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デュラハンの弟子  作者: 鴉山 九郎
【第5章 世界は形成されていく】
62/90

61.トレントの果実


 *****



 さざ波一つない湖のほとりで、盗賊の一団が一休みをしていた。彼ら以外に人影はなく、その一団だけが美しい自然の景色に不釣り合いで、浮いている。

 彼らを率いるリーダーは一人離れて、水面をのぞいていた。痩せぎすの若い男で、手下の多くは彼よりも年上である。それにも関わらず、手下たちは彼を畏怖している。尊敬の類は一切なく。

 男の名前はハイドグ。まだ黒林檎が主食になる前の彼だ。

 リーダーの細い背中を見つめ、一人の手下が口にした。


「あの人が信仰のために働くようには見えないけどなあ。どういう風の吹き回しなんだろ」


 それは、これから行おうとしている仕事に関する疑問だった。正直、ごろつきの盗賊がやるべきことじゃない。


「ああ見えて、熱心な信者だったりしてな」

「はあ、人は見かけによらねえってか?」


 神や救いなど、これっぽっちも信じていなさそうな男が、教皇の命を受けてこうして動いている。きっと自分達の推測が正しいのだろう。手下達が勝手に納得しかけた時、ハイドグは彼らを振り返った。

 話を聞いていたらしく、目を細めている。


「俺はジジイのためにやっているわけじゃあない」

「ジジイって……教皇のことっすか」


 無礼なことを言うハイドグに、手下達は冷や汗を流す。こんな言葉を異端審問官に聞かれでもしたら、ひとたまりもないだろう。幸い、ここは滅多に人間が立ち寄らないような場所なのだが。

 リーダーも怖いが、異端審問官は別の次元で恐ろしい。


「ましてや、信仰のためだとぉ? テメェら、俺が宗教にはまるような人間に見えるのかあ?」


 最初の見た目通りの印象の方が合っていたらしい。

 ハイドグは不愉快そうに眉をひそめていた。


「教皇はむかつくことしか言わねえし、異端審問官は――」


 何かを思い出したらしく、ハイドグはぶるりと身体を震わせた。

 あの泣く子も黙る異端審問官を恐れるということは、彼も人の子らしい。と、手下達はどこかずれた箇所で安心を得る。

 しかし、放っておくとどんどん発言がエスカレートしていきそうなので、手下は慌てて止めに入った。いくら、ここに異端審問官がいないとはいっても、やはり心臓に悪い。


「そ、そのへんにしておきましょう! 仮にも今は、カリム聖教のために働いているわけですし!」

「……じゃあ、ハイドグさんは何のためにこんなことをしているんです? 信者でもないのに」


 手下の問いに、ハイドグは答えなかった。

 再びそっぽを向いてしまった彼に代わって、この中では古株の男が答える。


「ハイドグさんは、聖女に助けられたことがあるんだよ」

「聖女って、あの聖女?」

「聖女に癒されたことがあんの? すげー」


 彼らにとって聖女とは、有名人の一人、という認識でしかない。だが、こんな底辺の人間にも知れ渡っているほど、彼女が名高い神官であるともいえる。


「教皇も信仰もどうでもいいけど、聖女様への恩返しになるならカリム聖教のために働いてもいい、ってところかな?」


 彼もまた、自分の推測を口にしただけらしい。

 ハイドグは背を向けたまま沈黙していた。答えは得られないのか、と手下達が諦めかけた頃、彼はぼそりと言った。


「野良犬だって、受けた施しは覚えているだろうよ」


 その推測が正解であることを示す言葉だった。

 手下は感動して言う。


「自分のことを野良犬に例えるなんて、ハイドグさんは謙虚っすね!」

「テメェ、喧嘩売ってんのかあ?」


 ハイドグは笑みを引きつらせ、今度は身体ごと彼らの方に向き直った。手を懐に突っ込んでいる。ナイフを取り出そうとしているのだ、と気付いた手下達は失言した男を庇いつつ、ハイドグをなだめた。

