日常礼讃(1)
夢を見ていた。
それは太古の森。
目をすませば、限りない光景が広がっている。
鬱蒼と繁った森が波打つ蛇のように遙か遠くまで続いていた。力強い木々の息吹で色は蒼々と匂い立つほどきつく、それを目にするだけで自分が塗り潰されてしまう。人の手が入ったことがない原生林。結界じみた禁断の森。いや、人はその森を前にすれば圧倒され、ただの動物になる。その膨大な色に本能が染められる。
耳をすませば、生命の息づく呼吸が感じられる。
木に走る水の音、根が土を囓る音、幹が成長する軋み、葉が風と太陽を吸い込む呼吸、虫のざわめき、動物たちの鼓動と動く音。あらゆる生命が音と呼吸をして、生き――そして死んでいく。蛇が自らの尾を喰らうように、生と死が相克する蠢き。命の音。その強い、強すぎる轟音が耳を覆い尽くす。
最初はそれをぼうっと感じているだけだった。目は空中に浮かんで森を俯瞰し、耳は森全体を覆い尽くすように音を吸い込む。
満足していた。その営みを見守るだけで幸せだと感じていた。
――八雲立つ。
あるとき、何かが聞こえ雲が立った。遠い遙かな地から雲が湧き出て、幾重にも重なり遠雷を上げて空を喰らう。
目と耳が閉じた。
彼は小さな子供のようになって、ぽつんと薄暗い森に立っていた。
今まで見ていた森が、自分を包んでいた。
絡まり合う枝と葉が空に蓋をして暗く、無数の木立が鉄格子のように立っている。
それは巨大な檻だ。重なり合った鉄格子に閉じ込められたのだ。
ふと、彼は気づく。
――行かなきゃ。
衝動に突き動かされる。足を上げて、湿気った腐葉土と根っこ、草をかき分けて彼は走り出す。何度も転び、足をすりむいても構わず走り続ける。
出口などありはしない。あまりに広すぎる森。方向感覚など疾うに麻痺し、小さな足で行ける範囲など限られている。自分が決してこの森から抜け出せないことはわかっていた。
森は死んだように静まりかえっている。囚人を逃がさない看守のように彼の道を阻み続けた。
心寂しさに涙が出る。足がもつれる。
それでも諦められなかった。
この森の外に、この檻の外に、この先に。
彼は顔を上げて見た。
視線の先。森の檻の暗闇から白い靄が立ちこめる。
森の底に白いヴェールを沈めたような緩やかな流れ。だが、足を進めていく次第に靄は体に纏わり付き、濃密な実体を露わにする。深い深い濃霧、気づいたころには視界はすべて白く覆われる。粘つく霧で体は濡れぼそり重い。もはや完全に霧に包まれ、自分が何者かすらわからない。
それでも、彼は足を進める。どちらが前かもわからないのに歩く。
――会いたい。
彼はその先に待つ誰かを想い、霧の森を歩く。
いくら歩いたか。疲れ果て、体が朽ち、考えることもできずに。
体は霧となり、森に溶けていく。
魂は霧となり、森を歩いていく。
出口の見えない霧の森を彼は彷徨った。
それでも探すことを止めなかった。
◆
部屋中に鳴り響くうるさいベルの音で、目を覚ました。
またか、と思って濡れた頬を拭う。小さい頃から度々見ていた奇妙な夢。何故それを見るかも検討はついているが、どうしても夢から抜け出した後はしばらく何も考えられなかった。木目の天井を見上げながらじっと余韻が消えるのを待って、アナログ式目覚まし時計を止める。
「もう十年だ。いい加減に立ち直れよ」
俺はちらつく光景を振り払うように自分に言い聞かせた。
夢は自分の無意識。意識の奥底に沈んだ想いを浮かび上がらせて、何かを伝えようとするものだ。わかりやすすぎる自分に苛立つ。
俺は六歳の頃の起きた大震災で母を亡くしていた。それも母は自分の目の前で倒れてきた本棚の下敷きになり、頭の打ち所が悪かったらしい。帰らぬ人となった。
それは今でもありありと思い出すことができる。本棚が倒れる瞬間の母の驚いた顔、本が土砂崩れのように母を呑み込む光景、そして何かが致命的に潰れる音、布団に広がる赤い染み。その後の――。
