別れのその先に/藤綾人
昨日は暖かい風が吹いてやっと冬が終わったんだなーと思っていたら、すぐに冷たい風が吹きやがった。山の中にある私たちの町には、映画館はないし、しゃれた喫茶店もない。たまにチェーン系列の喫茶店ができて、同級生たちは一時たまり場にするけれど、そもそも午後にティータイムを楽しむ習慣が、この町の人たちには根付いていないので、そのうちブームが終わる。それでまた、この前喫茶店がつぶれているのを見かけた。寒さには着込んで対処し、冬は何度か雪かきに駆り出される、そんな田舎だ。こんなんじゃあんまりイメージが良くない気がして、いい気分ではないので、あるものを挙げていきたい。昔ながらの商店街――はシャッター街。ここ出身の、ちょっぴり有名な文豪――は、みんな名前を聞いたことがあるけど一作も読んだことはなさそう。
「もーすぐ二年生です」
春休み。特別に顧問に許可をもらって貸し切り状態のテニスコートで、ウォーミングアップに軽くラリーをしながら、央佳は言った。
「んー」
ぱこん。ぱこん。と、リズムよく打ち合いをする。互いに体をほぐすのに、最適な返球コースを熟知している。
「進路どうするの、央佳」
央佳は高校受験のころ、県の都市部にある名門私立高校にテニスの腕を見込まれていたそうだ。それを知ったとき、私は本人に、なぜそっちに行かなかったのかと問いかけた。二時間かけて通うの、だるいじゃないですか? そう言って彼女は笑った。笑って、ダブルスのペアである私に綺麗な、すべすべの手を差し伸べてきた。握手を交わした。私はマメだらけの、ごつごつした、まるで女の子のものじゃないような手を差し出した。
「あたしはまだわかりませんよ。やっぱり働くんじゃないかなー」
ぱこん。ぱこん。少しずつ体が温まってきて、ボールに勢いがついてくる。
「私どうすっかなって迷ってんだよねー」
「家の料理屋継げばいいじゃないですかー」
央佳が力を入れて放った球を、私は取り損ねた。
「……ごめんね」
「いいですね亜里沙先輩は! 将来安泰で!」
「安泰ではないよ! 知ってるよね、私料理ぜんっぜんできないの!」
私はポケットに入れてあるボールを手に取って、武器のフラットサーブをいきなり浴びせた。ズドン! 手も足も出ないサービスエース。
「ふっふっふ、油断したな」
「ほんと先輩、そのサーブだけで全国出られると思いますよ。今からでもシングルスに転向してもいいんじゃないですか?」
彼女の悲しみが、ほのかに声色に乗っているように思えてしまって、私は寂しくなった。
「……央佳とじゃなきゃ、意味ないんだよ」
今日は、央佳と一緒に練習ができる最後の日だ。央佳のペアでいられる、最後の日だ。
一球一球、噛みしめているつもりだった。本格的に打ち合いを始めるも、うまくボールが操れなかった。それもそのはず、そうしていると涙が湧き出して来て、集中できないしボールがよく見えないのだった。
顧問に頼み込んで用意してもらった二時間は、無常にもあっという間に過ぎてしまった。汗を涙とでぐしゃぐしゃになった私の顔を、央佳はためらうことなくジャージにうずめさせてくれた。央佳のにおいと制汗剤のさわやかなにおいが混じっていた。いつも嗅いでいた匂い。それも、今日が最後。
「央佳ぁ、やだよ。行かないでよ。なんで央佳がテニスやめなきゃいけないんだよぉ」
「先輩……あたし幸せでした。先輩と組めて。嬉しさも悲しさも、一緒に共有できて……先輩が大好きです! 私は、先輩のことが大好きです!」
そう、央佳は私なんかより、よっぽど強い。テニスの腕だけじゃない、心も強いんだ。
思い出が段ボールに詰められて、そのまま取り出されることはないんじゃないかって、心配で仕方がなかった。
練習終わりに、央佳の家に寄っていた。週末の練習休みの日に――喫茶店なんて行かないから――通い詰めた央佳の、ちょっぴり散らかった部屋も、今や段ボールだらけになっていた。
「手伝ってもらって悪いわねえ」
央佳の母親が、私にそういいながら、私と央佳のペアが地区大会に優勝した時の賞状を輪ゴムでまとめて段ボールに放り込んでいた。いつもよくしてもらっているが、私はこのお母さんを好きになれない。きっと知らないのだろう、高校受験のころ央佳がどれだけ涙を流したのか。