 失言した当の本人も、ハイドグに向かって平謝りする。

 手下達の一連の言動を舐めるように見た後、ハイドグはひとまず手を身体の脇に下ろした。それを見て、手下達はほっとする。本当に彼の怒りに触れていたら、謝る暇さえ与えられずに喉を掻っ切られているだろう。

 場が落ち着いたのを感じ取り、先ほどの話の続きをしようとした者がいた。


「聖女に癒される感覚は、母親の腕に抱かれた記憶を思い出す、っていう話を聞いたことがあるんですけど、それは本当――」


 おそらく、彼はハイドグにその時のことを話してもらいたかっただけだろう。皆が口をそろえて言う、聖女に癒される感覚。それを実体験した者の感想を聞きたかったのだ。

 しかし、その発言が彼の逆鱗に触れた。先ほどは我慢できた怒りを、抑えることができなかった。怒りを通り越して、殺意の芽生えた目が手下を捉える。

 ナイフを取り出す暇さえ惜しんで、ハイドグはその手下の首を両手で掴んだ。最後まで言い終えることなく、手下の発言が途切れる。突然のことに驚き、目は見開かれていた。


「ど、どうしたんですか!」

「そんなことしたら、そいつ死んじまいますよ!」


 今の発言のどこが気に触ったのか、手下達は理解に苦しむ。

 手下の首に絡ませたハイドグの指に、さらに力が込められる。手下は顔を赤くし、少しでも多く空気を取り入れようと口を開く。首から手をどけようとハイドグの手首を掴んでいるものの、その力が緩められる気配はない。

 やがて手下の顔色が赤から青に変わり始めると、ハイドグはようやく、低い声を絞り出した。


「全然違う。そんなものと一緒にするな。母親の腕に抱かれるってのはなあ、こういうことなんだよ」


 言い終えると同時に、ハイドグはぱっと手を放した。

 窒息死の寸前までいった手下は地面に倒れ込み、激しく咳込む。その男が涙目で苦しそうにしていても、それを気にかける者は誰一人いなかった。

 他の手下達の注意は、ハイドグに向けられていた。今の彼の表情がとても珍しいものだったので、呆然としていたのだ。

 普段なら、嬉々とした表情でやってもおかしくはない先程の行為。人をいたぶることが趣味であるはずの彼が、目に苦痛の色を浮かべていた。

 普段とは違うハイドグに、手下達はどぎまぎする。

 どうせなら、いつもの狂気的な笑い声を上げたらいいものを。そうしたら、平然と流すことができたのに。いっそ手下の一人や二人を殺してくれた方が安心できた、という矛盾。


「ず、随分とバイオレンスなお母様だったようで……」


 やっとのことで最初に口を開いたのは、そんな気の利かない言葉しか言えない手下だった。

 ハイドグは例にもれず、その手下を睨む。手下の身がすくんだが、結局ハイドグは何もしなかった。

 いらいらとした感情をこの先にあるものに向けるように、ハイドグは顔をそらす。眼光は鋭く、いつもの危なげな輝きを取り戻していた。


「魔族が棲む森があるっていうから、わざわざこんな糞田舎まで来たんだ。収穫がなかったら許さねえからな」


 各地に点々と散らばる魔族を見つけだし、その動向を探ること。それが彼らの仕事だ。もっとも、金目になるものがあったら、そちらを優先させてしまうのだが。

 手下達が気を引き締めた時、近くの茂みが揺れた。

 ハイドグは瞬時にそちらに目を向ける。手にはいつの間にか、ナイフが握られている。

 茂みから現れたのは、狼だった。それを見て、手下の一人が安心する。


「なんだ、本物の野良犬みたいですね」


 気を抜いて笑った手下は、次の瞬間には、その狼に飛びかかられ頭から喰われた。悲鳴は狼の口の中でこだまし、消えていく。頭蓋骨を噛み砕かれる音がした後、その手下の身体はだらりと力が抜けた。

