34.各々の激昂
ミァンは剣の柄を握り締め、屋敷から飛び出した。気が付いたら、部屋の中はもぬけの殻だった。
幻惑魔法により見せられた光景を思い出し、ミァンは唇を噛みしめる。こんな状況でなければ、懐かしさを感じたかもしれない。幼馴染と、森を駆け巡った日々。そんな和やかな記憶も、今は、ミァンの怒りを倍増させる結果にしかならなかった。
幻惑が見せる光景は、術者が指定する場合もあるが、今回はそうではなかった。ライラックは思いがけず、火に油を注いでしまったのだ。
屋敷の外で待っていたメェメェに、ミァンは走り寄る。
「ライラックは! どこに行った?」
「俺は見てないぞ」
「裏口から出たのか」
ミァンの表情が、以前ラヌート山で見たものとよく似ていて、メェメェは身を固める。この反応は、ライラックが黒だということを明確に表していた。
この前のように勝手に一人で走っていってもらっては困る。メェメェは彼女に、背中に乗るよう促した。ミァンは剣を持ったまま、彼の背に乗る。角を掴んだ片手には力がこもっていた。
「血が流れているはず。それを辿って、メェメェ」
「説明はしてくれよ?」
「そんなこと、あいつを追いながらでもできる! 急いで」
有無を言わせない語調に、メェメェは従うしかなかった。まず屋敷の裏口を見つけることから始めなければならない。
小娘のどこにこんな気迫が隠れているのか、メェメェは常々疑問に思っていた。
血痕は点々と、淫魔達が住む館まで続いていた。山に戻ったということは、一緒にいた人間達とは途中で別れたのかもしれない。
メェメェはミァンを乗せたまま、館の扉を蹴破る。するといきなり、むせかえるような甘い香りが漂ってきた。館に充満する色香が戻っている。
ミァンは胸をむかむかさせながら、術者を探す。この前のような失態をおかさないためにも、鬱陶しい霧を払いのけたかった。メェメェの背から滑り降り、ミァンは忌々しそうに剣を一閃する。すると、その空間だけ、はっきりとした景色が戻る。
左の方で、息をのむ音が聞こえた。
ミァンは迷いなく、そのかすかな気配に、剣を向ける。霧のぼんやりとした景色の向こうに、サキュバス達がいることが分かった。彼女達は身を寄せて、ミァンに対抗しようとしている。
霧の中、サキュバス達の眼光がきらめく。
「彼女たちは何も知りません。――その剣は、僕に向けろ」
白い軍服を身にまとったライラックが、二階から階段を下りてくるところだった。その手には、細身の白刃がある。切られた翼はそのままで、今も血が垂れ落ちていた。
サキュバス達は、ライラックの発言にぽかんと口を開いた。彼女達が反論する前に、ミァンは言われた通り、ライラックに向き直る。
「そういうことにしておく」
背後で、サキュバス達がさらに動揺する気配が伝わってくる。
ライラックは満足げな微笑を浮かべ、少しの間だけ頭を垂れた。その瞬間、霧が晴れる。甘い匂いも、だいぶ抑えられた。それが、彼の表した敬意だった。
ミァンは剣を構え、ライラックに向かって突進する。階段を駆け上がり、ミァンは踊り場で彼と打ち合う。
ライラックは剣を両手で持って、やっと彼女の攻撃に耐えていた。刃と刃がぶつかり合う際に、腕に伝わる痺れになれていないのか、彼は攻め込まれるたびに怯む。
戦闘は、お話にならなかった。サキュバス達が固唾を飲んで見守る中、ライラックの手から剣が弾き飛ぶ。剣は、階段を転がり落ちていった。
ミァンは息一つ乱していないのに、ライラックは肩で息をしている。手負いだから、という言い訳も通じないほど、彼は弱かった。
さすがのミァンも、この結果には拍子抜けする。
「なんで、剣で渡り合おうと思ったわけ? 魔法を使わずに」
「彼女にもっと、剣の稽古をつけてもらえば良かったな……」
ライラックはミァンの疑問には答えず、首を振る。そして、降参するように両手を上げた。
意外に諦めが良いライラックに、ミァンは剣を下ろす。彼に場の空気を乱されるのは、今に始まったことではなかった。
彼女が油断した瞬間を、ライラックは見逃さない。剣を下ろした隙に、彼はミァンに向かって走り、全身で彼女にぶつかった。完全に気を抜いていたミァンは、勢いのまま弾き飛ばされ、身体が手すりを乗り越える。
彼女は踊り場から落とされた。ライラックはそれを見届けないまま、二階に上がっていく。疲労しているのか、足取りはゆっくりとしたものだった。
