5.母は偉大なり
親玉であるアラクネは、ミァン達をじっと見つめる。彼女の背後で、たくさんの小さなアラクネも視線を向けていた。
不気味な目に見つめられ、ミァンは全身の毛を逆立てる。対して、メェメェは落ち着いたものだ。逆にアラクネを、無遠慮な程じろじろ見ている。
獲物の観察をし終えたのか、アラクネが口を開いた。口元から小さな牙がのぞく。
「子らよ、これはご飯ではありません。そうですね?」
問いは、こちらに向けられたものらしい。ミァンは固まったままだったので、メェメェが代わりに口をきく。
「なぜ分かった? ……って言うのも変だな。なぜ、そう判断した?」
「雪女が連絡を寄こしていた。まさか人間が来るとは思わなかったが。あなた達から雪の匂いがする。こんな時期に雪を降らせることが出来るのは、あの女ぐらい。このことから、判断した」
雪の匂いって何だ、とメェメェは首を傾げながらも、行く前にリッカが魔法で雪を降らしていたことを思い出す。まさか、彼女はこのことを予測していたのだろうか。
あのボケ参謀が? と呟くメェメェ。
「ま、そういうことなら、話は早い。えーと、名前はなんて言うんだ?」
「マザー・アウトローチェ。マザーと呼んで」
「マザー、俺たちに力を貸してくれ」
マザー・アウトローチェは八つの眼を細めた。
「ママの世界はこの山の中だけ。ママの世界では、ママが頂点なの。他人の命令は聞かない」
気が昂っているらしく、先ほどまでの冷静な口調が崩れていく。マザーの静かな怒りが、子供たちにも伝染してゆく。
あちこちで、脚を動かすかさかさという音がした。
メェメェは耳障りな音に耳をそらす。
「命令じゃなくて頼みなんだがな……」
「同じことなの。戦争に参加すれば、子供たちが死に逝くことになる。まず第一、アラクネ一族が戦争に参加する理由が見いだせないの。平野に住む人間たちの地を奪ったら、分け与える? 必要ないの。アラクネ達の住む場所は山、ここで充分。他の亜人たちは食糧難に陥ったから、平野に侵攻することにしたと聞いたの。ママ達はそんな心配はない。ここは食糧豊富だから。困窮する亜人たちを助けると思って? なぜ、赤の他人に力を貸す必要があるの。ママの力は子供達のためだけに発揮される。助けたとして、なにが返ってくると言うの? もとはいがみ合っていた連中が寄せ集まっただけの軍隊が勝利を得たとして、ママ達にはなんの見返りがある? 申し訳ないけど、赤の他人を助けるために、子供達に血を流させるのは御免なの」
メェメェは真摯に聞いていた。途中、何度も頷いていた。
一気にまくしたてたマザーは、肩で息をしている。
「確かに、お前さんの言う通りだと思う。じゃあ、俺たちは――」
帰ろうか。と、メェメェが言おうとしたのを感知し、ミァンはたてがみを引っ張った。メェメェが目を丸くして、彼女を見る。
リッカは相手が嫌がる場合、無理強いする必要はないと言っていた。だが、事前にリッカが連絡を寄こしていたこと、マザーの様子や口ぶりからして、誘いは何度も行なっていたはずだ。
それはつまり、彼女が是が非でも欲しい人材であるということ。現在の状況を見ても分かる、マザーの統率力は人一倍優れている。子供達に慕われているのだ。マザーが戦え、と命令したら子供達は嬉々として戦争に参加するだろう。彼女がそれを命令する気は毛頭ないだろうが。
ミァンはメェメェの耳元でささやく。
「最初の任務で、功績を上げるってすごく大事なことだと思う」
「お、お前さん、結構ずぶといな」
最初は無機質に見えた目が怖かったが、マザーの言い分を聞いて印象が変わったのだ。今は、その目が子供達に愛情の眼差しを向けるのだと分かる。八つの眼で毎日成長する子供たちを見て、喜んでいるに違いない。
感情があるなら、説得することだって可能なはずだ。
「あなたの言い分はよく分かりました。けど、私たちも手ぶらで帰るわけにはいきません。しばらくの間、あなたのそばに居させてください」
マザーがミァンに目を向ける。やはり、感情を読み取ることは出来ない。
「慕われるリーダーがどういうものか、分かるかもしれないから……。それと、これは個人的なことですが。母親の温もりが、懐かしくて。あなたを見ていたら思い出してしまったの、姿は全然違うけど。だから、もう少しだけ、一緒に――」
「よろしい、なの」
マザーがふ、と眼力を緩めた。
「名前はなんていうの?」
「ミァン。で、こっちは、通称メェメェ」
「おい」
メェメェが抗議の声を上げる。
「ついてきなさいな」
そう言って、マザーは来た道を戻り始める。
メェメェは唖然とその後ろ姿を眺める。マザーの後を、子供達がぞろぞろついていく。ミァンもその中に混ざった。メェメェは少し遅れて、走ってきた。
「お前さん、よくまあペラペラと言うもんだな」
