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デュラハンの弟子  作者: 鴉山 九郎
【第3章 恋は人を変えるのか】
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36.愛の芽生え

 淫魔は愛を理解してはいるが、それを知ることはない。

 昔、彼らのことをそう称する者がいた。その感情を利用するために、淫魔は愛を理解する。けれど、彼ら自身がそんな感情を持つことはない、と。

 大方の淫魔は、この言葉に頷くだろう。ライラックもそうだった。

 親の愛さえ嘲笑う。

 そんな淫魔が恋をしたら、それはきっと異常なのだ。仲間内からは奇異の目を向けられ、病人扱いされるかもしれない。

 恋の病、という言葉があるとライラックが知ったのは、つい最近のことで。そして、彼がその病にかかったのは、魔王が現れる少し前のことだった。




 ライラックは常に朝帰りだった。その日も、朝焼けと同時に館に戻り、同じく早朝には館に戻ってくるはずのサキュバス達を待っていた。

 彼女達はそれからしばらくして、土産話を持って帰ってきた。


「ハートホーン家に、数年ぶりにユニコーンに認められる女が現れたらしいぞ」


 ベラドンナはそう切り出した。

 ユニコーンはハートホーン家の象徴だ。しかし、その乗り手は、滅多に現れるものではない。ハートホーン家の血筋、というだけではユニコーンが乗り手を認めないからだ。

 賢獣ユニコーン。彼らは純潔の乙女を好む。身の汚れを知らぬ女、そして、その心も清く美しい者。身も心も潔白でなければ、彼らの背に乗ることは許されない。

 ライラックは興味をそそられる。その性質上、仕方ないのだが、彼はユニコーンに近付くことさえできない。


「清廉潔白な乙女、か。ぜひ、お目にかかりたいね」


 淫魔にしてみれば、そんな乙女が実際に存在するとは信じられない。空想上の世界にしか存在しない、幻の生き物だ。


「……ダチュラは見てきた」

「角派筆頭の娘だってさっ」

「名前はオリヴィア。見たところ、ライさまと近い年齢だと思われます」


 サキュバス達はすでに、その噂の人物を見てきたようだ。

 筆頭の娘、と聞いてライラックは思案する。面白いことを考えついた顔で、彼はサキュバス達に提案した。


「賭けをしないか」

「どんな?」


 サキュバス達は身を乗り出す。日常のちょっとしたことでも、彼らは賭けの対象にする。それは娯楽の少ない淫魔達の、暇つぶしのようなものだった。賭ける物はなんだっていいのだ。ただ、その時に騒げるものであれば。

 ライラックは意地悪そうな笑みを浮かべる。


「その女と、俺が、夢の中で交わったとしたら。次の日、ユニコーンは女を背に乗せるかどうか」


 今回の賭けは、夢、というところがポイントだった。なにも生身で交わるわけではない。しかし、それすらも潔癖なユニコーンは許さないのか。そこに注目したのだ。

 それで女がユニコーンに認められなくなったとしても、彼らは悪気を感じないだろう。淫魔とは、そういう生き物なのだ。


「……面白そう」

「乗せないに、一票。あの変態馬は、どんな些細なことも許さないだろうよ」


 ベラドンナが意見を述べると、他のサキュバス達もそれに続いた。


「……乗せる、と思う。所詮……夢は、夢……」

「あたしも乗せる方ねっ。ていうかっ、そこまで気にしてたら引くっ!」

「迂闊に淫夢も見ることができないとは、乙女も大変です。私は、お姉さまと同意見で」


 見事に、意見が二つに割れた。

 サキュバス達の注目が、ライラックに集まる。彼はどちらに賭けるのか、と。


「純潔の乙女なのだろう? 真面目な女が、そんな夢を見たら、自分からユニコーンに乗ることを拒否するんじゃないか」


 賭けをしようと言い出したのは、ライラックだ。乗せるか、乗せないか、その二択だと思っていたサキュバス達には、彼の選択肢が卑怯に思える。まさか、乗らない、という選択肢もあったなんて。