離れていく天井。思わず手を伸ばすが、手すりに届くわけもなく。ミァンはいつも見る悪夢の光景を思い出してしまう。剣だけは、手放さなかった。
夢なら誰かが助けてくれる。だけど、これは現実。ミァンはぎゅっと目を瞑った。
「なにこの世の終わりみたいな顔してんだ、小娘」
想像していた衝撃とは違った。固い床ではなく、夢と似たような感触が、彼女を受け止めていた。
ミァンは恐る恐る目を開く。メェメェの広い背中の上だった。
「俺様に感謝しろよ」
ミァンはぼんやりとその背中を撫でる。
「……ありがと」
「ふふん」
メェメェはいつかの台詞を、実行してくれたのだ。
得意げな彼の背中の上で、ミァンは体勢を整える。角を掴み、ミァンはメェメェをせき立てた。
「ライラックを追わないと」
「降りないのか」
「ごめん、脚が震えてて」
恐怖によって強制的に冷静になったミァンは、か細い声でそう告げる。潜在的なトラウマが蘇ったことにより、彼女は相当な精神ダメージを負ったらしい。
ミァンの弱った声は、メェメェの心に火をつけた。
「この、糞野郎! インキュバスのくせに女を泣かせるとは、どういう了見だあぁ!」
「メ、メェメェ、私、別に泣いてな――」
ミァンの主張は最後まで言わせてもらえず、メェメェは階段を数段飛ばしで駆け上っていった。
階段をあっという間に上り終え、メェメェが二階に到達した時、ライラックはちょうど廊下の奥の部屋に消えるところだった。ミァン達が、この館に来て最初に入った部屋だ。
天蓋ベッドだけが堂々と置かれた部屋。
「いけない、あそこには転移陣がある!」
ミァンの焦った声に、メェメェは再び駆ける。真っ直ぐな廊下は、走るのにとても適していた。
ひるがえるベールがあれば、メェメェがそのまま突き破るベールもある。それらは、彼にとって何の障害にもならなかった。
奥の部屋に飛び込んだ時、ライラックはまだそこにいた。だが、片足が転移陣に入っている。もちろん、行き先はヨルムグル古城のものだ。
「待ちなさい!」
ライラックは肩越しに振り返ることもしなかった。彼の背中には、痛々しい翼の傷口がある。手には、先程の剣ではなく、三叉槍が握られていた。
メェメェが彼を転移陣から突き飛ばすより早く、ライラックは転移の呪文を唱える。
メェメェの角が、むなしく宙を切る。
ライラックはヨルムグル古城に転移してしまった。ミァン達もその後を追うべく、転移陣に入る。焦って舌を噛みそうになりながらも、ミァンは呪文を正確に唱え終えた。
ヨルムグル古城の、一階の大広間。ミァンが転移して最初に見た光景は、舞い上がった埃だ。床に積もっていた埃がふわふわと宙を漂い、まるで雪のようになっている。
それは、ライラックがこの大広間を駆け抜けた跡だった。舞い上がった埃の下には、赤い血が道しるべを残している。
メェメェはミァンを背に乗せたまま、血痕を追って大広間から出る。
ライラックは古城の外ではなく、上の階を目指したようだ。血痕はまっすぐ階段に向かっていた。曲がりくねった階段に、メェメェは四苦八苦しながらも、なんとか最上階にたどり着く。
ここは、ミァンもメェメェも来たことがない場所だった。
血痕は、階段を上ってすぐのところにある部屋まで続いていた。大きな両開きの扉は開け放たれており、部屋の中の様子を窺うのは容易だ。
メェメェは少し躊躇いつつも、その部屋に足を踏み入れる。
瞬間、正面から奇声が上がった。
ちょうど、ライラックがこの部屋の主に向かって、三叉槍を突き立てようとしているところだった。
ミァンと対峙した時とは比べものにならない覇気が、彼からあふれている。
助走をつけ跳んだのだろう。翼はすでに役目を果たさないのに、大きく広げられている。
玉座に身を据える者に、三叉槍の先が突き刺さる寸前。横から、ライラックを荒々しい吹雪が襲い、彼を吹き飛ばした。翼は凍りつき、ライラックは床に叩きつけられる。その拍子に、三叉槍も彼の手から離れた。
「よくやったの、ミァン」
リッカは尖った爪が生えた指先を、ライラックに向けたまま、控えめに賞賛した。
ミァンとメェメェは、この部屋で起こったことを、ただ傍観するしかなかった。褒められる筋合いはないはずだ、とミァンは首を横に振る。
「そちのおかげで、こやつの化けの皮が剥がれおったわ」
