7.憎しみは甘美な味
「逃げるな、腰抜け!」
「おお、怖い怖い」
身軽で足の速いハイドグは、ミァンとの差をどんどん広げる。余裕を取り戻したらしく、軽口まで叩いていた。
集落の外れまで逃げ、ハイドグは背後をちらりと振り返る。距離はだいぶ開いているが、ミァンはしぶとく追ってきていた。それを見て、ハイドグは不敵な笑みを浮かべる。
逃げるつもりなど、毛頭なかった。あれは、絶好の獲物だ。
彼女の“憎しみ”はハイドグに向けられたものだ。それを、彼が逃がすわけがなかった。自身は覚えていないが、どこかで彼女に憎まれるようなことをやったのだろう。それも、生半可ではない。
憎しみは強ければ強いほどいい、とハイドグは考えていた。
その強い感情が自分に向けられる瞬間が、たまらなく好きだった。憎しみに歪む顔を、自分が作ったのだと考えるとたまらなく興奮した。その憎悪の原因が、自分なのだと思うとひどく快感を覚えた。そして、己に敵わず無念のまま命を散らす様を見るのは――昇天するほどの感覚だった。
ミァンが最後の段階を見せるであろう数分後を想像し、ハイドグは舌舐めずりをする。
快感に酔いしれるハイドグの目に、集落の中で唯一焼け落ちていない建物が映った。外れにあったためだろうか。手下の不手際を内心で罵り、その建物に近寄る。
その時、奇声が聞こえた。
背後から振り下ろされた剣を避けるため、ハイドグは建物の中に転がり込む。ミァンがすぐそこにいた。
しかし、ハイドグはそれよりも建物の内装に言葉をなくした。壁一面に、蜘蛛の巣をあしらった紋様が描かれている。入り口の正面には、蜘蛛の化け物が描かれた壁画がある。そしてその前に、小さな祭壇が置かれていた。これは、まごうことなき――
「こんな化け物信仰していたとは……恐れ入った。とんだ邪教じゃあないか。じゃ、俺が殺したのは異教徒共ってわけぇ? あはは、これは教皇様にお褒めの言葉をいただいちまうかもなあ! あっはははは!」
ハイドグの笑い声に、ミァンは冷静さを取り戻す。
彼女も室内を見回し、眉をひそめる。
「マザー信仰……?」
「はっ、まあ、今はこいつのことはどうでもいい。――お嬢さん、俺に覚えがあるんですよね? どこかで会いました?」
ハイドグは笑いすぎて涙目になっている。いまさら友好的な雰囲気もなにもないが、彼はできるだけ場を和ませるような口調で喋った。
ミァンは男の目をまっすぐ見つめる。
「ノーテルの森が、襲撃されたのはおまえが原因だろ」
「ノーテルの森……? これまた懐かしい名ま、え――」
言いかけて、途中で気付いたのだろう。ハイドグはミァンの顔をまじまじと見つめた。その瞬間、歓喜が彼の身体を駆け巡った。
「あの時の黒林檎の娘か! 俺としたことが、なんで気付かなかったかな。あれから、黒林檎が俺の主食になるレベルの好物になったんだぜ」
「偏食ね。だから、そんなに痩せてるんじゃない」
「手下と同じことを言っているのに、不思議と怒る気がしないぜ」
ニマニマと笑うハイドグ。
「顔つきが変わっていたから気付かなかったんだな。たしか、名前はビ……?」
「ミァンよ」
「ミァン? ふぅん? 猫の鳴き声みたいな名前だな」
ハイドグは一瞬合点がいかない表情を見せたが、すぐにそれを取り払う。なにかに気付いたように興奮していた。興奮して、取り繕っていた口調がねばついてくる。
「悲惨な表情がとってもキュートだぜぇ? ミァンちゃん」
ハイドグが言い終える前に、ミァンは襲いかかった。それを予測していたらしく、彼は一撃目を軽々と避け、ナイフを構えなおし応戦する。