 サキュバス達の不満を感じ取ったのか、ライラックは軽快に笑う。


「もしかしたら、恥ずかしさで死んじまうかもな。それはそれで面白いと思わないか?」

「まあ、ねえ」


 マンネリ化してきた賭けよりも、たしかにそちらの方が面白そうだ。淫夢を見たから死にたくなりました、なんて傑作ではないか。そんな光景を見たら、しばらく笑いが収まらないかもしれない。

 とにかく楽しいことを起こしてくれ、とサキュバス達はライラックに期待のこもった目を向けた。




 その日の夜、ライラックはさっそく、噂の女の夢に忍び込んだ。夢をより現実らしく見せるために、ライラックは細工をする。彼女の部屋をそのまま、夢の中に再現したのだ。

 夢の世界で寝ている彼女を、起こすことから始めよう。と、ライラックはベッドに近付いた。肩に手をかけ、軽く揺さぶる。

 女――オリヴィアはすぐに目を覚ました。といっても、夢の中なのだが。

 彼女は寝ぼけたように辺りを見回した後、ライラックに気付いて目を丸くした。そういった反応は珍しいものではなかった。たいていの女は、起きてすぐ、目の前に理想の男性がいることに驚く。


「あんたは……何?」


 誰、ではなく、何。質問の仕方がおかしい、と気付いた時、ライラックは彼女以上に驚いて、飛び退った。

 自身の姿が、変化していなかった。相手の理想の姿になるよう術をかけておいたのに、だ。

 今までなかったことに遭遇し、ライラックは混乱する。人間ごときに、本当の姿を見られてしまった。内心で肝を冷やしながら、ライラックは人間の男の姿へと変わる。しかし、それが彼女の気に入る姿かどうかは定かではない。

 不細工でないことは保証するが。


「はぁ、ふーん、なるほどね」


 ライラックの一連の行動を見て、オリヴィアは察しがついたようだった。実際に見たことはなかったが、話には聞いていた。


「インキュバスの本当の姿を見ちゃった、ってとこかしら?」


 なぜ術が通じなかったのか、そればかりを考えていたライラックは、彼女の言葉にハッとする。術が効かない相手は、淫魔の天敵だ。

 長居は無用だった。

 ライラックはじりじりと後退して、彼女から距離をとる。オリヴィアは彼をじっと見るばかりで、動こうとしなかった。彼女が一瞬目を離した隙に、ライラックは夢から逃走する。


「あれ? なんだったんだろう」


 残されたオリヴィアはしばらく首を傾げていたが、そのうちに眠くなったのか、あくびをしてベッドの上に寝転んだ。それが夢だと気付かないまま、彼女は二度寝した。


 館に逃げ帰ったライラックは、サキュバス達に出迎えられる。彼女達は結果を心待ちにしていた。

 ライラックは何と言ったものか、と悩んだが、けっきょく本当のことを言った。


「誘惑、できなかった」


 サキュバス達はきょとん、としてすぐには理解できなかったようだ。


「えっ、まさかの大穴っ!?」


 サフランがそう叫んでやっと、サキュバス達に衝撃が走った。彼が落とせなかった女など、今まで存在しなかった。かなりのやり手であるライラックを拒めるほど、純潔の乙女とはすごい存在なのか、と彼女達は恐れおののく。幻の生き物どころではない、伝説級だ。

 それは、ライラックも同じだった。術の効かない人間など、恐怖でしかない。だが、彼には怖いもの見たさのような感情があった。




 ライラックは次の日も、オリヴィアのもとを訪れた。今度はちゃんと、姿が変わっていることを確認してから、彼女を起こす。

 リベンジをするつもりでいたのだ。聖職者でもないただの女に、淫魔が負けるなど、あってはならない。何が何でも、彼女を落とそうと躍起になっていた。ライラックは負けず嫌いだった。

 ライラックが昨日とは違う姿をしていても、オリヴィアはすぐに彼だと気付いたようだ。二日連続で夢に現れたインキュバスに驚き、彼女はおもむろにベッドから起き上がる。そして、そこを明け渡した。なんのつもりだ、といぶかしむライラックに、彼女はこう言った。


