プロローグ
それは刹那の閃光と衝撃――。
地獄の業火が火を噴いた。
無慈悲な銃弾は刹那より短い一瞬で体を貫き、心臓を破壊した。
聖女が下した断罪の鉄。
自分がどんな罪を犯したのかすらも分からない。
しかし、その瞬間に世界は制止し、すべてが痺れた。
黄金の月と共に人影が墜ちてきた。
自分がずっと心に秘めてきた人の面影。
黄金の髪を恵みの雨のように流し、美しい体を包む絹の衣は微笑む太陽のような輝きを持っている。
魂を吸い尽くすほどの神々しさ。
女神というならまさしく彼女がそうだ。
だが、それすらも彼女の前では言葉が足りない。
本当に心から彼女に見惚れていた。
自分が死ぬことさえ忘れるほどに。
黄金の月を従えた彼女は問う。
「あなたの名前は?」
大事なものを扱うように、彼女はすこし困った顔で笑った。
まぶしい光に答える。
「古桐 清覚」
その名前を口の中で少し口ずさみ、目を細めて泣くような顔で言った。
「ああ、なんて素敵な名前。そして哀しい名前」
月の中に立つ彼女は幻想的に微笑んだ。
何故そんな顔で微笑むのかわからなかった。
名前なんて大したものじゃない。そう不思議に思った。
だからきっと、自分が魔術の契約をしたなんてことに気づかなかった。
名前とは魂の本質を示す言葉。動物に人格を与える言葉。
世界でもっとも優れた記号だというのに。
「私はね、――っていうの。だから、清覚、わたしを閉じ込めてね」
ずっとずっと永遠にも思えるほどの時間をかけて、自分は彼女を守ると誓った。
たとえ、その奇跡をわすれてしまっとしても、
契約は魂に刻み込まれた。
◆
目を閉じると昔の光景が浮かぶ。
そのときは自分の方が背が高くて、彼の方が小さかった。
そんな小さな体を黒い化物に向けて、彼は前に出る。
――逃げろ、滋野さん。
いまでは他人行儀な呼び方。でも、あのときは始めて名前を呼ばれたっけ。
ただ視えるだけの無力な子供。私の方が小さい頃から苦しい修行に耐えてきて、ちょっとしたものなら祓えるぐらいにはなっていた。それに得意気になっていたんだ。
だけど、あれはそんな私が祓えるものを越えている。
なんの力もない子供が立ち向かえるほど簡単な相手ではない。
私は怖くて、ずっと震えていた。近所では男勝りのトラなんて呼ばれていたけど、そんなことを言えるような状況じゃない。怖くて怖くて逃げ出したいのに足が震えて棒のようになっている。
だけど、あのオトコの子は違った。
その化物に怒っていた。普段は人形のような無表情な顔のくせに、そのときだけは感情を取り戻したみたいに怒っていた。すごく怒って立ち向かおうとしている。
弱い私を守ろうとしていた。
初めて私は負けた。これでもかってぐらい負けて、心がぽっきり折れた。
逃げ出したんだ。怖くて逃げ出してしまった。
あの後、小さな子供が勝てるような甘い話はなくて、ヒーローはあっさりやられた。ボロボロになって一ヶ月も入院して、一年間悪霊に取り憑かれた。
でも、私は彼がしてくれたことを一生忘れない。彼のように弱くても、心が強い人間になろうと思った。理不尽なことに怒って、最後まで逃げない自分でいようと思った。
強い強い人間になりたい。
みんなを守れるぐらいの。彼と同じように前に立てるだけの。
だから、私は虎になったんだ。
「トラコ、作戦指示を」
川原の冷たい夜気が吹き付けた。月のない晩はよけい寒く感じてしまう。
傍らにいたパートナーが催促する。
私は橋の上で目を開けた。
眼下には無数の黒い影が蠢めいている。
――いったどんだけ溜まっているのよ。
嫌になる。最近、外に出られない人たちの鬱憤と殺人犯の悪意が融合して、見るからに悪そうな穢れがいびつな人の形を取っていた。子供が黒い靄を人の形に捏ねて作ったできの悪い人形。街灯に照らされて川原を人間の代わりに徘徊している。
正直、一体一体は大したことがない。ちょっとお祓いをすればすぐに消えるけど、数が尋常じゃなかった。
よく分からないけど、これは普通じゃない。
霊脈の異常、凶悪犯の噂から出る穢れ、犯人の悪意。
調べることに関してはさっぱりダメな私でもわかる。
親玉がいるってことぐらい。
こんな事が日本全国どこでも起きていて、ちょっとした混乱が起きている。祓魔師総出で事態の解決にあたり、私の横にいるパートナーは外国から手助けに来ている始末。余所様の助けを借りなければならないなんて日本の恥だが、正直助かる。
「エミリーは右岸を、私は目の前の左岸を一掃するわ。あんまり派手に壊さないでね」
「指摘、私は調査官です。トラコと比較しても破壊行為は最小限に抑えるよう規定されています」
シスター服に身を包んだ銀髪の美少女は無表情でわかりにくい皮肉をする。
だけど、彼女の両手には二丁の無骨な霊子銃。そんな物騒なものを握っているあたり、その皮肉はむしろ彼女なりのジョークなのだろうか。
ほんとわかりにくいヤツだ。彼女をパートナーに機関が派遣したのは、厄介ごとを押し付けたに違いない。しがらみというのは面倒なものだ。
「はいはい。まあいいからやるわよ」
「了解。作戦を開始します」
彼女シスター・エミリーは走り出した。橋を渡って右岸の上空からドンドコ銃をぶっ放すのだ。
飛べるなんて卑怯じゃない?
制限はあるみたいだけど、彼女は魔法使いのように飛べるのだ。箒だったらまだ納得いったけど、彼女のそれは天使の羽。機械作りで、白い純白の翼とはいえないまでも羨ましい。カッコイイなあれ。
グルグルと不満げな唸り声が後ろから聞こえた。
「ごめんごめん。さ、お仕事しますか」
苦笑しながら私はそう言うと、橋の欄干に飛び乗る。
十二月の風はやっぱり寒い。カイロを三個忍ばしているけどもそんなんじゃ足りない。
なんてたって巫女服だ。白の小袖と緋袴。できればセーターとダウンジャケットぐらい着たいところだが、その辺は作法にうるさい家柄なだけあって許してくれない。ヒートテックで我慢している。可愛い娘が風邪をひいてもいいというのか。
「これが終われば温かいお風呂。さっさと済ませて一緒に入るわよ」
私は大事な大事な私の分身に声をかけて、巫力を流し込み、跳んだ。
とたん、重力に身を引かれて、耳に夜気を切る音、緋袴の裾が暴れる。分厚いスパッツを履いているので問題はない。乙女の秘密は守られている。
墜落寸前、柔らかい毛並みに守られて着地成功。
河川敷にいた目のない黒い影の集団が一斉に顔を向けた。
ホラーやゾンビ映画に出てきそうな光景。もう慣れたけど。
私は指揮者のように月のない夜空に手を上げる。
「行け! 白丸!」
その瞬間、巨大な白い虎が雄叫びを上げて、影の集団へ躍りかかった。
私の夜が始まる。