第二話
この作品は、今現在は他で活躍しています「沙月涼音」先生との二元小説になっています。拙い私とコラボして頂いておりますので、是非、そちらもチェックして頂きたく思います。
アドレスは「http://suzubooks.cocolog-nifty.com/blog/2010/12/post_1401.html」です。
父が会社に出掛ける時刻になっても、一樹はベッドから出ようとはしなかった。
毎朝のように繰り返される勉強や学校、塾での出来事を報告することに、近頃は閉口しつつある。
父が嫌いなわけではない。尊敬には値する人物だとは思っているし、何より古いしきたりに縛られない生き様は、一樹にとって賞賛に値する。行動力も実行力という名に変えてしまう手腕など、廻りの大人でも賛辞をくれる。
しかし、父の存在は、今の一樹に重圧として、少なからず背負ってしまう感じがしてしまうのだ。
学校に通わない間だけでも、父との朝の会話は避けてしまいたかった。
父を乗せた車が走り出す音を聞いて、やっと身を起こすと、背中に冷えた空気が触れ、軽く身震いした。この怖気が眠った感覚から呼び戻す。
勢い良くベッドから跳ね起きると、カーテンの閉まった窓に近づいて薄く開いた。刺すような熱気が窓を開けていなくても感じられた。
鬱陶しいなと感じながらも、一気にカーテンを開いた。部屋の温度が、直射日光を受けて二三度上昇したように感じたのは、気のせいではないだろう。それほどに今年の夏の日差しは強い。
とりあえずは、感覚の鈍った肌を叩き起こすのにシャワーを丹念に浴びた。最後に凍るような冷水を浴びて、やっと頭の芯まで目覚めたのを確認して、一樹は、今一度、机の上の地図に向かい合った。
水墨画のような地図は、大雑把な地形を示しているが、見覚えの無いものには感じられない。現存しない川や丘稜などが書き込まれているが、大きな地形としては、この町を形作っていることが明白だ。
幾つかの印しも見えるが、それが何の意味を持っているかは理解できなかった。しかし、その一点に見覚えがある。いや、その場所に覚えがあるというくらいだろう。
何時だったか塾の無い日に、叔父の絵画展を覗きに行った帰りに通った道だ。急ぐつもりもなかったが、自然と早足になる歩を呼び止められた。
「一樹か?」
振り向いてみたが、見知った顔であることは確認できたが、誰であったかということまでは思い出せなかった。見覚えがある。それだけだ。
「おいおい、わかんねぇってか? クラスメートだろうが」
そう言われて思い当たった。クラスでも中の上あたりをうろついてる奴だ。確か京平と呼ばれていた。
「君か…何か用か?」
普通に話したつもりの一樹に、京平はあからさまに眉を寄せ嫌な表情を見せた。
「こんなとこ通るなんて珍しいじゃないか。塾はサボりか?」
「別に…」
そう言って背を向けたが、
「けっ」
という舌打ちは、一樹の背中に確かに届いた。
一樹とて、自分の話し方や態度が好ましいものだとは思っていない。ただ、極力無駄を省き、他人とも極力関わらないようにすると、こういう態度になってしまうのだ。馬鹿話に華を咲かせる級友達は、一樹からすれば、時間を浪費するだけの愚か者にしか見えない。
父親からすれば、
「お前は、人間関係を構築するだけの余裕ってものがない。短所と言えば聞こえはいいが、それは重大な欠陥だ。つまらん話にも心理ってのは眠ってるし、信用することと信頼されることは、似ているようで大きく違う。そこがお前は、わかってない」
と言われて久しいが、それからの一樹に何の変化もないのだから、未だに父の評価は変わっていないのだろう。
もう一度、変に蛇行した思考を地図に戻した。印しは、まだ幾つかあるが、それらは小さい点のようなもので、目印のようなものではないだろうかと思える。
興味をそそるのは、それらの印しよりかなり大きい丸にバツを重ねたものであろう。
この位置からすれば、一樹の家からさほど遠くないところにある小高い山ではないだろうかと推測できた。一樹の家が所有する私有地ではあったが、今や何の手入れもされず、放置されて幾年久しい。幼い頃に祖父に聞いたことがあるが、その祖父ですら手入れされていた記憶がないというのだから、百年と言わず荒れ放題ということになる。