「これ、私の夢だから。私がもてなさないといけないのかな、って」


 その日には、オリヴィアはここが夢であることにも気付いていた。どこまでもライラックの期待を裏切らない女。彼は、ますます彼女に興味を持った。

 ベッドに座るのは負けた気がするので、遠慮したが。

 それからというもの、ライラックは毎夜のように彼女の夢を訪ねるようになった。目的は、どうやったら彼女を落とせるか、に変わっていた。

 ある夜、こんなことがあった。

 オリヴィアの心が読めないこともあって、ライラックは彼女自身に、男性の好みを聞いたのだ。


「えー、好み? 少なくとも、今のあんたの姿は好きじゃないから」


 淫魔としてのプライドを傷付けられるような台詞だった。


「じゃあ、どういうのだ。僕がその通りに変化してやろうじゃないか」

「あ、ほんと? じゃあね、髪はもう少し短めで――」


 それから、彼女の細かい要求が二十ほど送られる。細部に渡るまで、徹底的に口出しされた。だが、その方がありがたい。ここはどうするべきが、と迷う必要がなかった。


「――で、髪は紫色がいい」


 最後に、彼女はそう言った。

 ライラックは何の疑問も持つことなく、その通りにした。すると、髪の色が変わったとたん、オリヴィアは吹き出す。

 からかわれた、と気付いたライラックは憤慨して、その姿をさっさと崩そうとする。それを、オリヴィアがさえぎった。


「待って待って。せっかくの傑作が台無しになっちゃう。髪の色以外はわりと本気で言ったから。……でも、本当に紫にするとは――ぷっ」


 よほどツボに入ったのか、失礼にも彼女は肩を震わせて笑い出す。口に手を当てて、笑い声をかみ殺していたため、無礼だとは自覚しているようだ。

 ライラックは憮然と、彼女が笑い終わるまで待っていた。オリヴィアは笑いすぎて涙を浮かべた目で、彼のことをちらりと見た。また笑いの発作が起きそうになる。


「似合ってるよ、それ」

「はあ?」

「なんていうか、あんた、お人好しだよね」


 人の言うことを疑いもせずに聞いて、笑われている。淫魔としてどうなのだろう。今まで聞いてきた淫魔の像とは、少しずれている。

 その頃にはオリヴィアもまた、彼に興味を持つようになっていた。

 ライラックは敗北感に肩を落とす。そして、愚痴をこぼした。


「なんで、僕の術が効かないんだ。実はすごく信仰心が厚いのか? 僕とこうして話している時点で、その可能性は低そうだけど」

「あー、術って、理想の男性像が云々ってやつ?」


 オリヴィアは申し訳なさそうに、頭をかいた。思い当たる節は、ある。


「そもそも、男に理想を抱いてない、っていうか」


 その答えに、ライラックは呆ける。


「ほら、ハートホーン家って女系だから。身近にいる男って、父親ぐらいなんだよね。で、それはお母さんの尻に敷かれてる」


 下手な男よりも男らしい角派の女。タネが分かれば、それは幻でも伝説でもなかった。ようは、オリヴィアだけでなく、他の角派の女でも、こういう結果になったかもしれなかったのだ。