 他の手下達が固まっている中、ハイドグは忌々しげに呟く。


「犬ぅ? どう見たって、狼だろうが……。俺の周りには馬鹿しかいないのか」


 狼は手下の死体を吐き出し、敵意に満ちた目を盗賊達に向けた。

 この狼は飢えているわけではない。確実に、殺すためだけに襲ってくる。それが嫌でも分かった。

 手下達も武器を構え、狼を撃退しようとする。しかし、狼は予想以上に強かった。

 盗賊達の間を駆け抜け、向けられた武器はそれを持つ腕ごと吹き飛ばす。目の前で自分の腕が宙に舞い、恐慌する男の胸を、前足でぶち抜く。死体になり果てた男の身体をくわえ、数人で囲おうとした男達に向かってぶん投げ、なぎ倒す。

 ハイドグは狼の流れるような動作を、その場から動かずに観察していた。目の前で手下が肉片になろうと、顔色は変わらない。

 やがて、敵わないと悟った手下の数人が、その場から逃げ出そうとした。しかし、それすら許してはもらえなかった。

 彼らに立ちふさがったのは狼ではない。ハイドグだ。

 逃げようとした手下の首に、投げられたナイフが突き刺さった。逃亡をはかった手下達は顔をひきつらせ、後ずさる。


「逃げたら許さねえぞ」


 それだけ言うと、ハイドグも狼の前に躍り出る。

 すでに手下の半数を蹴散らした狼を目前にしても、彼は臆さなかった。ナイフを両手に持ち、鋭い斬撃を連続で浴びせる。すると、狼は一転して防衛する一方になった。

 彼は手強い、と悟ったのか、攻撃を避けながら狼は雑魚の対処をしていく。一度は足を止めた手下も、狼が近づいてくるのを見ると、背中を向けて今度こそ逃げ出した。

 そうはさせまい、と狼が飛びかかろうとした時、狼の頭上をナイフが飛んでいった。そのナイフは手下の首に後ろから刺さり、手下はうつ伏せに倒れた。

 狼はいぶかしげにハイドグを振り返る。


「アホ共が。許さない、って言ったのが聞こえなかったのかねえ」


 手元が狂った、というわけではないらしい。

 呆気ないことに、それが最後の手下だった。盗賊達は一匹の狼に壊滅させられた。生き残りはハイドグのみ。

 狼は改めて、ハイドグと対峙する。

 狼は憎々しげな視線で彼を射抜いた。ハイドグは怯むどころか、口元を緩ませる。


「獣のくせに良い表情するねぇ。もしかして、ただの狼じゃないのかなあ?」


 黒い興奮が、沸き起こってくる。その狼が妙に人間らしい表情をしているように見えて、ハイドグは舌なめずりした。

 狼はただ、ハイドグの前に立ちふさがる。この先に行かせるわけにはいかない、と言わんばかりに。

 それを見て、ハイドグはふと思い至る。


「ああ、もしかしてさっきの話を聞いていたりしたぁ? 俺を森に行かせないように奮闘しているわけだ」


 端から見ると、狼に語りかける変人だ。だが、ハイドグはそれ以上に変態だった。


「あっはは、テメェが魔族だろうが、ただの狼だろうが、関係ない。その憎しみに満ちた顔! 俺に向けたまま、無様に散ってくれよぉ、あっは、あははははは!」


 ハイドグの笑い声が耳障りだ、というふうに耳を反らして、狼は飛びかかってきた。牙の並んだ大口を開け、鉤爪の生えた前足を突き出す。

 ハイドグは身を翻して攻撃を避けると、その大きく開いた口に向かって、ナイフを投擲した。喉を内側から刺され、狼は目を見開く。すぐに血が溢れ出し、ナイフのせいで口を閉じることもできず、狼は倒れ伏す。