「央佳、ほらあんたも手を止めてないで手伝いなさい」
「はーい」
央佳は、何度も修理して使い古したテニスのラケットをぼんやり眺めていたが、やがてそれをケースにしまって、荷物を詰め始めた。
央佳が私立高校を受けられなかったのは、ひとえに家計の都合だった。
――ほんとうはテニス、したかったの。強いチームで、ガンガンやりたかった。でもね、お金がないから――
央佳は県大会で、あと一勝でベスト8の試合に敗退してしまったとき、少し投げやりになって言った。
――私がラケットを握ってるの、お母さんは嫌みたい。お金かかるし、将来働くときの役にも立たないし……って。……ぐすっ、――
その時の、悲しみにゆがんだ央佳の表情を、私は忘れることができない。忘れてはいけない、とも思う。
「いつもありがとう。助かったわ。お茶出すから一服していってちょうだい」
央佳のお母さんは、悪い人に見えない。とても、最近不倫をして離婚し、不倫相手にも振られた人には、見えない。
今回、都市部に央佳が引っ越すのは、母親が仕事を探すためだった。こんな田舎には、ちょっとしたパートの仕事はあれど、子供を養えるだけの給料が出る仕事はなかった。加えて、央佳もアルバイトをしなければならない状況だった。部活をする余裕は、ないそうだ。
お茶とちょっとしたお菓子が出て、私と央佳の二人きりになった。
「引っ越し先のお部屋見てきたんですけど、やっぱり都会って感じでしたよー。便利なところだと思います!」
央佳は笑って、私に言う。そこで、何とも言えない尊敬の念を、一つ下の後輩に改めて抱いた。
「なんで、なんで央佳ばっかりつらい目に合わなきゃいけないの? 高校もあきらめたし、今回は離婚がらみで引っ越しだなんて……私だったら耐えられないよ」
「……先輩、あたし辛いなんて、思いませんよ。悔しいですけど、つらくはないです。だって行きたいところ行ってたら、こうして亜里沙先輩に会えませんでしたし!」
「……央佳は私みたいに、ただ田舎でやることがないからラケットを振っていた人間とは違うよ。テニスに対する根本的なとらえ方が違う。……さっきは、将来の話なんてして本当にごめんね」
「いいんですよ、全然気にしてないですから。それに、亜里沙先輩が悩んでるのも、よくわかりますし……」
央佳は、少し困ったような表情で、
「……テニス、やめないでくださいね」
私は、うなずくことができなかった。また瞳に涙がにじんだ。
やることがないからラケットを振っていた私は、高校に入ってから才能が花開いたようだった。他のみんなが恋愛にかまけたり、勉強に精を出したりする間に、私は練習をしていた、それだけのことだったけど、この高校でエース級の実力を持っていた。
中学のソフトテニスで全国大会に出場した央佳は、期待のスーパールーキーとしてちやほやされた。曲がりなりにも高校のエースと言われていた私は、彼女のことがあまり気に食わず、シングルスの勝負を申し込んだ。
ちょっと前まで軟式ボールしか使ったことがないとは思えなかった。何とか一セット取るのがやっとの完敗だった。その噂を聞きつけた部員たちは、さらに彼女をもてはやした。それが面白くなくて、私はさらにラケットを振る時間を長くした。央佳は、そんな私の練習を最後まで見届けてくれた。はじめは見下されているのかと思っていたが、毎日笑顔で、練習お疲れ様です! やっぱりエースは違いますね! なんて、明るい声で言ってくれるものだから、なんだか嬉しくなってしまった。
いつしか彼女が目標になっていることに気付いた。私に、テニスを練習する明確な動機が生まれた。央佳に追いつき、追い越したい。
そんなだから、ツートップである私と央佳がダブルスのペアになるのは必然だった。
引っ越し作業を手伝った次の日、私は、顧問に退部届を出しに行った。お前が抜けるのは、本当に惜しい。央佳がいなくなって寂しいのは分かるけどもう少し、考えてみないか。そんなありがちな引き止めの台詞に、私と央佳の絆が軽んじられているように思えてしまった。