 ライラックは脱力して、その場にへたりこむ。


「なんだよ、それ。勝ち目ないじゃん」


 今まで、ライラックは街に出向いて食事をしていた。町娘や人妻で済ませていたのだ。だから、軍人の女に近寄る機会など、なかった。

 彼よりも早く、サキュバス達が情報を仕入れてきたのもこういうわけだった。彼女達は反対に、戦場にいる男達から食事を取っている。

 オリヴィアは、自信をなくして落ち込むライラックに、同じ土俵で戦おう、と持ちかけた。


「淫魔は、賭け事が好きだったわよね?」

「好きというか、それしかやることがないというか」


 それでも、オリヴィアよりは賭けの経験が豊富だろう。


「じゃあ、賭けをしようか」


 ライラックは顔を上げる。オリヴィアは楽しそうに笑っていた。


「現実の世界で会って、私があんたを見破れるか、なんてどうかしら」


 これまでずっと、二人は夢の中で会話をしてきた。いくら現実と似せていようが、ここは夢。ふわふわとした世界で、実体はない。

 それをあえてオリヴィアは、現実の世界で会おう、と提案したのだ。


「明日の正午、街で。あそこは人が多いけど、私はあんたを見つけだしてみせるから」

「できるわけがない。僕はどんな姿にだってなれるんだ。こんな目立つような格好はしないよ」


 親切にも、こんな奇抜な髪色のままではいない、とライラックは言う。それでも、オリヴィアは自信満々だった。


「賭けは成立よ」


 明日、楽しみにしてる、と言ってから彼女はベッドに潜り込んだ。まずは夢から覚めないといけない。そのためには、夢の中で寝る必要があった。

 ライラックは彼女を起こさないようにして、夢から抜け出る。




 ライラックは約束通り、昼には街にいた。どこにいろ、とは指定されていない。彼は適当に街をぶらついていた。

 本当は、行かない、という選択肢もあったのではないか、と思う。そうしたら、彼女は絶対に自分のことを見つけられない。でも、それは勝負からの逃げであるように思えた。

 オリヴィアが彼のことをお人好しと称したのは、こんなところに起因するかもしれない。

 ライラックはどこにでもいそうな、冴えない男に化けていた。普段はいわゆる格好良い男性の姿でいることが多いため、ある意味で新鮮だ。

 醜い男に化けることも考えたが、それはそれで、わざとらしい気がしてやめた。それに、彼自身の美的感覚がそれを許さなかった。

 太陽が高く昇っている。オリヴィアは今、どこにいるのだろう。すれ違っていても気付かない可能性はあったが、そもそもすれ違わない可能性だってあるのではないか。彼女はそこのところをどう考えていたのだろう。

 今更ながら、穴だらけな条件の賭けに、ライラックは下りたくなる。

 その時だった。彼は後ろから声をかけられた。


「よっ、ライラック。どうだ、私の勝ち」


 振り返ると、普段着姿のオリヴィアがいて、ライラックは文字通り固まってしまった。

 言葉を出せないでいる彼を、オリヴィアはじろじろと見る。


「しっかし、冴えない男だね。昨日の夜のさ、あの姿になってよ。あ、別にあれが好きってわけでもないけど」


 これが本物の彼だから良いものの、オリヴィアは随分と失礼な言い方をする。彼女は自分が間違っている可能性を、微塵も考えていなかった。


「な、ど、どうして? なんで分かった?」


 言いながら、ライラックは姿を変化させた。人が多いところで、こんなことをしては危険だということも忘れるほど、彼は動揺していた。幸い、その瞬間をオリヴィア以外には見られなかったが。

 ライラックはオリヴィアの要望通り、昨夜の紫髪の男の姿になる。たくさんの注文をつけられて作り上げた、力作。


「愛のなせるわざ」

「あ、愛?」


 なんだその稚拙な言葉は、とライラックは素っ頓狂な声を出す。

 彼の反応が面白かったのか、オリヴィアは悪乗りする。


「そう。愛し合う二人はどこにいても、必ず巡り合う」


 ライラックがその場から逃げだそうとしたところで、オリヴィアは笑いながら言った。


「嘘嘘。そんな関係じゃないから、勘違いしないで」


 オリヴィアはすぐに本当のことを告げる。


「匂いよ。あんたが夢に現れた夜の次の朝は、私の部屋中に良い香りが漂っているの。知らなかった? 私はそれを探しただけ」

「匂い……?」


 たしかに、淫魔は体臭さえも自在に変える。しかし、彼女がそれを良い香りと称したことに、疑問を覚えた。色香はオリヴィアの好みというわけだ。なのに、彼女は正気を保っている。


「賭けは私が勝ったわけだけど、何を奢ってもらおう。久しぶりの休日だし、何か美味しいもの食べたいんだけど」


 もちろん、敗者であるライラックに拒否権はない。それに、お金を消費することぐらい、なんでもなかった。人間世界でのみ通用する金など、淫魔には何の価値もない。




 それから徐々に、二人は夢の世界よりも現実の世界で会う機会の方が増えていった。その頃には、ただ一緒に過ごすことだけが目的になっていた。

 好意ではなく興味。そんな言い訳も通用しなくなるほど、ライラックがオリヴィアと会う時間は長くなる。双方ともに、生活における互いの存在が比重になっていた。

 彼らはなんとなく、愛だの恋だの、そういった話題は避けていた。この感情がなんなのか、二人とも分かっていなかったのだ。いや、分かってはいた。けれど、それが勘違いであることを恐れた。