 狼はハイドグの期待通り、死ぬ間際まで鋭い眼光を失わず、彼に至福の時を与えた。

 ハイドグはしばらくの間、狼の死に顔を見ていたが、やがてその場を去る。たとえ自分一人になろうと、当初の目的を果たすために。


 これが、ライカンスロープのゼブの死に様だった。




 この前のことを思い出して、ハイドグはいらいらしながら森の中を歩いていた。

 目的の場所に辿り着いたはいいが、詮索は思うように進まない。一人ではやれることが限られてくるし、時間がかかる。やはり、手下を失ったのは手痛かった。

 だからといって、手下を調達するために街に戻っては、それこそ時間のロスだ。

 これからやるべきことを頭の中で整理するが、思うようにいかない。なぜだか意識が朦朧としていた。何か大事なことを忘れている気がする。

 足下がふらついた、と思ったら霞む視界がぐるりと回転する。地面に倒れ、意識を手放す直前、そういえば三日前から食べることを忘れていた、とハイドグは思い当たった。




 ミァンが日課の朝の散歩をしていると、いつも通る道に男が倒れているのを発見した。

 はたと足を止め、ミァンはまず離れた場所からその男を観察する。どう見ても、人間だった。この森に、自分以外はいないはずのもの。

 ミァンは逡巡する。アプトラには、知らない人に話しかけてはいけない、と言いつけられていた。フィスファールには、困った人がいたら助けなさい、と教えられた。どちらを優先させるべきか。

 迷った挙句、ミァンはその男に近付く。怪我をして倒れているのだとしたら、放ってはおけない。外傷の有無だけでも確かめるべきだ、と判断した。

 男のそばにしゃがみ、その身体の隅から隅まで目を向けるが、怪我をしている様子はない。

 ひとまずホッとし、ミァンは男に声をかける。


「おはよう」


 倒れている相手に対してかける第一声ではない気がしたが、他に何も思いつかなかったので仕方ない。朝の挨拶は大事だ。

 返事はなかったが、代わりに男の腹が鳴った。

 お腹をすかせて倒れているのだ、とぴんときたミァンはすぐさま立ち上がる。


「待ってて」


 男にそれだけ言い残すと、ミァンは駆け足である場所に向かう。


 この森にはフィスファール以外にも精霊がいる。大木の姿をした精霊、トレントだ。

 植物の種を植え、それを黙々と育て、森を繁栄させることを使命とする彼ら。彼らが育てた木は、時に変わった果実を実らせる。その一つが、ミァンの好物でもある黒林檎だ。

 トレントの老木アルと、若木のブル。彼らは決まった場所から動かないため、いつでもそこにいる。動くことは出来るらしいのだが、生えた根っこを引き抜くのが面倒くさいらしい。

 ミァンが彼らの前に姿を現すと、アルは嬉しそうにした。彼は彼女の成長を見守るお爺ちゃんのような存在だった。ミァンが幼い時は、遊び相手をしてもらったこともある。


「おお、よく来たよく来た。久しぶりに顔が見れて嬉しいぞ」

「久しぶりって……耄碌してんな、じーさん。こいつは昨日もここに来たよ」


 口の悪いブルが呆れて言うと、アルが枝をしならせて彼をはたいた。

 ミァンはその様子をにこにことした顔で見る。


「して、何用かな?」

「黒林檎、くださいな。一杯ね」


 ミァンが答えると、アルはいくつかの枝を伸ばし、付近の木から黒林檎をもぎ取る。そして、それをミァンに手渡した。ミァンの両腕一杯に抱えられる、黒林檎の山のできあがりだ。

 ブルはからかい半分に言う。


「そんなに食うと太るぞ」

「失礼ね、年頃の女の子に対して。そんなんだから、ブルはもてないんだよ」


 ミァンは仕返しに、ブルに舌を突き出す。それから、アルには頭を下げた。


「ありがとう。大切に食べるね」

「うむうむ、若い子はそれぐらい食べた方がええ」


 ミァンは苦笑し、黒林檎の山を落とさないようにしながら、男のもとへ急ぎ戻った。


 男は初めに見た姿勢とは変わっていた。地面にうつ伏せに倒れていたのだが、今は近くの木に背を預けている。ミァンに声をかけられた時点で、意識はあったのだ。男はうっすらと目を開き、小走りでやってくるミァンを見ていた。

