71.沈みゆく泥船を乗り捨てて
ウェンデルは何気なしに、書斎で精霊信仰に関する書物を開いていた。
先日この部屋で、異端審問官アーウィンと乱闘紛いのことを行った際に散らばった本やページを、そのままにしてあったのだ。部下に、部屋が汚い、と叱られたウェンデルは朝から片付けに追われている。
ついでに本の整理もやってしまおう、と思い立ったウェンデルは見事に片付けの罠に嵌まった。つい、本を開いてしまってから、彼の手は完全に止まっている。
「ただいま帰りましたが、ウェンデル様はちゃんとお片付けをやっていたでしょうね? 私が、頼まれ事をしっかりと遂行している間に」
周囲の物音にも気付かないぐらい、没頭していたらしい。
突然、背後から部下の声が聞こえてきて、ウェンデルは飛び上がらんばかりに驚いた。慌てて、目の前の本を閉じる。
「もちろんだとも。朝と比べて、だいぶ綺麗になっただろう?」
「ちっとも変わっていません。強いて言うなら、埃の位置が移動しました?」
振り返ると、不機嫌そうな顔をする部下がいた。ウェンデルが読んでいた物を、ばっちりと覗き込める位置だ。言い訳は通用しないだろう。
部下はため息をつく。
「お説教は後です。先に、報告の方をさせてもらいます」
「おお、どうだった?」
「だめですね。教国軍は負けます」
何の感慨もなく、あっさりと言われた。
だが、ウェンデルの方は少し、思うところがあるらしい。彼は顎に手を当て、思慮深い目を光らせる。
ウェンデルは、部下に戦場の様子を見に行かせていたのだ。言うまでもなく、教国軍と亜人混合軍が交戦する戦場だ。
今はまるで家政婦のような物言いをしている部下だが、これでも彼はウェンデルと傭兵の現役時代から付き合いがある。といっても現役時代は仲が良いとは言えず、利益のため、互いに裏切り合うような関係だったのだが。
その後、色々あって今の関係に落ち着いている。
部下は斥候としては一流だ。戦況を見極める目も鋭い。たとえ、戦いを最後まで見ていなくとも、彼が負けると言うのならば教国軍は負けるのだろう。
「王国軍が帰っちゃった時は、さすがに驚きましたが」
「帰っちゃった?」
「全軍撤退ですよ。教国軍を見捨てて」
ウェンデルは首を傾げた。
一度は援軍の要請に応えたというのに、王国軍はなぜそれを途中で放棄するような真似をしたのか。今後、教国に敵対されたとしても文句を言えない立場だ。というか、間違いなく敵対されるだろう。
部下は理由には興味がないらしく、肩をすくめた。
「まあ、決定打は魔族側に援軍が来たことでしょうが」
「援軍? もしかして、人間か?」
「ええ、その通りです。騎兵が三十騎ほど」
ウェンデルは眉をひそめる。
「たかだか三十騎で、戦況が劇的に変わるものか?」
「ただの騎兵じゃありません。ペガサス騎兵です」
それを聞いた途端、ウェンデルの表情が固まった。口を開いたまま、部下の真意をはかるように、じっと目を見つめる。そうすることで分かったのは、彼が嘘をついていないということだけ。
開いていた口をゆっくりと閉じ、ウェンデルはそのまま口元を弓なりに吊り上げる。あまりのことに、笑い出してしまいそうだ。
「フーフバラの翼派か! 急に内戦を終えたと思ったら、そんなことになっていたとは。あの国の軍人が魔族に味方したとなると、カリム聖教は本当に、ツキに見放されているらしい!」
実際、翼派の兵士たちがあの場を通りかかったのは、偶然に近いのだから。教国軍にとっては運が悪かった、と言えるだろう。
「真に心が通じ合っている賢獣と人は、一騎当千の力を発揮するというが……。そんなものが三十騎か。たしかに、笑えない数字だ」
笑えない、と言いつつも彼は笑いを漏らし始めている。
付き合いの長い部下は、ウェンデルがカリム聖教信者の皮を被っていることを知っている。そのため、ウェンデルが教国のことを笑おうと、たいして気にする素振りを見せない。
「教国軍は全滅でしょうね。魔族が奴らを見逃すとは考え辛いですし、教国軍は最後の一人になっても立ち退かないような連中ばかりですから」
そればかりか、自身も教国のことを貶す発言をしてしまう。
ウェンデルは残念そうに、首を横に振った。