呆れている。だが、ミァンは嘘を言ったつもりはなかった。母親のことが懐かしくなったのは本当だ。マザーのことをもう少し知りたい、と思ったのも。
「嘘じゃないから」
「ふん。ということは、お前さんはまだガキだってことじゃないか。俺様の言った通り」
「そうかもしれない」
ミァンは素直にそう言った。まだ甘えたい年頃なのかも、と。
アラクネ達の住処に着いたミァンは、陽が暮れるまでアラクネの子供たちの遊び相手をした。身体こそミァンと同じぐらいの大きさがあるが、年齢はだいぶ年下であることが彼女達の言動や行動から分かる。
マザーが餌ではない、と判断すると、子供達はミァンのことを獲物としてではなく姉として慕ってきた。マザーの影響力は甚大だ。もし、あの場で発言を間違えて、敵とみなされていたら、と考えるとゾッとする。
アラクネの子供達はお尻から出した糸を木の枝に引っ掛けてブランコを作ったり、綱渡りをしたり、と器用に遊ぶ。遊び道具は主に、自分の糸で作り出すもの。あやとりを一緒にしたのはいいが、ミァンの手はベタベタになってしまった。
これが影響しているかどうかは分からないが、山の木々はほとんど糸で巻かれている。木と木の間は枝の数より、かけられた糸の本数の方が多い。
子供達がきゃっきゃっと遊んでいるのを、メェメェは離れたところで退屈そうに見ていた。
子供たちが遊び疲れて眠ると、ミァン達はマザーから夕食にお呼ばれした。
した……は、いいが。
「虫はちょっと……」
「俺も無理……」
招待された席で言うのも失礼だが、食べられないものは食べられない。
食事は、虫だった。一応、生ではなく調理されているようだが、それが余計に吐き気を催す惨状だった。素揚げなどはまだいい。潰された虫の体液によるスープなど、色がまず食欲をそそられない。しかも、潰し切れていなくて虫の頭がスープから覗いている。
マザーは申し訳なさそうに言う。
「ごめんなさいなの。今日はこれしかないの」
「私のことをご飯呼ばわりしていたから、てっきり肉食なのかと……あ、虫も一応肉食に入るか」
「普段は虫を食べるの。動物の肉は贅沢品。つまり、ごちそう」
メェメェが諦めたように首を振る。口をつける気には到底なれないようだ。
「食い物探しに行くか」
「夜の間は止めておいた方がいいの。山は道に迷いやすいし、それに最近、麓の方では変な人間がうろついているみたい。朝になるまで待った方がいいの」
「じゃあ、空腹を紛らわすためにさっさと寝よう」
メェメェが立ち上がる。ミァンは疑問を口にした。
「メェメェは草を食べればいいんでしょ? 草なら、その辺に生えてるけど」
「糸がへばりついてベタベタな草を食べろって? 冗談じゃない。舌が肥えた俺様を満足させるような草はここにはない」
そういえば今朝、メェメェはわざわざ高原まで出向いて食事をしていたのだった。草は家であるテントの外にも嫌というほど生えているというのに。メェメェに言わせれば、人が踏んだような草は嫌だ、といったところだろうか。
ミァンに草の味の違いなど分からないが、心外だ、と憮然とした顔をするメェメェにとりあえず謝っておいた。
会話を聞きながら、マザーはもしゃもしゃと食事を取っている。
「娘にハンモックを作らせてあげる。ミァンちゃんはそこで寝るといいの」
ミァン達が食事を取らなかったことに、気分を害した様子はない。ある程度は予想していたのだろう。ミァンは礼を言う途中、あることに気付いた。
「目、閉じてるんだ」
マザーは八つの眼のうち六つを閉じていた。上から二つ目の位置にある一対の眼だけを開けている。ちょうど、人間の眼があるぐらいの位置だ。
「あなたが怖がっているようだったから」
マザーは残る二つの眼を使って、ウインクをした。
眼を閉じていると、顔に線状の刺青が入っているようにしか見えない。
「ははは……、気を使わせてごめんなさい」
「いいの。ゆっくり休んでね」
マザーが合図すると、アラクネの娘の一人が歩み出てきて、ミァン達のことを寝床まで案内した。
*****
「俺さぁ、朝から林檎しか食べてないんだよねえ。でも正直、この光景を見ただけでお腹いっぱい。俺にとっては何をも――いや、黒林檎の次に勝るごちそう、ってわけ。テメェらには分かるぅ? この感覚」
痩せぎすの若い男が幸福そうな表情を浮かべて、手下たちに問う。
夜の暗闇の中、大きすぎる焚き火が男たちの顔を照らす。男の背後に立ち並ぶ手下達は、たじろぎ、何も答えなかった。
麓にある小さな集落が一つ、燃えていた。火を放ったのは、もちろん、この男たち。盗賊を生業にしている、ならず者ども。命令したのは、痩せぎすの若い男。“盗賊”なんていう名称では収まりきらないほどの悪党であり、盗賊たちを率いるリーダー。