鋭い刃先が、彼女の喉元を狙いまっすぐ振るわれる。ミァンは後ろに跳んで避け、剣を両手で掴みなおした。その隙に、ハイドグは懐からもう一本ナイフを取りだして、左手に持った。
「今の方が俺好みで可愛いって褒めてるのに、なぁんで怒るのかなあ」
「おまえに好かれるなんて死んでもお断りだ!」
ミァンは吠え、相手に向かって踏みこむ。繰り出される激しい斬撃を、ハイドグは笑いながら二本のナイフで捌いていった。
「あははは、俺も嫌われたもんだねえ。なぁにがいけなかったのかなあ! ミァンちゃんは俺にとっては恩人同然だからさぁ、嫌われると悲しくなっちゃうなあ!」
「うるさいっ! 戦闘中にお喋りとか調子こいてんじゃねーぞ! 舌噛んで死ね!」
憎しみのあまり、口調まで変わってしまっているミァン。ハイドグは懲りずに声をあげて笑う。それでも、言われた通りお喋りは止め、真面目に戦闘に向き合う気になったようだ。
持っていたナイフの一本を、ミァンの手首にめがけて投擲する。ミァンはそれを難なく弾き飛ばした。弾き飛ばされたナイフは床を滑り、祭壇にぶつかって止まる。ハイドグはナイフを何本も隠し持っているらしい。ミァンが彼を再び見た時には、もうすでに手にナイフが補充されていた。
今度はハイドグがミァンに向かって斬撃を繰り出す。二本のナイフをやり過ごすため、ミァンは腰に差していた鞘を抜き、剣と鞘で、同時に繰り出される二つの攻撃を防いだ。ぶつかり合う刃が鋭い音を立てる。何回目かの攻防で、ミァンがまたハイドグの手からナイフを弾いた。すかさず、ミァンは剣で攻撃を仕掛けるも、ハイドグは軽々と剣の軌道から逃れてしまう。
ミァンと距離を取りつつ、ハイドグは余裕のある動作で懐からナイフを取り出す。
単純に攻撃するのは諦めたのか、飽きたのか、ハイドグは首を傾げ、周囲をゆっくりと回りながらミァンを観察し始めた。まるで、獲物を狙う野生動物のように。
ミァンもハイドグから目を離さない。
その攻撃的な目に、ハイドグはつぐんでいた口を開いてしまう。
「その目、ゾクゾクするうぅ……」
「変態かよ」
ミァンは思わずたじろぎ、視線を床に落とした。そして、ハイドグから離れるように後ずさりを始める。
彼女の反応に、ハイドグは笑った。
「嫌われるのは勘弁だけど、憎まれるのは大歓迎だぜぇ」
ハイドグが一歩足を踏み出すと、ミァンは一歩後ろに下がる。
「おまえのことは嫌いだし、憎んでる。私は、おまえのことを一時だって忘れたことはないよ」
「あっははは、なんだそれ。告白ぅ? 照れるねえ」
ハイドグはミァンのことを壁際に誘導し、追い詰めようとしていた。
「勘違いするな。私が憎んでるのはおまえだけじゃないんだ、森を襲撃したカリム聖教の異端審問官共と王国兵、王国そのものにだって憎しみは平等に向けているんだから」
「……気にくわねぇなあ。元凶は俺だろうが。テメェの憎しみは俺だけのものなんだよ! テメェが憎むのは俺だけでいいんだ! すべての憎悪を俺に向けて、無念のまま死ねええぇ!」
ミァンの背が祭壇に当たった。ハッとするミァン。
瞬間、ハイドグが飛び出してきた。両の手に持ったナイフが同時に振るわれる。宙を切る音が耳のすぐそばで聞こえた。ミァンは先ほどと同じように、剣と鞘で二つの攻撃を防いだ――のではなく、ミァンの二つの手がナイフによりふさがれてしまったのだった。剣と鞘が、ナイフにより上から押さえつけられてしまう。
ハイドグが脚を振り上げた。背が高く脚の長い彼が、小柄なミァンの頭を蹴るのは容易いことで。