 ミァンは男が起きていることに安堵し、近くの地面に黒林檎の山を下ろす。男はそれをじっと見るばかりで、反応はしなかった。ミァンは気にせずそのうちの一つを手に取り、男に差し出す。


「食べてよ。お腹減ってるんでしょ」


 男は差し出された黒林檎に目を向けるが、手はぴくりとも動かない。

 数分、そのまま時が流れた。ミァンはじれったくなり、つい言い放つ。


「あなたが食べないなら、私が食べる!」


 お腹が減っているのはミァンも同じだった。

 ミァンが手に持った黒林檎を一口かじると、男の目が光った。男はミァンの手首を掴み引き寄せたかと思うと、彼女が口にした黒林檎を反対側からかじった。ミァンは驚き、思わず実を落としそうになる。

 男は咀嚼するにつれ、表情を和らげていった。

 その変化を見て、ミァンは男が警戒していたことを知る。黒い林檎が人間にとっては珍しい物だということを、この時のミァンは知らなかった。見ず知らずの相手から、得体のしれない物を差し出されたのだ。当然、男も警戒する。ミァンが最初に口にしたことで、ひとまず安全だと考えたのだろう。

 まるで野生動物のようだ、とミァンは思った。ぎらぎらとした目や、隙を見せそうにない身のこなしが。全身から発せられる、人を寄せ付けないようにしている空気が。

 食べかけの黒林檎を男に渡し、ミァンは彼の隣に座った。

 男は一つ目を食べ終えると、すぐに二つ目を手にした。やはり腹が減っていたのだ。

 ミァンも黒林檎の山から一つ拝借し、ゆっくりと食べ始める。


「なんでこんなところに倒れていたの?」


 食べながら、ミァンは聞く。男は食べるのに忙しそうで、答えなかった。


「迷宮に挑戦しにきた冒険者とか?」


 男はわずかに眉を動かした。目だけを動かし、ミァンを見る。


「……迷宮?」

「この森の名物みたいなものよ。迷宮に入る前の段階で倒れているようじゃ、中に入っても一日ももたないだろうけど」


 言葉が返ってきたことに、ミァンは安心する。ミァンは男に興味を持ち、どんどんと質問を投げかける。同じ人間と話をするのは、初めてかもしれなかった。


「ねえ、名前はなんていうの?」

「ハイドグ」


 素っ気ない答え方だが、ミァンは気にしない。


「わ、私は――」


 自分も名乗ろうと口を開きかけた時、それをハイドグが遮った。


「テ――あー、君は、迷子かなにかか?」


 途中で口調を取り繕い、ハイドグはミァンに問いかける。

 こんな森に、少女がいるのは不自然だ。さっさと黒林檎を調達してきたところを見ると迷子という線は薄いが、聞かずにはいられなかった。場合によっては、と懐のナイフを意識する。

 ミァンはきょとんとして言った。


「ううん、違うよ」


 三個目の黒林檎を手にし、ハイドグは考える。この少女は使えるのか否か。少なくとも、今殺してしまうのは惜しい気がしてきた。仮にも、自分を助けてくれた相手だ。ある程度の慈悲を持って接するべきだろう。