ああ、ダメだ。思い出すと吐き気がする。
自分はいまだにその死を信じることができずに、夢の中で母親を探している。起きているときは心の整理がついているつもりでも、心の奥底では母を探しているのだろう。自分が変な体質になったこともたぶんそれが原因。
爺さんに習った精神統一の呼吸法で、気持ちを落ち着けさせる。
一分、二分。
ぴん、と線が張ったような冬の朝の中で、ようやく落ち着くことができた。
なら、もう大丈夫。夢見が悪かっただけ。
「さっ、起きて店の準備でもするか」
しかめていた顔をもみほぐして勢いよく体を起こした。
夢の中じゃまだ立ち直れてないが、母の死をきっかけに心に決めたことがある。それを守るためにも仏壇に手を合わせて、元気よく母さんに挨拶しなきゃな。
手順。定めたその作法を毎日繰り返すと、心が冴える。
それは儀式だ。決められた道具と僅かな狂いも許されない分量、それを順番通り行う手順。
生きるための儀式。
「よし。上手くいった」
目の前には油が熱する音と卵が焼ける良い香りがする。
菜箸の先には砂金のような粒がフライパンの上に生まれている。ケチャップをかければそれだけで食欲がわいていくる。それを銀のボールに流し込む。
俺こと――古桐清覚の神殿ともいえる厨房で店の仕込みをしていた。
自宅の階段を下りたすぐ下。セメントが剥き出しで倉庫のようなそこは、自分の部屋よりも遙かに寒く、銀色の業務冷蔵庫や調理器具が無機質な冷たい色だし、採光用の窓は小さく薄暗いし、裸電球は貧乏くさい。唯一その場所を陽気にするのは朝のラジオの軽快な曲ぐらいなもの。
だが、ここは俺の神聖な場所なのだ。
なにせ自分が経営(書類上ではちがうけど)している店の厨房。食中毒など起こせば、母さんが残してくれた店を俺が潰してしまう。美味しくない料理を作れば、店のイメージダウンになる。
不衛生はもってほかで真剣に料理を作る場所。
喫茶店の神殿といっても過言ではないだろう。
母さんが亡くなって以来、父さんが店を回していたが不器用すぎて人の良い父さんに任せると火の車で、その上一箇所にじっとしていられない父はかなり無理が溜まってノイローゼ気味だった。だから説得して父を本来の仕事に戻し今は考古学者らしく海外へフィールドワークに出て、俺は留守番をしながら自分ができる範囲で店を維持するようにしたのだ。自分の研究になると散財する父さんの給料を完全に当てにできず。貯蓄も少ないので、店の売り上げはきっちり家計を助けている。
なら生きるための儀式だなんて大それたことをいってもいいだろう。
「さて、定番のサンドは準備できたし、日替わりの一品どうするかな・・・・・・」
まあ、高校二年生の自分が授業と平行してできることは限られてしまう。朝五時から起きていてもせいぜい、昨晩の補充したり、定番サンド二品と日替わりの一品合わせた三十人前を準備するぐらい。朝から帰宅する夕方まではバイトに任せてある。俺の登校時間に合わせて、店のことはタッチ交代する。
バイトの彼女は色々と問題あるが、基本的に信用できる人だ。信用できるバイトがこれほど貴重なんて学生の身分で骨身に染みている俺はちょっとおかしいのかもしれないが。
今朝はなんだかあっさりしたヤツが食べたい。
「よし、チキンサラダサンドにしよう」
道具を洗って、制服の上から着た黒いエプロンで拭いているとポケットの携帯電話が鳴った。表示には幼なじみの名前。
ああ、今日のランチを聞いてくるに違いない。
食い意地の張った幼なじみの顔を思い浮かべながら、俺は着信を取った。
「もしもし、トラ?」
『キヨ、ごめん。ちょっと寝坊した。五分遅れる』
眠たげな低い女性の声。くぐもっているので携帯ごと布団の中に隠れているのかもしれない。寒がりな彼女が苦手な時期だ。
「あーいいよ。気にするな。もしかしてあっちの仕事?」
音楽からニュースにコーナーを切り替えたラジオをちらりと見て聞いた。