「ハイドグさん、偏った食生活してるから、そんな痩せてるんじゃあ……」
手下の一人がぼそりと呟くと、ハイドグがぎろりとその者を睨む。
「聞こえてんぞお、そこぉ!」
「ひいっ、すいやせん!」
ハイドグはふと表情を和らげ、近付いてくる。背に嫌な汗が流れ落ち、手下は思わず後ずさった。
「いいさ、そんな謝らなくたって。俺のこと、心配してくれたんだろ? どうだ? テメェが俺の脂肪の一部になる、ってのは」
「は……?」
「あははは! そんな強張るなよ。冗談冗談。俺がかわいい手下を食べるわけないだろぉ? 不味そうだし。最高のディナーは――ああ、もうお出ましだ。あそこにあるもんなあ?」
手下の肩を抱き、顎を掴んで、燃える集落の方へ無理やり顔を向かせる。
燃え、崩れ落ちていく家の中から、すすだらけの人間が転がり出てきた。突然の火事に、集落の人間たちは怯え逃げ惑っている。住人の数自体は多くない。
「今夜は焼き肉かぁ」
「じょ、冗談ですよね? ハイドグさん……?」
顎を掴まれたまま、手下が不自由そうに喋る。ハイドグは手下をちらりと見やり、笑みを浮かべる。
「ん? もちろん、冗談に決まってるだろ。なんだぁ、本気にしちゃったのかあ? 相変わらず、テメェらはお馬鹿ばっかりだな。――ほら、行くぞ。テメェらの大好きな金の匂いがする。しけた田舎だと思ってたが、結構ため込んでそうだぜ」
ハイドグが手下を放し、ナイフを手に、悠々と集落の方へ歩いていく。手下たちも武器を構え、後に続く。
ハイドグは冗談だ、と笑ったが、手下たちには冗談だとは思えなかった。この男が人肉を食べたとして、それは驚くべきことじゃない。いや、もうすでに食べたことがあったとしても、だ。
ハイドグは金品のために村を襲っているわけではなかった。もっと別の目的のためだ。それは手下たちには理解できない事柄だった。だが、この男は金の匂いを嗅ぎつける。彼についていけば、おこぼれにあずかれるのだ。金に興味のないハイドグは手下たちに気前よく、戦利品を分け与える。
利用する、という建前で彼の下にいるのだ、と手下たちは自分を納得させる。彼はそんなふうに扱えるようなものじゃないというのに。つまり、手下たちは無謀であり、ハイドグの言う通り、馬鹿だった。
途中、ハイドグが倒れた娘の襟首を掴み、引きずりながら連れていく。娘が苦しそうな声を上げたが、それは無視された。
集落の人間が彼らに気付く。
「お前ら、盗賊か!」
「ご明察。要求は分かりますよね? さっさと戴けますか? あと、この娘の親はどこに?」
ハイドグが丁寧な言葉を話し始めたら、それは前触れだということを、手下たちはよく知っていた。
ハイドグは娘の喉元にナイフをあてる。
すると、一人の男がよろけながら進み出てきた。
「わ、私だ。金目のものなら全部くれてやる。だから、その子は、その子だけは、助けてやってくれ。なんなら、私を人質の代わりにしたっていい。だから――」
「へ、えぇ? そう、なん、だぁ?」
ハイドグの口角が残酷に吊り上がる。
男に見せつけるよう、ハイドグは娘の首筋をべろりと舐める。娘の喉がひくついた。男の顔に嫌悪感が浮かぶ。
男の反応を楽しげに見つめた後、ハイドグは躊躇なく、娘の喉にあてたナイフを横に引いた。ちょうど、自分が舐めた後を辿るように。
掻っ切られた喉から血が噴き出す。娘は地面に力なく倒れる。もがくように、自身の首に手を当てる娘。しかし、血の勢いは止まらない。徐々に、血だまりが広がっていく。
地面を這いずる娘を、ハイドグは歪んだ笑みと共に見下ろしていた。その顔にも、娘の血がかかっている。
「お、お前――!」
男の顔が憎悪に歪んだ。こぶしを握り、ハイドグを睨みつける。本当ならば、倒れた娘にすぐにでも駆けつけるべきなのに。
「ああ、いいね。いいねええぇ! テメェのその顔、俺に向けてるんだよな? その憎悪は俺に向けられたものだよな? なあ、そうだと言えよ。そうだと言え! 俺のせいで、俺のおかげで、俺のためにさぁ! テメェはそんなにも顔を歪ませてるんだろ? た、まんねええぇぇ! テメェの憎しみの原因は俺なんだ。俺がその感情を作ったんだ! あ、ははは、あはははははは!」
集落の人間のみならず手下までもが、狂気的に笑うハイドグを引いて見る。
ただ一人、男だけが変わらず憎悪に燃える目を向けていた。ハイドグはその感情を煽ったのだった。
興奮さめやらないハイドグが、追い打ちをかける。
「娘だけは助けてくれぇ? あっはは、ばーか!! 誰一人助けるものか。誰一人逃がすものか。恨みや呪いは運命に向けてくれ、だが憎しみは俺のものだ。憎しみだけは俺に向けろ! 俺がテメェらの流した血を杯にすくい、飲み干してやる! テメェら全員、皆殺しだ!」
懐から杯を取り出し掲げ、ハイドグはそう叫んだ。