 もっとも、この男の慈悲など、歪んでいるに決まっているのだが。


「この森には、魔族がいるという話を聞いたんだが」

「魔、族……か」


 ミァンは悲しそうな顔を見せた。しかし、すぐにそれを振り払う。


「違う、魔族じゃない。ここに住んでいる人達は皆、良い人だもの」

「…………」

「あなたも実際に会ってみれば分かるよ。下半身が蛇だったり、牛の頭をもった大男だったり、最初は自分とは違う姿にびっくりするかもしれないけど――!」


 ハイドグが眉をひそめていることに気がつき、ミァンは途中で言葉を止める。

 いきなりこんなことを言われても、相手は訳が分からないだろう。フィスファールとの約束を実現したくて焦っていた自分を、ミァンは反省する。

 ハイドグの目に警戒の色が帯びてきていた。


「……いや、それは遠慮しておこう」


 予想通りの答えに、ミァンは落胆することもできない。

 ハイドグは興味深げにミァンを見た。仕事のためではなく、個人的な興味のために、彼はミァンのことを探る。


「君は人間か?」

「人間よ! もちろん」


 ミァンは力強く答える。


「人間の君がなぜ、魔族を庇う? なぜ、魔族と親しくしているんだ?」

「私の家族だからよ」


 予想外の答えに、ハイドグは目を見開いた。


「私を助けて、私を大事にしてくれた人達だから」


 ハイドグは無意識のうちに、黒林檎を持つ手に力を込めていた。

 少女の陰りのない瞳が、憎く思えた。と同時に、愉快にも思えた。己の境遇を呪い、少女の数奇な運命を嘲笑う。

 自然と、仮面が剥がれる。


「家族? 家族だとぉ? あはは、これは傑作だなあ。君は魔族に愛されたのか?」

「そ、そうよ」

「あはははは、いいねえ、実に羨ましい。羨ましくて涙が出てくる! 魔族でさえ人間のガキを愛せるというのに、俺は――」


 なぜ人間の親に愛されなかった? という言葉はなんとか呑みこむことができた。これを口に出してしまえば、自分の中で何かが崩壊する気がした。自分は愛されていた、と暗示をかけているからだ。“あの表情”こそが人を愛す時の顔なのだ、と思い込ませているからだ。

 憎しみに固執する彼の心中は、矛盾に満ちている。


「あ、あの、街まで送っていこうか?」


 ミァンは気圧されながら、控えめに申し出る。目頭を押さえていた手をどけると、ハイドグは微笑んだ。


「そうしてくれると、ありがたい」


 ミァンは毒のない笑みを返し、ハイドグの手を掴んだ。




 土産に持っていって、と手渡された黒林檎を弄びながら、ハイドグは街を歩く。ミァンは街が見える場所まで彼を案内すると、すぐに森に引き返していった。彼女が森で暮らしているのは、間違いなさそうだ。

 おそらく少女の気遣いであるそれを、ハイドグは口に運ぶ。黒林檎は主食にしてもいい、と思えるぐらい美味かった。

 森に棲む魔族の調査をしに来たはずが、思わぬ出会いをしてしまい、ハイドグの頭の中は少女のことしか考えられなくなっていた。

 あの毒気のない表情を崩したい、と心の底から思った。あの子から生まれた憎悪を、全て自分が受け止めたい、と願った。自分に与えられなかったものを持っている少女が恨めしいからではない。これは、ある種の好意なのだ。

 愛憎が入り混じり、ハイドグも自身の感情がよく分からない。

 少女が道案内のために掴んだ自分の手を見つめ、ハイドグは考える。聖女に癒された時に感じた奇妙な温かみとは、また違った温もりを感じた。今思えば、道案内のために手をつなぐ必要性はない気がする。

 これも、少女の心遣いだろうか。

 上の空で歩いていたため、ハイドグは自分が呼び止められていることに気付かなかった。衛兵の持つ槍を突き付けられ、ハイドグはようやく足を止める。


「その男がうちの商品を盗んだんだよ!」


 赤ら顔の男が、二人の衛兵に向かって唾を飛ばしながら言った。

 ハイドグは不可解な表情を作る。


「はあ? 言いがかりは止めろよ、オッサン」

「しらばっくれるな! じゃあ、その手に持っているのはなんだ!」


 ハイドグは手に持っている物に目を向け、わずかに顔をひきつらせた。

 林檎の色がいつの間にか、黒から赤に変わっていた。手癖の悪さが発動したらしい。おそらく、自分でも気付かないうちに露店の果物屋から盗っていたのだろう。道理で、途中から味が平凡になったと思った。