「まったく、損な連中だよ。なんで、ああいう考え方しかできんのかね。生きてさえいれば、やり直しの機会なんていくらでもあるというのに。生き恥をさらす方が、耐えられんとは」
「自尊心なんて、糞の役にも立ちませんのにね。薄汚い傭兵上がりには、理解しかねます。こちとら、地に這いつくばって泥水すすって生きていた時代もあるというのに……」
「信仰に生き、信仰に死ぬ。実に、贅沢な人生じゃないか」
酒池肉林を満喫する、といった贅沢とはまた違った、贅沢さだ。一般市民には手の届かない生き方という点だけは共通している。
己の信じるもののために戦うことができ、彼らは本望だっただろう。ここで魔族を打ち破ることができたら、もっと良かっただろうが。
ウェンデルが死んでいった教国兵のことを思っていると、彼の心境をまったく意に介さず、部下が期待を込めて言った。
「奴らが全滅したとなると、ウェンデル様が異端であるという真実は闇に葬られたのでしょうか」
「それは期待しない方がいいな。あの抜け目ない異端審問官が、教国に連絡しないわけがない」
部下は落胆したように、ため息をつく。
「それじゃあ、ウェンデル様は処刑されてしまうわけですね」
「いや、俺は死ぬつもりなんてないぜ」
予想に反した言葉に、部下は目を見開いた。ウェンデルはシニカルな笑みを浮かべ、椅子の背にもたれている。そこには、逃げも隠れもしないという意思が表れており、焦りのようなものは見受けられない。
部下はその様子を見て、怪訝そうに、けれど期待に満ちた表情で問いかける。
「ご自分の運命を受け入れる、異端審問官にはそう言ったそうですが?」
「ここで、教国軍が魔族共を打ち払うことができていたなら、俺は異端として死んでやっても構わなかった。……だが、こんなところで負けるようじゃ駄目だ」
ウェンデルは続けて、力強く言った。彼には彼の為すべき役目がある。
「沈みゆく泥船に乗ったままの民を、見過ごすわけにはいかない。だから、俺はまだ死ねない」
部下は目を丸くしたままだ。彼の言わんとすることを、すべて理解したわけではない。それでも、大それたことを言っているのは分かった。
「泥船……とは、教国のことですか。今の段階で、どうしてそんな風に断言できるんです? たかが、一敗じゃありませんか」
「たかが一敗、か。カリム聖教は創立以来、魔族に負けたことがない。まさに無敗だった。だから、今回のことは歴史的な大敗である、といっても過言ではないのだよ」
部下は腕組みをして考え込む。
戦況を見極める目は部下の方が鋭いが、大局を見据える目はウェンデルの方が養われていた。
「一度躓けば、転がり落ちるのは簡単。ここで踏ん張るだけの力が、今のカリム聖教にはない。俺はそう判断した」
「まだ分かりませんね……。一度の失敗で挫かれるほど、カリム聖教はやわではないでしょう」
今度は片目を瞑り、考え込む部下。完全に否定する気はないらしく、ウェンデルに説明を求めている雰囲気だ。
この分だと、トムセロが魔族と手を組んでいる、というのも本当だろう。ウェンデルはそう推測し、自分の考えを述べ始める。
「大陸一の商業都市トムセロと、最強の軍事国家フーフバラ。この二つが魔族側についているという時点で、人間側にとっては大打撃だ。……あと、これはあまり影響しないかもしれないが、ノーテル王国もどういうわけか教国と離反したようだしな」
王国軍が教国軍を見捨てた、という部下の発言を思い出し、ウェンデルはついでのように付け加える。小国や田舎国家が与える影響は少ないと考えているのか、彼はそれらを省いて話す。
「ルーシャ帝国は統一戦争の後処理に追われて、教国への協力は積極的ではない。残る大国はエグリージュ神聖王国だが……まあ、ここぐらいだろうな。教国と一緒に魔族を滅ぼそう、とやる気になっているのは。だが、神聖王国だってトムセロが独立してしまえば弱体する。この国は、トムセロに経済面で頼り過ぎていた」
「トムセロの“反乱鎮圧”が成功すれば――」
「果たして、成功するかな」
「…………」
「今回の騒動を、鎮圧できると思うか? もちろん、できる可能性もあるだろうよ。鎮圧に参加するはずだった教国軍が、魔族によって壊滅。そんな報を聞いて、臆病風に吹かれない戦士ばかりなら、な」
部下は唸り始める。まだ完全には納得できていないようだ。
