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第七話

 浅瀬とはいえ、水の中を歩くのは、あまり良い気分ではなかった。

 靴の上を撫でる水は、頑丈な防水加工された登山靴を通しても異様な冷たさを伝えてくる。底冷えするするような感覚は、一歩づつ、確実に一樹の体温を奪い去っていく。

 背筋に悪寒が走っては消えて行く。足元を照らす懐中電灯が、小刻みに揺れて、身体の震えを表現していた。

 ビシャリビシャリと自らが立てる水音だけが、空洞の壁に反響して小さく尾を引いていく。

 無言のまま暗闇の中を歩き続けることが、こんなにも困難なものかと一樹は実感していた。

 迫り来る孤独感、進めど変化しない閉塞感、先刻に出会った者を暗闇の背中に感じる恐怖感、それら全てが全身を縛り付ける糸のように、一歩一歩を踏み出す度に絡み付いてくる。

 その割りに頭は、妙にスッキリしていて、絶えず浮かんでは消えていく思考を追い続けていた。

 ここに入り込むまでの自分の有り方は、本当は間違っていたんじゃないだろうか? 父の言う通り、自分には決定的な欠陥があり、それ故にこんな罰を受けているのではないか? 先程、クラスメートの京平を見掛けた感情は、本当は羨望の心境ではなかったのだろうか? それを否定し続け、自分を欺くことで正当化してしまい、冷静な判断が出来ずに手掛かりを見落としたか歪曲した解釈をしてしまったのではないだろうか?

 細かいことを考え出せば、切が無いほどの不安感が込み上げてきた。

 揺らぐ電灯の光りと足元から聞こえる水の音。それだけが確実な現実であるはずなのに、頭の中の疑問や空想の方が真実味があるような気がする。歩いていることすら夢の中での出来事のようだ。

『いけない。精神薄弱になりつつある。このままじゃ、精神的に追い詰められる』

 冷静な判断ではなかったろう。脆弱になりつつある精神が、自己防衛のために導き出したような答えだ。

 右手が壁に触れた。ゴツゴツとした感触は岩肌を撫でているようだった。

 迷うより速く身体が動いた。

 ドンっという音が、暗闇の内部に反響して尾を引いた。

 激痛というよりは、痺れたような感覚が頭全体を被っている。

 壁に額をぶつけた結果だが、クラクラするようなことは無かった。ツーンとする痺れから徐々に痛みへと変わってくる感覚に、一樹はニヤリとした。

『まだ、大丈夫…』

 自分に言い聞かせるような言葉だったが、何が大丈夫なのかは本人にも理解出来ていたかは怪しいところだろう。

 それでも足を止めずに歩行を続ける一樹には、痛みという感覚を手に入れたことで、変に内に篭った思考を一時とはいえ払拭できた。それにより、現状の把握を少なからず冷静に行えた。

 水際を歩き出して約十分。暗闇とは言え、歩行のスピードはそれほど変化しているとは思えない。時速四キロで歩いていたして、距離にして七百メートル弱ってことになる。

 一樹は、ポケットに押し込んでいた地図を出して、透かし見ながら現在地を確認しようと思ったのだ。

 しかし、あの不可解な者と出喰わして無我夢中に走り出してしまった距離までは算出出来るものではない。それほど進んでいることは無いはずなのだが、あの時の心理では、間違った方向に進んでいたとしても気にしている余裕などなかった。

 手掛かりが無いわけではない。今、進んでいる地底湖ともいえる場所は、感覚的にも広大な印象が窺える。とするならば、手に入れた地図にその場所が一目瞭然に印されているはずである。

 最後に確認した場所は難なく見つけられた。そこから辿れる道は数本あるが、広大な場所を示すようなものは、そのどれを辿ってみても見つけられなかった。

『どういうことだ? 地図が間違っているのか?』

 疑問に思っても現実は変わらない。一度、懐中電灯をぐるりと四方八方に向けてみたものの、暗い水面は静かに波紋を寄せるばかりだった。

『もしかすると、逃げるうちに地図に無い道にでも入り込んだ可能性もあるな。引き返すか…』

 距離的には一キロほどの距離だろうと推測できた。

 もう一度、あの化け物に出喰わす可能性は否定できないが、このまま地図に無い場所をうろついていても結果は迷子の果ての衰弱死なんてことに成りかねない。

 引き返すことが最善の策だと判断したその時。

 ビシャリと水音が一樹の耳朶に届いた。

 音からすれば一樹の左手後方だ。そこは、水が満々と湛えられた地底湖の中心付近だろう。魚でも跳ねたような水音だったが、身も凍るような水中、光りも射さない暗闇にどんな魚がいるというのだろう。

 一樹は身動きひとつせず、しばらく様子を見ていた。

 すると、一樹の左手真横辺りで、もう一度、水音が響いた。距離まではわからないが、数秒後に一樹の足元に波紋が寄せてきた。

 鼓動が高鳴ってくるのが、意識しなくても感じられる。緊張し始める身体に嫌な汗が滲みだしていた。背筋に沿って冷たい水が伝い落ちるのを感じて、一樹は僅かに身震いした。

 ちゃぷんという水音は、先程の音より近い距離でした。音そのものも先程のような跳ねるようなものではなく、何かが浮かんできたような小さいものだった。それと同時に感じる何者かの存在感と視線。

 一樹には、その何者かが確かにこちらを凝視しているのが手に取るように分かる。けれど、それが何であるかを確かめるために自分の視線を向けることは出来なかった。

 その正体の予想など、あまりにも簡単な答えに結びつく。今の一樹が、一番会いたくないと思っているものに他ならないだろう。

 心の中での葛藤は、一樹自身でも制御できないほどに支離滅裂になりつつあった。

 逃げ出したい衝動、それでも確かめたいと思う怖いもの見たさ、手にした懐中電灯を投げ付けたくなる攻撃心、このままここで気絶してしまいたい恐怖感、いっそこのまま気が狂ってしまえばいいという投げやりな気持ちもある。ただ、それらが瞬時に入れ替わり頭の中をグルグルと巡りながら身動きひとつ出来ないのが一樹の現状とも言えた。

 それを察しているとも思えないが、水の中の何者かも、息を殺すように一樹を見詰めているようで、水の波紋ひとつ立てずに身じろぎもしない。

 一樹には、どうにも出来ない長い対峙の時間が始まったのかも知れなかった。

                                                                                                                つづく







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