第六話
真っ暗な視界の中に、確かなものが飛び込んできた。
緑の光点が二つ。
ここに飛び込んだ時に霞がかった中で確かめた光点だった。しかし、今は白い靄は無い。光点との距離を暗闇とはいえ見間違うことはなかった。
「うわあぁぁぁぁ!」
喉から吐き上がって来た叫びを一樹は止めることが出来なかった。恐らくは自分が叫んでいたことの自覚さえなかったのではないだろうか。
緑色の光点は、一樹の眼前、五センチと離れていないところにあったのだ。それだけではない。それほどまでに肉迫した距離では、暗闇とはいえ、ぼんやりとだがその姿かたちまでもが見て取れた。
「あがあっぁぁあ!」
まるで言葉にならない叫びを発しつつ、一樹は後ろに飛び退いた。よろめく足元を必死に建て直し、全力疾走になれたのは奇跡だったかもしれない。
広い空間に出たのは、それから間も無くだろう。必死の一樹には、それがわからなかった。とにかく動く足を前へ前へと進めるだけだ。その足元が不意に重くなった。我に返ったのは、重い足が進むのを拒絶してるかのように思えたからか、足元から上がってくる冷たい冷気のためか。
一樹の足元は、ザブザブという音をたてていた。
「み、水だ…」
既に膝丈にまで入り込んだ一樹が、今更のように言葉で確認した。左手も水面に触れてみた。恐ろしいほどに冷たい。冷蔵庫で冷やした水でさえこれほどに冷たくはならないのではないだろうか。
一樹は奇跡的に投げ出さなかった懐中電灯をぐるりに当てた。暗い水面は光を受けると不気味なほどの反射で照り返し、一樹が立てた波を浮き上がらせ、まるで生き物が水面を泳ぎ行くかのような様相を見せた。
振り返るのはためらわれたが、大きく息を吸い込んで一気に振り返り明かりを向けた。ザブンと大きな水音と波が立ったが、それだけであった。暗い空洞は、一樹が走り出て来た通路をぼんやりと映し出していた。
大きく息を吐いた音が、空間に木霊して尾を引いた。驚きというより、びくんとする恐怖感に一樹は情けない気持ちになった。
『とにかく水から出よう』
足元から伝い昇る冷気は、我慢するには切実過ぎる。芯が冷えるというレベルではない。芯が凍りつくような痛みと痺れが伴っている。このまま留まれば数分と経たぬうちに身動きすら出来ない低温傷害に陥ることは間違いないだろう。
一樹は、もう一度大きく息を鼻から吸い込んだ。異様な臭いはしない。水辺だからだろうか、ここの空気は清涼な流れがあるような清清しさがある。だが、油断はできない。大きくゆっくりと辺りを照らして、怪しい何者もいないことを確かめた後に、一樹は元来た通路に向かって歩き出した。ザブザブと水音が静かな空間に響いたが、ゆっくりともしていられない。
本当のところ、違う場所を目指したかったが、照らし出された空洞で唯一陸地が確認できたのがこの場所では仕方ない。
転げるように陸に上がり、一樹は寝そべった。異様な疲れは全力疾走のためか、異様な冷たさの水のせいだったか。
通路の出口に懐中電灯の明かりを向け地面に投げ出し、眼を閉じることなく監視しながら、先刻の光景を思い起こしていた。
痛烈に印象に残っているのは、緑色の眼光に他ならないが、それに付随していたものは何だったのだろう。強烈な腐敗臭の中、緑の眼光には確かに瞳孔が確認できた。そこに映る淡い自分の姿が、一樹の脳裏から離れない。そして、あのおどろおどろしい顔は何であったろうか。いや、そもそも顔であったろうか。おぼろげながらに見えたそれは、爛れた肉を纏いつかせ、頬から白く覗いていたものは頬骨ではなかったろうか。唇は無く、上下の歯が剥き出しの口は、涎とは到底思えない腐汁が垂れ下がり、物言いたげにパクパクと開閉してはいなかったか。だらりと下がった前髪が、半分抜け落ちたような姿に見えたのは気のせいだったのだろうか。
自分が正気であるとするならば、あれは確かに動いていた。
一樹は反芻するように自分の感覚を確かめた。昨日覚えた数学の公式は思い出せる。世界史のアメリカ独立宣言の一説も思い出せる。母親の名前も父親の名前も間違えずに思い出せた。九九を暗誦しようかと思ったが止めた。そこまですることはないと思い直したのだ。
大丈夫。自分は完全に正気を保ってる。では、あれは実在したことになる。あれが現実とするならば、生物学的に生きて動くことなど不可能だ。重度の火傷でもしてたというのなら可能性はあるかもしれない。けれど、腐敗臭は如何ともし難く完全な死体といっても過言ではないはずだ。
一瞬、原爆を落とされた街並みを想像して背筋が冷たくなった。テレビで紹介された史実くらいにしか一樹には知識がないが、そこで語られていた惨状は血肉の爛れた人々が水を求めて彷徨う地獄絵図だったという。先程のあれは、そんな被害者達を連想させた。
ある種の危険は期待していたが、こんな非科学的なことは想像していなかった。
化け物、ゾンビ、モンスター、妖怪、お化け、幽霊……。ありとあらゆる想像の者を並べ立てた。馬鹿馬鹿しいと片付けるには、自らが体験してしまったことの方が凌駕している。
『ここには、想像外の者がいる』
覚悟が必要だった。何者にも負けない覚悟。ここから先を望めば、必ず付いてくるものだ。極力、対峙することは避けたいが、もしそうなっても怯まないだけの覚悟が一樹の中で必要だ。
ゆっくりと上体を起こして廻りを観察しながら、間違いない勇気を奮い立たせた。
「よっこいしょ」
と掛け声をかけて立ち上がる頃には、肝も据わったように感じていた。
恐らくは、地図に示された場所にもう近いはずだ。改めてぐるりを懐中電灯で照らし出して、空洞の中を観察してみた。どうやら自分の考えは甘かったかもしれないと痛烈に感じさせらる光景が広がっていた。
思わず走り込んだ水辺は、照らす懐中電灯の光が届かないほどに彼方に続いている。地底湖と呼んでも良いかも知れないほどの規模だ。
ここまでは想定してない。まさかボートを担いで来る訳にもいかなかったのだから、知っていたとしてもどうすることも出来なかったろう。
水辺の縁まで進んで、両岸を照らしてみた。左側は切り立った壁が天井に向かってアーチ状になっている。その下は黒い水面が僅かに揺らいでいる。これでは昇ることも渡ることも不可能だ。
右側を照らしてみた。僅かに揺らぐ水面が波打ち際のような引き波を見せている。もしかしてと駆け寄った一樹の眼に飛び込んできたのは、浅瀬のような小波だった。
水を避けることは出来ないが、靴を濡らす覚悟があれば渡って行けないこともなさそうだ。ただ、その小道もどこまで続いているかは、実に儚げなのだが。
退くことは、あれの居た場所に戻ることに他ならない。ならば、多少危険でも進むしかない。
一樹は、そう結論付けて、冷たい水の中に一歩を踏み出した。
つづく