頭の側面に強い衝撃が加えられた、と思った時には、もう身体が床に倒れている。一瞬だけ気絶していたらしい。気付くと、ハイドグがミァンの胸に片脚を乗せ、彼女のことを見下ろしていた。
頭がぐらぐらし、視界は歪んでいる。それでも、ミァンは武器の感触を確かめた。鞘は倒れた際にどこかへ飛んでいってしまったらしいが、剣はしっかりと握ったままだ。だが、今それを振るうのは危険すぎる。
「俺の勝ちだ。つまり、テメェになにしようが自由ってわけ。この意味、分かるぅ?」
ハイドグが舌舐めずりをする。
ミァンはちらりと見た集落の惨状を思い出す。あれを、彼らが死んだ後にやったのか死ぬ前にやったのか、それは分からない。分からないが、ハイドグの悪趣味さは十二分に伝わる。人をいたぶるのが大好きなことも。
武器の柄を、汗と共に握る。
「死ぬ前に、一つだけ聞かせて」
「いいねぇ、その頼み方。今の俺は最高に気分が良いからさぁ、なんでも答えてやるよ」
「おまえの娯楽のために、私の家族は死んだの?」
「……それは違う。原因を作ったのは俺で、憎むべきも俺だが、ミァンちゃんの家族とやらが死んだのは決められた運命ってやつさ」
てっきり、そうだ、と返して煽ってくるかと思いきや。ミァンは意外な返答に、言葉が出てこない。
ハイドグは胸に足を乗せたまま屈む。顔がぐっと近付き、ミァンは息を詰める。ナイフが、振り上げられる。
「だからさぁ、ここでミァンちゃんが死ぬのも運命ってわけ」
ミァンはすぐさま背中で握っていたナイフを取り出した。間をおかずに、ハイドグの床についている足の甲に向けて、それを突き立てる。
突然の痛みに、ハイドグは悲鳴を上げ、ナイフを取り落とした。立ち上がり、飛び退こうとするハイドグ。ミァンはそれを許さず、胸に乗せられた脚の足首を掴む。
ハイドグの顔に焦りが走る。
「なっ、あああぁ!? お、俺のナイフ? な、なんで」
ミァンが突き立てたナイフは、ハイドグが最初に投げたものだった。祭壇のそばに落ちたのを、ミァンは視界の片隅にとらえていた。
「私のことを誘導できたと思った? 残念。誘導したのは私の方でした。あっはははは」
ミァンは、ハイドグの笑い方を真似して笑う。
屈んだことで死角になってしまい、ハイドグは彼女の手の動きが見えなくなったのだ。そして、彼女はその瞬間を待っていた。
ミァンはハイドグの足首を掴んだまま勢いよく立ち上がる。バランスを崩し、後ろに倒れるハイドグ。転倒する無防備な状態の彼に、ミァンは容赦なく刃を向けた。左手で足首を掴み、右手で剣を持って。掴んだ方の脚を、太ももから切り離した。
切れ味の良すぎる刃は、いとも簡単に肉を裂き、骨を断つ。
獣のような叫び声をあげて、ハイドグは床に転がった。
「形勢逆転だね。おまえがいたぶるのが趣味で良かった。私なら、相手が五体満足のままお喋りしたりはしないかな」
切り離した左脚を、ミァンは物を扱うかのように部屋の隅へ放り投げる。ハイドグは顔面を蒼白にして、それを見ていた。手は震え、なくした脚を庇うようにしている。とてもではないが、武器を握れる様子ではなかった。
「て、めぇ……さっき、死ぬ前に、って」
「おまえが死ぬ前に、って意味に決まってるでしょ」
左脚の断面から白い骨がのぞいている。ミァンはその部分を踏みつけた。
ぐちゃり、と肉が音を出し潰れる。踏んだ勢いで血が噴き出す。
か細い悲鳴を噛み殺す歯と歯の間から、うめき声が漏れた。額には脂汗が浮かんでいる。
「ま、待って。殺さないで。俺だって好き好んでこんなことやってたわけじゃあないんだよぉ。教国の奴らに脅されて――」
「死に際までたくましいね。そのしおらしい演技で教皇まで騙したんだって? 風の便りに聞いたよ」