 ライラックは愛を知らない。そして、オリヴィアは恋を知らなかった。

 相手が相手であるだけに、互いに慎重になっていた。四六時中、相手のことを考えてしまうのが恋なのか。相手の笑顔を見た時に、心が暖かくなるのが愛おしいと思う感情なのか。

 二人は根が真面目であるだけに、この感情に真剣に向き合おうとしていた。

 ライラックが、勉強と称して人間が書いた恋愛小説を買ってきた時には、サキュバス達もさすがに不安を覚えた。それまで彼女達は、ライラックが、うぶな人間の女をからかって遊んでいるだけだと思っていた。

 このまま放っておいても、良い結果にはならないような気がして。サキュバス達はライラックを説得しようかどうか迷った。できれば、自分で気付いてほしかったのだ。これが恋愛と言っていいものなら、決してハッピーエンドにはならないことを。小説とは違う、ということを。

 それが決定的に表れたのは、ライラックが人間の食べ物を口にしようとした時だ。

 彼は、街でパンを買ってきて、館でそれを食べようと挑戦していた。

 サキュバス達がはらはらと見守る中、ライラックは恐る恐るパンを一口、口にする。慣れない味に眉をひそめながらも、彼はそれを飲み込もうとした。

 しかし、それは出来ず。彼はせき込みながら、口に入れた物をすべて吐き出してしまった。

 ベラドンナが慌てて、彼の背中をさする。

 淫魔の身体は、固形物が食べられるようには出来ていなかった。生気という曖昧なものを食べる淫魔に、実体のある食べ物を吸収できる臓器はない。土台、無理な話だったのだ。

 ライラックはベラドンナの手を払いのけ、ふらふらと立ち上がる。いらいらと髪をかきむしり、ライラックは物に当たった。テーブルの足を蹴る力はひどく弱々しい。


「ライ、最近、食事をしていないのか」


 ライラックが衰弱しているのを感じ取って、ベラドンナは厳しく言う。ライラックは目を背けて、答えない。


「その様子だと、していないな。なぜだ、あの人間の女が原因か? 人間の食い物を口にしようとしたのも、それが理由なのか?」


 ライラックとベラドンナの間に、ぎすぎすとした空気が流れる。他のサキュバス達はベラドンナの味方をしたかったが、直接、彼に物言うことを恐れて、彼女の影に隠れている。


「ああ、していないよ。それがなんだっていうんだ」

「そんな無様な姿を見せられて、黙っていろというのは無理な話だ。なぜ、そんなことをする」

「……彼女と同じ物を食べて、ただ一緒に美味しいね、とか感想を言い合いたいだけだよ。感覚の共有をしたいんだ! 料理屋に入った時、周りのカップルが羨ましいよ! なぜ、そんな簡単なこともできない!? なぜ僕は! あんな卑しい方法でしか食事をできないんだ! 他の女と寝た身体で、オリヴィアにどんな顔をして会ったらいい? 好きでもなんでもない女とは関係を持って、オリヴィアには指一本だって触れられない! 僕の汚れた身体で、彼女も汚すわけにはいかないからだ!」


 ベラドンナ以外のサキュバス達は、どん引きしていた。これほど重症だとは思っていなかった。


「僕は禁欲する。人間にできるんだ、僕にだって出来ないわけが――」

「い、いえ、無理ですよ。ライさま」

「それっ、イコール断食だよねっ!?」

「……ライさま、死んじゃう」


 とんでもないことを言いだしたライラックに、サキュバス達は慌てる。

 ベラドンナだけは表情を変えずに、彼に近付いた。


「それは、人間の考え方だ」


 反論しようと口を開きかけたライラックの胸ぐらをつかみ、ベラドンナは、彼を自分の方へ引き寄せる。そして、口付けをした。

 とっさに拒否しようと、ライラックは腕を突き出す。その手首を、ベラドンナはがっしりと掴んで、離さなかった。普段なら男であるライラックの方が、力が強い。けれど、食事もろくに取っていない彼が相手ならば、ベラドンナも簡単に押さえつけることができた。

