Das Wunderkind Is Still Under Studying(1-2)
無闇に重たい扉を押し開けると、そこは想像どおりに薄暗くて、いかがわしい空間だった。ケバケバしくも安っぽいベルベット張りのソファと、ゴテっとした装飾が施されたテーブルが並ぶ、狭苦しい店。床の絨毯は擦り切れていて、壁紙はタバコのヤニでねっとりした色合いに変色している。
何より酷いのは、臭いだ。酔客が床にこぼしたであろう酒とタバコの臭い。男女が刹那的に不埒な行為を重ねる場に漂う、独特の腐臭。そしてそれらを押し隠そうとして濃厚に炊かれた、安っぽい(そして無駄にオリエンタルな)インセンス。それらが渾然一体となった空気が、ゼラチンのように僕を押しつぶそうとする。
こんな店は、今ここで、断固として処分されねばならない。
内務2課の人間として、そんなことを強く思った。だが、上司たるクラマー中佐からは「くれぐれも敬意をもってことにあたれ」と厳命されている。実に腹立たしい。
鋼鉄の規律をもって不快感を押し殺した僕は、改めて店内を見渡す。
何度見ても、実にいかがわしい店だ。この手の自称キャバレーにはありがちだが、フロアの中央にはちょっとしたステージもしつらえられている。この上で芸人たちが芸を披露し、酔客からチップを貰う――というのがこの手の店のオーナー定番の言い訳だが、要はこのステージとやらは売春婦たちが立つショーケースであり、酔客は彼女らにカネを払ってそれぞれの席で淫猥な快楽に耽る。
まったく、こんな奴隷市場のお立ち台を「ステージ」と呼ぶのは、帝国歌劇場の大ステージに対する侮辱と言わざるを得まい。
そんなことを考えていた僕の背中に、ふと、女性の声がかけられた。
「お客様、当店はまだ開店しておりませんが……?」
そんなことは分かっている! と叫び返そうとして、そこで僕は命令を思い出し、苛立ちを喉の奥に飲み込んだ。この対応は、とてもではないけれど「敬意をもってあたっている」とは言えない。
だから僕は、レインラント帝国軍人としての完璧なマナーに従って背後を振り返り、貴婦人に対する礼をする。
「失礼いたしました、フロイライン。
本職はレインラント帝国警察局内務2課所属、ナギー・エーデシュ少尉と申します。
本日は軍務でこちらに伺いました」
そしてそこまで言い切ってから、僕はようやく異常に気づく。
僕はいつの間に背後を取られた!?
心臓を鷲掴みにされたような衝撃が襲いかかる。
僕は帝国軍人として、また帝国警察局の局員として、高度な訓練を受けてきたし、これまで少なからぬ実戦にも参加してきた。その僕に、まったく気配を悟らせなかった女。彼女はいったい、何者なんだ?
焦りを必死で押し殺す僕をよそに、目の前の女性は小さく首を傾げた。東洋系の顔立ちをした彼女(長い綺麗な黒髪がやたら目立つ)は、「清楚」とか「可憐」とかいった言葉がよく似合う女性で、ぶっちゃけると美人だ。少なくとも、こんな場末の娼館モドキにいるべき人間ではない。
「軍務、ですか。
申し訳ございませんが、どなたからのご命令かを伺えますか?」
柔らかで落ち着いた声に誘われ、思わず「クラマー中佐です」と答えそうになる。だがこの質問は、事前に中佐から聞いた通りの質問だ――これはあくまで、合言葉の確認なのだ。
「脚本家に用がある。
そう伝えるように、と言われております」
黒髪の女性は僕の返答を聞くと、にっこりと笑った。まるで小さな花が開花する瞬間を見るような、そんな驚きと感動が胸を打つ。それと同時に、この期に及んで僕は彼女の異常さに気づいた。
彼女はずっと、両目を閉じている。おそらく彼女は、全盲なのだ。
「クラマー様が派遣された、エーデシュ様ですね。
脚本家は4番の個室でお待ちです。
ご案内します」
女性は軽く頭を下げて東洋風の一礼をすると、まるで目が見えているかのようにスムーズに、店の奥へと歩き始めた。慌てて僕もその後を追う。追いながら、僕は我ながらマヌケな質問をしていた。
「ええと、その、申し訳ないんですが、フロイライン。
あなたのことは、何とお呼びすれば?」
女性は歩みを止めることなく、「ここではアインと呼ばれています」と言うと、僕に黒塗りの扉を指し示した。扉には小さく「4」と刻まれている。4番の個室、ということだろう。
ああいや、問題はそこではない。「アイン」は、レインライン語で数字の「1」の意味だ。別の言語では(もしかしたら東洋の国の言葉では)別の意味を持つのかもしれないが、このレインラント帝国において、彼女のような淑女が数字で呼ばれるなど、常識では到底考えられない。
だが今はそれを追求していられない。僕は命令に従い、脚本家にクラマー中佐からの書簡を渡さねばならないのだから。
僕は自称アイン嬢に敬礼すると、4番の扉を押し開けた。