その山の東側に、印しは大きな丸とバツで一樹を誘っているのだった。
服装は、動き易さと丈夫さから考えて、下はデニムのジーンズにした。上はタンクトップにデニム地の白いシャツにした。その上に羽織るようにウィンドブレーカーを大きめのリュックに押し込んだ。パーカーでもいいかと思ったが、この季節には夕刻に突然の夕立もある。少なからず雨を避けるものがいるだろう。懐中電灯は、大きめの丈夫なものを家から探し出した。電池は抜いて、新しい物を別にリュックに入れた。液漏れの可能性は、どんな状態でも有りえることからの用心だ。携帯ラジオと母が昔使っていたという登山用ロープも詰めた。小型の水筒を二つ用意し、片方に水、片方に父のブランデーを入れた。怪我をした時には消毒にもなるし、動けなくなるような大怪我だった場合、気付けの役割もする。
そこまでを仕度して台所に移動した。母が怪訝な顔付きで様子を窺っているが、気にすることは無い。
冷蔵庫を漁り、コンビーフ二缶とウィンナーを一袋、パイナップルの缶詰一缶、戸棚から父のつまみ用のビーフジャーキーを一袋。缶切りと鞘の付いた果物ナイフを更に押し込んで、一樹はリュックを背負った。
その時になって母が、
「どこかにお出掛け? なんか山登りみたいね?」
と声を掛けてきた。
「いや、冒険さ」
と短く答えて、玄関まで来て迷った。履いていく靴が無い。
学校へは革靴で行くし、普段の休みにはデッキシューズなんていう簡易な靴を愛用している一樹には、山登りや冒険をするような靴は持ち合わせていなかった。
仕方なくデッキシューズを履き掛けたところで、後ろから声が掛けられた。
「いやん。そんな登山家みたいな格好なのに、肝心の靴がデッキシューズ? 不恰好ねぇ」
母がここまで追いかけて来ていたのにも驚いたが、母がそんなことを言うとは意外だった。いつもなら、自分が何処へ行こうと関心さえ持たない母である。日がな一日、テレビショッピングか健康番組を見ながらおやつと称しては菓子を口へ運ぶだけの母なのである。「いってらっしゃい」と「おかえり」くらいしかここ数年、まともに会話は成り立っていない。
「いいだろ。動き易いことに変わりない」
そう言って、片方を履いたところで追い討ちがきた。
「ばっかねぇ。その格好から察するに、街中歩くんじゃないんでしょ? 山道なら特に倒木や岩なんかもあるし、折れた枝なんかは刺さるときだってあんのよ。そんな靴、半日で穴だらけになるから」
本当に馬鹿にした口調に、少しイラっとしながら一樹は振り向いて
「途中で買うから!」
と言い放ったが、一樹の鼻面には母の顔は無く、その代わりに古ぼけた靴が差し出されていた。
「こ、これは?」
「お父様の靴。昔に登山の経験があるの。あたしと一緒に数回行ったかな? その時のよ。今の一樹なら履けるでしょ」
古ぼけてはいるが、それはあまり痛んでない登山靴だった。裏には特殊なスパイクがついているし、丸い爪先は安全靴のように金具が縫込まれている証拠だ。
「な、なんで、こんなものを…」
父が登山をしていたなど初耳だ。一樹が生まれてこの方、聞いたことなどない。
「一樹、生まれる前だかんね。なんか、学生の時に山に行くことがあって、それからみたいな話しだったけどねぇ。あたしは、それに付いて行っただけだから」
「へぇ…」
つい出た唸りだったが、一樹はちょっと首を振って我に返って、母から靴を受け取った。
26センチ。今の一樹にぴったりであった。
「何処行くか知んないけど、気をつけてねぇ。今日、帰る?」
「わからない。今日、帰れたら帰るつもり」
登山靴を履きながら答えたが、母の答えは無かった。振り向いて見れば、母の背中はリビングのドアを潜るところだった。
「まったく」
呟いてみたが、結局は母に届くはずも無い。
一樹は、リュックを背負い、帽子をどうしようかと考えたが、似合いもしない帽子を被るのも気が引けて、そのまま玄関のドアを開けた。
ただ、言っておきたいことはある。
「その口調、なんとかならないかな?」
母に言った言葉は、テレビショッピングのアナウンサーの声で掻き消されたようだった。