 数秒間、彼らはそのままでいた。サキュバス達はその光景を見て、色めき立つ。珍しい光景だからだ。

 ライラックは始終もがいていたが、けっきょく最後まで抜け出すことはできなかった。唇から口を離したベラドンナは、ライラックの腕を解放し、彼を突き飛ばした。意表を突かれた彼は、受け身の体勢もとれずに床に倒れる。

 その上に、ベラドンナが馬乗りになった。ライラックは彼女がしようとしていることに気付いて、青ざめる。


「ベラ、やめろ」


 彼の弱々しい声に、ベラドンナは軽蔑の視線を投げた。


「空腹でイライラしているのだろう。腹が膨れたら、少しはまともな考え方ができるようになる」


 先ほどの口付けで、生気の受け渡しをおこなったのだ。しかし、それでは足らないらしい、と気付いたベラドンナは、それ以上のことをしようとしている。


「さっきので、冷静になれたよ。だから、そこを――」

「冷静になれたなら、このまま続けた方が得策だと分かるだろう。今のライには、私を押しのける力もないのだからな」


 突破口はないか、とライラックは辺りに目を走らせる。その慌てた様子に、ベラドンナはため息をついた。


「人間の女との恋愛は、百歩譲ってよしとしよう。だがな、ライが人間に合わせる必要はあるのか。向こうだって、ライが淫魔であることは百も承知のはずだろう。種が違うなら、互いに譲歩するべき――歩み寄るべきではないか」


 ライラックは首を横に振った。


「彼女が僕にそれを求めているわけじゃない。僕が、僕自身を許せないんだ」


 ライラックの目は、真剣だった。これでは、何を言っても無駄だろう。

 ベラドンナはライラックの頬を撫でる。彼は、泣いていた。涙を拭ってやったのだ。


「僕は、なんで淫魔なんだ。僕は……人間に生まれたかった」


 ベラドンナはふ、と笑う。


「ライは昔からそうだ。感情が高まると、すぐ泣く」


 腐れ縁の馴染みだ。最後まで付き合ってやろうじゃないか、とベラドンナは心を決める。妹分たちも道連れだ。ある意味、これは自分達がオリヴィアの情報を彼の耳に入れたことが発端なのだから。


「ライの心は分かった。だが、このままでは、死ぬぞ。餓死なんて、この世で一番嫌な死に方だ」

「結局、説得しようとするんだ」

「ふん。ライが人間に手を出す必要はない。私達が、これまで以上に生気をかき集めて、ライに分けてやる。サキュバスが四人もいるんだし、一人ぐらい養えるだろう」


 勝手に数に入れられていたダチュラ、サフラン、ナツメグは驚く。だが、誰一人として嫌だとは言わなかった。

 ライラックは微妙な表情だ。


「それって、結局やることは変わらないんじゃ……」

「大丈夫っ、あたし達は人間じゃないしっ。サキュバスはノーカンだって!」

「そうですよ、これもダメだって言うなら、ライさま、本当に死んでしまいますよ?」


 サキュバス達は、本気で自分のことを心配している。それが分かったライラックは、渋々ながら頷いた。


「ライさま……これから、ヒモだね……」


 ダチュラの言葉は、ライラックの胸に突き刺さったが。




 淫魔であることを卑下していたライラックが、救われたのはそれから幾日も経っていない日だった。

 街を離れて人の少ない丘で話そうと、オリヴィアが提案したので、二人はここまで歩いてきた。素肌に当たる風が心地よい丘の上で、ライラックは思わず翼を広げる。思いっきり伸びをしたいような、気持ちの良い陽気だった。