「たしかに、トムセロは大陸一の商業都市ですが、今のように閉じこもっている限り、その利点が発揮されるようには思えません。魔族相手の商いで、街が潤っているというのなら、話は別ですが」
魔族相手の商い、というのは皮肉で言っているのだろう。
ウェンデルは苦笑する。
「そうだな。現状、トムセロは商業都市としては機能していないだろう。だが重要なのは、エグリージュ神聖王国の力が削がれている、ということだ」
神聖王国がトムセロを取り返そうと躍起になっているのも、そのためだ。あの街が国の一部に戻らなければ、神聖王国は今までの半分の力も出せない。
部下は何度か頷いた後、今度はフーフバラのことを口にした。
「最強と名高いフーフバラの軍隊ですが、彼らが得意とするのは防衛戦のはず。あの国は、他国の侵略を幾度となく跳ね除けたことはあっても、他国に攻め入ったことは一度としてありません。そんな彼らが、外に飛び出して、魔族の侵略の力になれるでしょうか」
「……本気でその質問をしているのか? 君のその目で見たものが、答えだろう」
「……愚問でしたね。彼らの戦いぶりは寒気がするほどのものでした」
戦場に乱入してきた翼派のペガサス騎兵を思い出し、部下は顔を青ざめさせる。
おそらく、フーフバラが他国に攻め入った記録がないのは、それだけの力がなかったからではない。傭兵上がりには理解できない軍人的な立派な心構えか、内部のごたごたのせいでそんな暇がなかっただけだ。
「フーフバラにしても、トムセロにしても、注目すべきは“魔族の味方をしている”という点だ。“魔族の手に落ちた”わけではなく」
「どう違うんですか?」
「どちらも、魔族の侵攻など退けられるだけの力があった。主権を握る者も、脅しに屈するような人間じゃない。フーフバラとトムセロは、自発的に、魔族の味方に回ったんだ」
言ってから、ウェンデルは首を振った。
「もはや、魔族と呼ぶ必要はないな。人間を見れば情け容赦なく喰い殺してしまう化け物、そんなものはいない。トムセロやフーフバラの人間は生きているじゃないか。残忍で、非情で、言葉の通じない魔族の正体。それは、虐げられた哀れな亜人だ」
そんなことは、ウェンデルはとうの昔から知っていたが。トムセロの地下で、禁書図書館に収められていた文献を漁った時から。
部下にとっても、それは暗黙の了解のようなもので。改めて言葉で表されると新鮮だったようだ。先程までの小難しい顔は払拭して、彼はほんの少しにやけた。
「では、具体的に、ウェンデル様はどうするつもりですか」
「カーチェフ領は、トムセロとフーフバラに続く。手始めに、亜人と接触を図る」
今までの話の流れからして、予想できなかったわけではないが、それでも部下の胸はどきりと鳴った。そして、ここで渋るのが自分の役目だと言わんばかりに、彼はウェンデルの頭を指でつついた。
「領民に、トチ狂ったかと思われますよ」
「では、そのように思わせておけ。異端の領主が、勝手に決めたことだと。仮に、カリム聖教が“魔族”を殲滅するハッピーエンド展開になったなら、領主は“魔族”に操られていたとでも証言すればいい。その場合、俺の命はないだろうが、領民まで罰することはないだろう」
部下の手を払いのけ、ウェンデルは立ち上がる。椅子の背にかけられていたコートを羽織ると、彼は外出の準備をし始めた。
その様子を、部下はぽかんと眺める。
「あの、どこへ……?」
「近くまで亜人が来ているというのに、このチャンスを逃すわけにはいかん」
ウェンデルはなぜか、数冊の本を手にしている。それは必要なのか、と部下は問い質したい気持ちに駆られる。が、ウェンデルがここで聞いても教えてくれるような優しい人格でないことは知っているので、黙っていた。
諦めたように、部下も身支度を整え始める。
「貴方のそういう大胆なところが、人を引き付ける魅力なんでしょうね。常人だったら考えつかないような突拍子もない発想を、すぐに行動に移してしまう」
「俺が馬鹿だって言いたいんだろう?」
「大馬鹿です」
辛辣だなあ、と快活に笑いながら、ウェンデルは部屋の戸に手をかけた。そこでいったん、彼は部下のことを振り返る。
「少なくとも、彼らは人の話を聞いてくれるさ。聖職者の方が、頭が固くて、よっぽど話が通じんよ」
部下は眉間にしわを寄せたまま、その言葉に同意した。