魔王の判断は正しかったようじゃ、とリッカはちらりと玉座に目を向ける。
ことの顛末を、そこに座ったまま見守っていたのは、我らが魔王。
その名に違わぬ、禍々しい空気を身にまとった男だった。顔にはいくつもの細かいしわが刻まれていたが、鋭い眼光と衰えていない体格が、男を年齢不詳に思わせる。
傷んだ髪の間からは、三本の角が生えていた。額から一本、耳の後ろから二本。すべて先は、正面を向いている。よく見ると、角にも細かいひび割れがある。
その姿を見ても、ミァンは魔王がいったい何の種族なのか、分からなかった。人間に角が生えたかのような、そんな見た目だった。
男は玉座から立ち上がる。床に倒れ伏すライラックに目を向けていたが、表情の変化はなく、なにを考えているのか、まるで読めない。
ライラックはうめき声を上げて、上体を起こす。彼は折れることなく、魔王を睨んでいた。
「くそがあぁっ! おまえさえ、オマエさえ現れなければ! この世界は平和だったんだ! どっから湧いてきやがった、このクソ虫が!」
そこには、優男の面影も、紳士の仮面も、ミァンに見せていた側面は何一つなかった。ライラックはただ本心から叫び、激昂していた。
ミァンやメェメェ、リッカのことは眼中にないようだった。同じ部屋にいながら、彼の意識には魔王しかいない。
リッカは呆れたように、冷たいため息を吐く。
「平和じゃと? そちの目は節穴か? 人間達は人間同士で争い、亜人は飢えに喘ぐ。これが、平和な世界? それともなんじゃ、そちの言う平和とは、淫魔にとっての平和か」
ライラックはぎろり、とリッカを睨む。瞳孔が縦に割れており、とてもではないが人間の形相には見えなかった。
彼の人に見せる姿が、感情の起伏により揺らいでいた。
「もしそうならば、今までのように日和見をしておれば良かったものを。蝙蝠め。なにをトチ狂ったのか、首を突っ込みおって」
ライラックは答えない。
血がにじむほど唇を噛みしめる彼に、魔王はかける言葉もないようだった。魔王は背を向け、部屋を立ち去ろうとする。魔王は一瞬だけ、ミァンを見た。彼女は魔王と目が合うが、やはりなにを思っているのか、さっぱり分からなかった。
魔王が去った部屋で、リッカは後始末をつけようとする。魔王がなにも言い残さなかった時は、彼女にすべてを任せる、という意味だ。
「ハハハ……笑える」
「なにが――」
ライラックの冷めた笑い声に、リッカは聞き返そうとした。しかし、言葉が途切れる。
リッカは普段から青白い顔を、さらに青ざめさせていた。
「天下の雪女様も、所詮は同じだってことに、だよ。笑えるね、まったく。はは、どいつもこいつも似たような思考しやがって」
ライラックは、姿を変化させていた。
長い黒髪を垂らす、精悍な顔つきの男。どちらかといえば小柄で、戦闘向きの身体ではない。
リッカは、この男の姿を知っているようだった。ただの幻覚だと分かっていても、身体が動かない。顔面を蒼白にしながら、リッカはライラックが化けた男を凝視していた。
「ふーん、こんな感じかな」
ライラックは、声音さえ変えてみせた。
「リッカ、あの時のことは俺が悪かった。だから、もう一度やり直そう。俺と御前なら、必ず良い家庭を――」
「だまれ。だまるのじゃ! 貴様はもう――!」
リッカは相手の空気に呑まれないよう、言葉を飲み込んだ。
唇を真一文字に引き締め、リッカは先程よりも威力の増した氷魔法を叩きつける。
ライラックは吹雪に吹き飛ばされ、今度は壁に激突する。瞬間、変化した姿が解け、ミァンが見慣れた紫髪の男に戻る。
ライラックはそのまま、気絶してしまった。翼と尻尾が、出しっぱなしになっている。
リッカは忌々しそうに、ライラックを見た。できれば近付きたくないようだった。
「殺さないのね」
「尋問しなければならん。判断はその後じゃ」
リッカはそう言ったものの、もうすでに心に決めているように見えた。
疲れたように、リッカはミァン達を振り返る。
「ここで見たことは、内密に、な。もちろん、魔王の素性についても、じゃ」
リッカは人差し指を唇にあて、ウインクした。いつものように茶目っ気を見せられても、それが冗談ではすまされないという確信がある。
外部には決して漏らさないと約束し、ミァンとメェメェは頷くしかなかった。