 人目を気にしなくていい場所で、翼と尻尾を丸出しにするライラック。オリヴィアはじっ、とその人間にはない部位を見つめていた。


「ねえ、お願いがあるんだけど」

「何?」


 オリヴィアはライラックに迫った。彼は思わず、のけぞる。


「私を抱きあげて、空を飛んでくれない?」


 それをお願いするために、わざわざ人のいない丘まで来たようだ。ライラックは躊躇した。それは、彼女の身体に触れることになる。


「別に、嫌なら嫌って言ってくれてもいいけど」


 全然、いいとは思っていない口調で、オリヴィアは口を尖らせる。

 ライラックは困った。サキュバス達のおかげで体力は大分戻っていたため、出来ないわけではなかった。


「君が、嫌じゃないのか」

「……? なんで?」

「その、淫魔なんかに身体を触れさせるなんて」


 オリヴィアはぷっ、と吹き出した。ライラックの真剣な表情がおかしかった。


「たしか、純潔の乙女の噂を聞いて、私に会いに来たんだっけ。あんたがどれだけ私のことを神聖視しているか知らないけど、私は普通の女の子だから」


 言ってから、オリヴィアは首を振った。


「ううん、普通以下の女の子だわ。恋の一つも知らなかったんだから」


 彼が触れられないというなら、こちらから触れてしまえばいい、とオリヴィアはライラックの手を握った。ライラックは目を見開く。彼のためらいは、払拭されてしまう。

 お願いの一つも聞けない男など、男ではない。

 ライラックは両翼を大きく広げた。そして、オリヴィアの背中と膝の裏に手を回す。いわゆる、お姫さま抱っこだ。

 オリヴィアはライラックの首に手を回す。

 今までにない顔の近さに、ライラックの頬は火照る。それは、オリヴィアも同じだった。だが、互いに目を合わせることができなくて。そのことは気付かれなかった。

 ライラックは翼を羽ばたかせながら、地を蹴って跳んだ。風に乗り、二人は飛ぶ。落とすことを恐れてか、彼はそれほど高い場所まではいかなかった。それでも、景色の見え方は全然違う。太陽が近くなり、街が遠くに小さく見える。

 丘には、ライラックの大きな翼の影が落ちていた。聖職者が見たら、不吉だと思うかもしれない。蝙蝠のような翼の影。

 オリヴィアは空からの景色をたっぷり堪能してから、地面に下ろしてもらった。ライラックは着地するとすぐに、息を切らして丘に倒れ込んだ。


「そんなに、居心地はよくなかっただろ」


 翼が風を切る音がすぐそばでして、かなり揺れる安定しない飛行。ライラックはオリヴィアの期待に応えられたかどうか、不安だった。


「もう最っ高なんだから!」


 翼を広げて丘に寝転がるライラックのそばに、オリヴィアは座った。休憩中の彼を労うように、彼女はライラックの額にはりついた前髪を払う。


「キスしようか」


 何の脈略もない発言に、ライラックはせき込む。高揚感が、彼女をだめにしてしまったかもしれない。ライラックはオリヴィアを落ち着かせようとする。


「僕は淫魔だ。口付けなんかしてみろ、君の生気を、奪ってしまう」

「私のせいで食事を制限しているなら、それでもいいけど。いっそ、私を食べたら?」


 ライラックは、オリヴィア本人にそのことを話していなかった。だが、彼女は気付いていたようだ。

 ライラックは起き上がり、オリヴィアから少し距離を取る。


「奪われた生気は戻らない。軽率に、そんなことを言うものじゃない」

「……そう」


 ライラックが気遣っていることは分かる。だから、オリヴィアはそれを尊重するために、引き下がった。

 ライラックは申し訳なさそうにしていた。


「ごめん、期待に応えられなくて。僕が、人間だったら……」

「何言ってるの! ライラックが人間だったら、翼が生えてないじゃない。空のデートもできないじゃない」


 オリヴィアはライラックの目を真っ直ぐ見つめる。


「私は、インキュバスのライラックが好きなんだから! そんなこと、言わないで」


 ライラックは言葉を失った。それでも、オリヴィアには彼の思っていることが分かる。心が読めるようになったわけではない、目に見えるのだ。

 ライラックの尻尾が、ハート型を作っている。

 ライラックは自覚なしにやっているようだが、オリヴィアは彼のそんなところも好きだった。もし彼が人間なら、この可愛らしい尻尾までなくなってしまう。そんなのはごめんだ。




 魔王が現れる前の、一時の平和。

 淫魔は、愛を知らないわけではなかった。ただ、それは、知ってはならないものだった。

 愛とは、獲物を引っかけるための罠であり、道具でしかない。そうでないと、淫魔自身が罠にかかってしまう。

 愛を知った淫魔は、生きていけない。

 食事も喉に通らない恋の病。ライラックは、そんな不治の病にかかってしまったのだ。


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