「悪いな。考え事してたんだ」

「考え事してると盗みを働くのか……お前は」


 衛兵の一人が呆れて言う。


「育ちが悪いもんで」


 盗んだ林檎もすでにかじってしまっている。これでは返しても商品にはならないだろう。そう考え、ハイドグは平然とまた林檎を一口かじった。赤ら顔の男に見せつけるように、豪快に。

 赤ら顔の男が激怒したところで、ハイドグは衛兵に肩を掴まれた。


「犯した罪は償わないとね?」


 それを聞き、ハイドグは命がいくつあっても足りないだろうな、と自覚する。数え切れないほどの余罪があるのだから。

 ハイドグは頭を働かせる。力づくで逃亡してもいいのだが、ことを荒げたくない。森の魔族についてほとんど調べることができていないため、まだこの付近を離れるわけにはいかないのだ。

 森のことを考えていると、ハイドグはふと思いついた。


「まあ、それはいいんだけどさあ。衛兵さん、一つ気になることがあるんだよ」

「ん?」

「あっちの森に女の子がいたんだよねえ。俺はそのことが気掛かりで気掛かりで……つい、盗みを。あそこは魔族が棲んでいるんだろう?」


 盗人の言葉に耳を傾けるなど、馬鹿な衛兵もいたものだ、とハイドグは内心で嘲る。所詮は田舎国家の衛兵か、と。

 ハイドグの証言に、衛兵たちは彼の予想以上の反応を見せた。

 互いに顔を見合わせ、青ざめる。次の瞬間、ハイドグの肩を掴んだ衛兵が、彼を引き寄せた。その力の強さに、ハイドグは思わず顔をしかめる。


「お前、出身はどこだ? いつからこの国にいる?」

「は、はあ? 出身はトムセロだよ。この国には、今日来たばかりさ」


 衛兵は神妙な顔で頷く。


「なるほど。この国の王女については何も知らない、そういうわけだな?」

「王女?」


 ハイドグが困惑した表情で聞き返すと、衛兵は確信を持ったようだ。


「よし、お前を連行する」


 ハイドグが慌てて何か言おうとしても、それ以上のことは城で聞く、と頑なに言われてしまい、どうしようもなかった。




 ノーテル王国の王、ローランド・セーデルンドは慌てた様子で、城の長い長い廊下を歩いていた。その後を同じく慌ただしく追うのは、王の弟であり宰相であるヘンリク・セーデルンドだ。


「陛下! 陛下、お待ちください! 王である貴方が、あんな卑しい者と直接会うなど、許されないことです! 尋問でも拷問でも、何をしてでも吐かせますから、貴方はどうか大人しくしていてください!」

「私は、直接確かめたいのだ。それに、尋問も拷問も必要ない。確かめる簡単な方法があるからな。だから、あの者をあそこに呼んだのだ」

「兄上!」


 ヘンリクが止めるのも聞かず、ローランドは謁見の間の扉を開く。

 そこには、二人の衛兵に挟まれたハイドグがいた。衛兵は王に対して敬礼をする。しかし、ハイドグはそんなことをお構いなしに、謁見の間に飾られた大きな肖像画を前に固まっていた。