最近また殺人事件がこの辺で起きたことを報道している。
途端に彼女は嫌そうな声を上げる。
『んー、そう。ただでさえ人手不足なのに厄介なこと押しつけられてるのよ。今日のサンドはなに?』
愚痴をこぼしていたが、空腹に釣られて彼女はたちまちそう聞いてくる。
小さく笑いながら返事をした。
「お疲れ様。今日はチキンサラダサンド」
『いいねぇ。お腹すくねぇ。ついでに、私はポテサラに角切りのベーコンがたくさん混じったエッグポテトサンドも食べたいです』
たしかにそれもアリだ。うまそう。
まだ朝食をとっていない体が空腹を訴える。
「く・・・っ! 俺も食べたくなったじゃないか。だけど、トラ。巫女さんなのに四つ足ばっか食ってるな」
『む、巫女差別発言。というかそれ、神道に仏教が混じってきてからよ。昔の神道は肉OKなの。むしろ肉こそ食え。そうよっ、肉をもりもり食う巫女こそ本来のあるべき姿っ! じゅうしーな肉を食えば、日々のストレスも消えるわっ! こんど焼き肉の食べ放題いこ、キヨ』
「この前も行ったじゃないか、食べ放題。太るぞ」
『運動しているから太らないわよ! いいから、焼き肉焼き肉焼き肉焼き肉焼き肉』
「だぁわかった! 付き合うから、付き合うしエッグポテトサンドも用意しとくからっ」
『はーい。愛してるよ、キヨ。また後で』
「はいはい。後でな」
電話が切れて苦笑する。寝起き数十秒だというのに彼女はいつものギアに切り替えて動き出している。たくさんの人を元気づける西高の名(時に迷)生徒会長。その元気が厨房を満たして明るくなった。元気すぎる彼女のおかげで虎の手綱をとれ、と俺まで副会長にさせられたが。
滋野 虎子。女の子なのに虎という文字が似合い、黙っていれば美人で生粋の巫女。家は代々俺が住む地域で最古の神社の神主をしている。彼氏彼女ではないが、幼なじみという間柄では家族のようなものだ。
しばし笑った後、気を取り直して調理を進める。急遽増えてしまったメニューにも手をつけなければならない。黙々と準備し、ボールには様々な具材がはいった軍団を組織した。
残りは、最後の仕上げ。一番真剣になる儀式だ。
パン切り。
ハムやキュウリ、スクランブルエッグ、サラダ、チキン、ベーコン入りのポテトサラダなどなど騒然たる具材たちが、柔かなパンの上に乗り最後の準備に入る場面。
――指の跡を残さないことよ。
エプロンに身を包み、自慢気に教えてくれた母さんの教えを守る。
毎朝、運んできてくれるパン屋さんのパンを取り出して、具材を乗せ、平刃のブレッドナイフで切る。
慎重に、丁寧に。指の跡を残さないように。
それを邪魔する爆音が外から鳴り響く。ドップラー効果をともなったそれは若干音が高く、次第に近づくと高馬力のエンジンが唸る音が切れて、家の外にある駐車場に止まった。
「おはよう、店長!」
「おはようございます、朱夏さん」
現れた女性と挨拶を交わす。年齢は清覚の五歳年上だが、セミロングの髪を後ろにくくって、ポニーテールの童顔な女性が赤いヘルメットを小脇に抱え、くわえ煙草で入ってきた。服装は赤いレザーのライダースーツ。自称、峠の赤い閃光というふざけた名前をもっている。
彼女が来ると言うことは、時間がやばい。
朱夏さんは七時半のゼロ秒通勤を目指して走ってくるのだ。
家を出るのは七時五十分。
のんびり構っている暇はなかった。
「店の掃除をお願いします。俺はモーニングの仕込み作っちゃいますから」
「おっとと、パン切り中。おまかせあれ」
おっかなびっくりと言った顔で、彼女は荷物を置いてエプロンを片手に店の方へと引っ込んでいった。
いちおう、パン切っているときは余裕ないので、と言っているだけある。
俺がまたパンに向き合っていると、
「あぁ、店長ぉ。黒丸来てるけど餌あげていいー? アギャー! 顔掻く仕草、可愛すぎる! 無限再生プリーズっ!」
店にやってきた近所の野良猫に彼女はそう叫んだ。