家に帰って、私は何も成し遂げられない自分、挫折を味わったことのない自分が非常に恥ずかしく感じた。厨房の母親に言って、料理の修業をお願いした。私が作った卵焼きは、殻が混じっていて噛むと砂のような食感がした。そこでみっともなく、また涙を流しそうになった。
私を――私をこの田舎に取り残さないでよ。央佳。
央佳から、SNSのメッセージが届いた。新居の写真が添えられていた。きれいな部屋、というより、何もない空虚感が目立って見えた。
メッセージの内容に目をやる。私は目を疑った。
『あたし、寂しいです。やっぱり寂しいです。もっと、もっと先輩とテニスしたかった。先輩と、ダブルスで全国目指したかったです。悔しいよ。先輩と離れたくないよ。テニス、やめたくないよ。あたしは先輩が思ってるより、強くないです。引っ越しが決まってから、ずっと家で一人泣いてたんですよ? この田舎のことも大好きですし、そりゃ映画館がないのは痛いですけど――そんなの気にならないくらい、素敵な場所だと思っています。
あたし、先輩に会えてよかったです。あたしにとって、先輩は誰よりも大切な人です
三日後にこっちを出ます。出迎えしてほしいな……なんて』
ふふ、と笑みがこぼれてしまった。私は、今日も卵焼きを焼くことにした。
「泣き虫ですよね、先輩ってホント」
「うぇ……ひっく……うるさいなあ」
私たちの町から都会までの電車は、一時間に一本しか来ない。まだ肌寒いので自販機でコーンポタージュをふたつ買って飲みながら、待合室もない駅のホームで二人椅子に腰かけていた。
「まだ別れの時間来てないですよー」
「もう、寂しいんだって。央佳がいなくなるなんて……」
央佳は笑って、私の手にすべすべの手を重ねてきた。なんで央佳って、テニスやってるのにそんなにきれいな手をしてるんだろう。肌は綺麗で表情もきりっとして大人っぽい。まつげは長いし、きれいなぷるぷるの唇に嫉妬してたり。
「いなくなるわけじゃないですよ! いつでも会えますし」
「うん、そうだね。暇なとき、会おうね」
それからおしゃべりをしていると、時間があっという間に過ぎてしまった。あと五分で、電車が到着する。まだまだ全然話したりない気がした。
「先輩……私は強くないです。この前あんなメッセージ送っちゃって、ごめんなさい」
「うん……でも、嬉しかったよ。央佳が私に、弱いところを見せてくれるの、嬉しい。信頼されてるんだなって、思った。大事な、先輩後輩の関係だけど、……これからは、親友って思ってほしいな」
「……あたしは、それ以上がいい」
風がうるさく吹く中でも、その言葉ははっきりと聞こえてしまった。
「先輩、ぎゅーしてください」
私たちは立って向き合った。央佳が私の脇の下に、両腕を差し込んできた。彼女は、私のコートに顔をうずめ、強く強く私を引き寄せた。
「なんか、私変だ」
なんてことないはずだ、おかしいな。地区大会で優勝した時も、最後の練習の時も抱き合っていたはずだ。その時は、こんなに恥ずかしくはなかった。
「あたしもです」
央佳のうるんだ瞳に私が映っていた。私の、全然女の子らしくない見た目。けれど、央佳の目にどう映っているか――それが、しっかり分かった。
電車の音が聞こえてくる。がたごとと、音を立てて近づいてくる――けれど。
一瞬、時間が止まった。
なんだかコーンの甘い味がして、触れ合ったのが唇だと気づいたときには、央佳はもうドアの開いた電車に乗り込んでいた。こういう時、好きだって、やっぱり言うべきだよ私。けれどうまく言葉が出てこなくて、のどがつっかえて顔が熱くて、
「卒業したらさ、私都会に出て、一人で住んで、働いてやっていく、それでいっぱいいっぱい、央佳に会いに行くからー!」
それまで考えていて伝えられなかったことを、とっさに言ってしまった。口に出してから、やっと身に染みて分かった本心だった。私は央佳のそばにいたい。ずっと、いたい。
「ありがと! 待ってますよ!」
電車のドアが閉まる。バイバイする手がごつごつしているのが、恥ずかしかった。けれど私は、この手を誇りに思う。退部届を、なかったことにしよう。三年生の残り半年足らずだけど、引退まで、ごつごつさせたままでいよう。ラケットを振り続けようと誓うと、心が温かくなって、ホームの寒さなんて忘れてしまった。