ」
陽菜は涙と鼻声を混ぜ合わせながら、泣きじゃくっていた。母親も父親も息を切らして病室に飛び込んできた。家族三人が涙を流しながら、私に赦しを乞いた。家族の責任じゃないのにと私は思った。涙は流れなかった。ただびっくりした。死ななくてよかったと、自分のために泣いてくれる人がこの世界にいたことが驚きだった。
昏睡状態になってから一週間が経過したらしい。
芽衣にさよならを言えなかった。
どうして「一緒に」なんて言ってしまったのだろう。
私だけ生き残ってしまったのだろうか。
芽衣の生死を訊ねようとしたとき、陽菜がポケットから白い物を取り出した。
「お姉ちゃん、これ、包帯……、飛び降りたときの……、手に巻かれてたの……」
陽菜は包帯を大事そうに私に手渡した。あの時は気付けなかったが、よく見ると裏面にマジックで文字が書いてあった。
……芽衣の文字だった。
『美咲ちゃんへ。美咲ちゃんは、生きていていいんだよ。大丈夫。怖くないよ。美咲ちゃんの世界は怖くないよ。今は、怖いことが多いかも知れないけれど、この世界は美咲ちゃんの味方だから。だから安心していいんだよ。カーテンの外は、いつでも光に照らされてるから。美咲ちゃんも、みんなと同じように暖かい光を浴びて幸せになっていいんだよ。でも、ごめんね。私は先に行くね。嘘ついてごめんね。大好きだよ』
やっぱり、私の脳の検問は役立たずだと思った。
丸くて可愛らしい文字から、芽衣の声が聞こえた気がした。
「芽衣は……? 芽衣は……どこにいるの……?」
陽菜は泣き腫らした目で、にっこりと笑ってみせた。
「大丈夫、生きてるよ。怪我は酷いけれど、お姉ちゃんよりも先に意識を取り戻したよ……。大丈夫、二人とも生きてる。生きてるよ」
私たちが飛び降りた下に木が生えていたらしく、幾つもの枝にぶつかったおかげで死なずに済んだらしい。そんな都合の良いことも、この世界にはあるのだなと思った。私たちが見つけられたとき、芽衣が私を庇うように地面に転がっていたそうだ。芽衣は一人だけで死のうと思っていた。
私たちは同じ病院に入院していた。陽菜に肩を借りて、芽衣の病室を訪ねた。
芽衣は私の姿を確認すると、涙をボロボロとこぼした。
そんな芽衣の泣き顔を隠すように抱きしめた。包帯なんて巻かなくても、離れられないように。
「一人で勝手にいかないでよ……。芽衣が私の味方なら、私だって芽衣の味方だからね。一人じゃないんだから。私たちは二人で生きていこうよ。一人で生きられない半人前だったら、二人で生きていけば一人分になれるよ」
「美咲ちゃぁん……」
「うん……?」
「……意味分かんないよぉ」
いつもフワフワしている芽衣にだけは、その言葉を言われたくなかった。
でも、自然と笑みがこぼれる。
嗚咽と共に流れる涙は頬を伝っていく。二人の涙が出会って、混じって、一つになった。一つになれた気がした。
同じ一人の人間の中に、二人で生まれればよかったね。でも、私たちは二人だから。
だから出会えたんだよ。だから、愛しあえたんだよ。
離れちゃうから、怖いんだよ。
でも、離れなくても、大切だよ。
*
それからしばらくして、私たちは一緒に転校をした。
そこでは今のところ、うまくやっている。
夕暮れに染まる商店街を二人で歩いていく。
「いつも夕焼けばかり見てるから、今度は朝焼けも見たいねぇ。美咲ちゃんは知ってる? 朝焼けの方が静かなんだよ。みんな寝てるからねぇ」
カーテンの外は、光で照らされていた。
「今度早起きして見に行こうよ」
「うん、いいよぉ」
芽衣の柔らかい笑顔を見ていると、あのとき死ななくてよかったと思った。こんなにも些細なことだけど、生きていくには何よりも大切なことだった。
この世界の好きなところを芽衣と見つけていきたい。
一つ一つ丁寧に、好きになっていきたい。
私たちはこの世界に一目惚れは出来なかったけれど、ずっと一緒にいると、好きになれることもあるかも知れない。
未だに怖いことだらけだけど、それはきっと、死ぬことより怖くないことだ。死ぬことが一番怖いことのまま、生きていければどれだけ幸せだろう。
「あ、一番星だぁ」
芽衣が夜を迎える空を見上げて、指をさした。
「え、どこ?」
「ほら、あそこ、もっとこっちくっついて、私の指の先見てみて」
芽衣の体に寄り添って、指の先にあるはずの星を探したが見つからない。
「んん? どこにあ」
言葉を遮られた。薄い桜色が、私の口を塞いだ。
「えへへ、うそだよぉ」
この世界のどこかに隠された歯車が、音を立てて動き出した気がした。
私の脳の検問は、やっぱり役に立たない。