 黒髪に、灰色の目を持った、美しい女性。


「森で見た少女にそっくりだ……」


 肖像画に描かれた女性の方が、森にいた少女よりも年齢は上だろうが。あの少女が大人になったら、こういう女性になるのではないか、と容易に想像できた。

 ローランドはハイドグのそばに立つ。彼はハイドグの言葉に、興奮を覚えていた。

 王が開けっ放しにした扉を閉めたヘンリクは、その扉にもたれて気を失いそうになる。


「亡き王妃、ビルギッタ・セーデルンドの肖像画だ」


 ハイドグは動揺する。


「王妃? じゃあ、あの子は――」

「私の子だ。間違いない。姫は、ビルギッタは、生きていたのだ!」


 ローランドはその場でくずおれそうになった。それを、衛兵が抱きかかえる。

 ハイドグは王の叫びに混乱したようだ。


「ビルギッタ? っていうのは、王妃の名前だろう?」

「王妃と王女は、同じ名前を持っているのですよ」


 衛兵の一人がそう答えた。

 ローランドはこの国の事情を、ハイドグに話した。魔族が王妃を殺したこと、そしてまだ赤子であった姫さえも魔族にさらわれてしまったこと。周りの者は皆、姫は死んだと言ったが自分だけは諦めなかった、と涙ぐみながら語った。

 ハイドグはその説明に違和感を覚える。森で幸福そうにしていた少女と、目の前にいる辛気臭い王、どちらが本当のことを言っているのか。あるいは、どちらも真実なのか。

 そんな詳しい説明をする必要はない、とヘンリクはハイドグを睨む。


「陛下、このような賊の言うことを真に受けるのですか?」


 ローランドが何か言う前に、ハイドグが唸った。


「テメェ、俺が嘘を言っているっていうのかぁ?」


 ハイドグに睨み返され、ヘンリクは言葉に詰まる。ヘンリクの睨みとは迫力が違う。その場でたじたじとする宰相を鼻で笑い、ハイドグはローランドに向かって言う。


「気に食わねえからな、もう一つ、良いことを教えておいてやる」

「お前、陛下に向かってなんていう口を――」

「王女を奪還するために森を襲撃するならな、教国に協力を要請しろ。魔族討伐の専門家だ。喜んで手を貸してくれるだろう。ついでに言っておくと、一応、教国が俺の身分を保証してくれると思うぜ?」


 ヘンリクは絶句する。


「お前、聖職者なのか?」

「俺がそんなふうに見えるなら、テメェの目は腐り落ちてんな」


 ヘンリクの顔が歪んだのを見て、ハイドグは楽しそうに笑う。

 ローランドはよろよろと立ち上がると、棚に近付き、飾られていた杯の一つを手に取ってハイドグにそれを押しつけた。王家の紋章が刻まれた、金の杯だ。ハイドグは面食らう。


「せめてものお礼だ。――この男を釈放しろ」


 お釣りが出るくらいの謝礼に、ハイドグは何も言えなかった。この田舎国家はお人好しで構成されているらしい。ただ一人を除いて。

 憎々しげにハイドグを睨むヘンリク。その顔にちらつく野心に、ハイドグは笑みを浮かべる。こんな田舎国家でも、やはり王の座は美味しいらしい、と。


 無事に釈放されたハイドグは、国を去る前に一度、森に目を向ける。森の調査は必要なくなった。現地の人間の方が、この森については詳しいだろう。ノーテル王国が教国に協力を要請すると決めた今、わざわざ一人で調査を続けるのも馬鹿げている。


「お礼ねえ。こんな紋章があっては、売れるもんも売れねえな」


 ローランド王に押しつけられた金の杯を眺め、ハイドグは呟く。

 これがただの金の杯であったなら、まだ売りようがあったのだが。別の使い道を探そう、とハイドグは杯を懐にしまう。

 考えるのは、少女のことだ。

 愛する魔族達が人間に殺されれば、彼女は憎しみを抱くだろうか。その原因が助けた男にあると知った時、彼女はその憎しみを向けてくれるだろうか。


「考えるだけで楽しくなってくるなあ。あはは」


 ぜひ、その変化をこの目で見届けたいが、すぐにここには異端審問官がやってくる。


「あいつらに会うのはごめんだな……」


 運命の巡り合わせによっては、また少女に会うこともあるだろう。そう思い、ハイドグは森に背を向ける。

 自身の撒いた種が、いずれ自身を刈り取るとは知らずに。



 *****


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