言葉の手錠/未雪織
「せんぱい、」
その人の、自分より一回り小さな手を引く。
振り返ると、短めのやわらかい髪がふわりとはねる。
「なおちゃん、どうしたの」
先輩の、甘さを含んだ声がじわっと胸に染み込んでくる。
「いっしょに帰りましょうよ」
手をつかんだまま私は言う。
「うん。かえろっか」
にこりと笑う。やっぱり、先輩はかわいい。
少し惜しみながら手を離す。先輩はくるりと背を向けて、3年生の下駄箱の方へ歩いていく。私もいつもより少し急いで履き替えて先輩の背中を追う。
隣を歩くのは慣れているけど、それでも少しドキドキする。さっき触れた先輩の感触が忘れられなかった。もう一度触れたい。
「手つないでもいいですか?」
「あ、うん」
戸惑ったような声がくすぐったくて、思わずふ、と笑ってしまう。
小さな手を握って、ゆっくりと歩く。きっとこれも、私たちが一線を越えるための決定打にはなれない。
静かな帰り道を、何気ない話をして歩いた。先輩がもう少しで美術部を引退すること、私が今描いている絵のこと、昨日のドラマの話、今度駅前に新しいレストランが出来ること、出来たら一緒に行きたいねという話。そういう、いつも通りのやわらかな会話。なんでもない先輩と後輩の、なんでもない会話。
いつもどおりだった。けど、ちょっと違った。
なにか引っかかる。先輩の視線が、声が、なぜか遠く感じる。相槌が曖昧で、別のことを考えているみたいだった。
「ねえ、なんか上の空じゃないですか?」
手を少し強く引いて声を掛ける。
「ん、ああ。いや、なんでもないの」
なにか少し迷っているような響きだった。ふにゃりと困ったように笑うのが、なんだかイライラした。
「言ってくださいよ。そういうの好きじゃないから、私」
苛立ちを伝えたくて、先輩の瞳を覗き込む。夜空のように綺麗で吸い込まれそうになるのを、ぐっと踏みとどまる。今はダメだ。
先輩は戸惑って、手で顔を覆って目を逸らそうとした。でも、掴んでいない方の手も捕まえて、こちらを向かせる。
「ね、おしえて」
私は目線を合わせて逃がさない。
「昨日ね、下駄箱に手紙が入ってて」
ゆっくり、まだ迷っているような口調で話し出す。
同じ部活の後輩からだったらしい。私もよく話す子だった。さわやかで明るくて、少し抜けている可愛い子だった。
「それで、さっきその子の教室に行って、」
そこで躊躇ったように一度言葉を切って、
「告白、された。返事は今度でいいって」
あの子が先輩を目で追っていたのは、なんとなく分かっていた。だから「ああやっぱり」と思った。
でもそれと同時に、心の中にどす黒い液体がどっと溢れた。不安と恐怖と、そういう見せたくないものがぐるぐると波を立てて暴れていた。体が震えだしそうだった。
どうするんだろう。きっと断ると分かっている。けれど、怖くてたまらないのだ。
そんな気持ちを抱く権利は、私にはないはずなのに。
そうか、私のほうに向いてないから遠いんだ。あの綺麗な瞳の焦点が、私以外のどこか、いや、だれかに向いている。
そんなの、いやだ。
「それで、どうするんですか」
声が震えそうなのをなんとか抑えて言う。先輩はまた困ったように笑う。
「どうしたらいいのか、わかんなくて」
いつものやわらかい声はさらに小さくなって、頼りない。消えてしまうかもしれない。そう思えてしまうくらいに、弱い。
消えさせない、と思った。いなくなるなんて、絶対にさせない。
小さな手を握る力が、強くなってしまう。
「自分が断りたいのか、それとも付き合いたいのかくらい、わかるでしょ」
つい口調が強くなる。誤魔化されてしまいそうだったから。
先輩は、驚いて開いたその綺麗な瞳に少し涙を浮かべていた。そして俯いて、ふるふると小さく首を振った。
ああ、だめだな私は。怯えさせてしまうなんて、そんなつもりじゃなかったのに。自分の傲慢さが嫌になる。
先輩の細い体を引き寄せる。背中に腕を回して、優しく力を込める。手が震えていることが、伝わっていないことを願う。
「ごめんなさい、怖がらせて」
掠れた声で「大丈夫だよ」と帰ってくる。髪の匂いと体温が、罪悪感を加速させる。
先輩を、どうしても離したくなかった。なんでもない先輩と後輩のままでもいい。ずっと隣に居てほしい。私の先輩を、渡したくない。
だから、ごめんね。こんなずるい言葉であなたを引き留めておく以外、私には方法がないから。優しいあなたを、こんな言葉で縛ることしか出来ないから。
なるべく、静かに。そして切実に。
「あんな子より、私の方が先輩のことを知ってる。分かってあげられる。私の方が好きだし、そばに居てあげられる。だから」
これはずるい言葉だ。あなたを逃がさないように拘束する、手錠になる言葉だ。
「××××××××」