ミァンは言いながら剣の刃を、男の喉に当てた。ハイドグはひくり、と喉を鳴らす。
「もっとも、教皇はおまえのことを薄汚い盗賊として見ていたんだろうけどね。おまえの猟奇殺人鬼としての一面は知らないんだろ、どうせ。知っていたら、裁判にかけるまでもなく、異端の刻印を押されていただろうし」
ハイドグは目に恐怖を浮かべ、ミァンを見上げていた。
「人には憎しみを向けろ、って言うくせに、自分は恐れを向けるんだ。私が憎しみを込めておまえを殺してやる、って言ってるんだから感謝しなよ。あの不快な笑い声を上げなよ。おまえが死ぬのも運命が仕組んだことなんだろ」
痛みからか恐怖からか、ハイドグは涙を零す。
「あはっ、はは……。運命よ、俺に死ねというのか……」
引きつった笑い方だったが、ミァンは満足そうにする。
ハイドグは血だらけの手を懐に忍ばせた。途端に、ミァンは顔を険しくさせ、剣の刃をわずかにずらす。首の皮一枚を切り、血が一筋流れ出した。
ハイドグが震える手で取りだしたのは、ナイフではなかった。杯だ。
ミァンが不審そうにする中、彼はその杯をミァンの足元に向かって放った。カラン、と音を立てて杯が転がる。そちらに一切目を向けずにいると、ハイドグはもう一度力なく笑った。
「あは、は……はあ、それは、テメェに……返す」
限界を迎えたのか、ハイドグは苦痛に目を閉じる。
ミァンは彼の背後にある壁画と祭壇を見た。
「これは贄の祭壇である。この勝利、ラヌート山の女王マザー・アウトローチェに捧ぐ!」
ミァンは叫び終えると、ハイドグの頭と胴体を切り離した。ごとり、と頭が落ちる。胴体は勢いよく血を噴き出した後、崩れ落ちた。
落ちた頭をしばらく見つめてから、ミァンはハイドグが最期に寄こした杯を拾い上げる。
金の杯だった。刻まれた紋章に、血が入り込んでいる。見覚えのある紋章だが、どこで見たのかはいまいち思い出せない。
杯を手に、彼が残した言葉の意味を考えていると、メェメェが扉を押し開け入ってきた。メェメェは室内の惨状を見渡し、最後にミァンに目を向けた。そして、嫌そうな顔をする。
「盗賊の盗品なんか奪ってどうする。みっともないぞ」
「私に返すって言われたの」
言いながら、ミァンは杯を仕舞った。メェメェは信じられない、という顔をした。
「はあ? お前さん、正気か」
「うん。それより、そっちはどうだった?」
「あー、あらかた片付けた。数人逃がしたが」
メェメェは居心地悪そうにしている。目線がちらちらとハイドグの死体の方へ向けられていた。
「どうするんだ、後片付け」
壁一面に張り巡らされた蜘蛛の巣のような紋様に目を向け、ミァンは考える。白く描かれていた糸は、ハイドグとの戦闘で一部が赤く染まっていた。
さっきは勢いで言ってしまったが、後から考えると良い案のように思えてくる。
「マザーへの貢物、かな」
「え……。集落の人間の遺体も、か?」
「うん。放っておいても、グールが死体を漁るだけだろうし。崇拝するマザーに食べられるなら、むしろ喜ぶんじゃない?」
「ま、埋葬とかさ。した方が良いんじゃないか」
「それこそ、地中の虫に食べられるだけでしょ」
メェメェは言葉を失くした。ミァンが本気だということを悟ったからだ。
「メェメェ、この男の身体、運ぶのを手伝ってくれる? 三分割しちゃったから、ちょっと面倒で」
ミァンは左脚と頭を回収している。メェメェは残った片脚のない胴体を運べ、ということだろう。
普段なら血で毛が汚れる、と文句をつけるところだが、メェメェも今のミァンには逆らえなかった。