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デュラハンの弟子  作者: 鴉山 九郎
【第3章 恋は人を変えるのか】
34/90

33.ライカンスロープの幼馴染

 *****



 フィスファールに『ミァン』と名付けられた人間の赤子は、森の皆に見守られながら、健やかに育つ。もう赤子ではなく幼女と呼ばれる時期だ。自分の足でしっかり歩くことができたし、言葉だって喋れるようになった。

 一人で行動できるようになると、ミァンは森のあちこちを探検した。そして帰ってきた時には、心配していたアプトラやフィスファールに怒られるのが日課になっていた。それを庇うのが、ミァンに対して甘いコルタウリだ。

 厳しくあっても、森に彼女を嫌う者はいない。ミァンは少しお転婆なだけの、素直な女の子だった。

 そんな彼女に、同年代の友達ができたのもこの時期。それは、ミァンよりも少し年上の男の子だった。ミァンがやがて森を離れる時が来るまで、彼は彼女と仲の良い幼馴染であり続けた。




 ライカンスロープの少年、ウルラートはいつものように自分の秘密基地へ向かうところだった。秘密基地、といっても大したものではない。森のちょっとした穴場で、子供が作った隠れ家だ。木の葉や枝をかき集めて屋根を作ったので、雨の日も安心して遊べる。

 母親に怒られた時など、彼はよくそこに逃げ込んでいた。

 その場所を、自分以外に知る者はいない、はずだった。

 ウルラートは秘密基地まで後少し、というところではたと立ち止まった。嗅ぎ慣れない匂いがしたのだ。人間よりも鼻が利くライカンスロープは、離れたところからでも相手を認識することができる。

 ウルラートは慎重に、足音を忍ばせて、近付いていった。狩りの要領と同じだ。ついこの間、父親に教わったことを、ウルラートはさっそく実践した。

 ウルラートの秘密基地を、女の子が覗いていた。入るのはためらっているのか、外から見ているだけだ。

 ウルラートはその子のことを、離れた場所から観察した。姿は二本足の時の自分とよく似ている、と思った。毛深くない手足、尖っていない耳と、突き出ていない口と鼻。尻尾もない。

 最初、ウルラートは彼女のことを仲間だと思った。自分と同じライカンスロープ。しかし、この森に自分の家族以外のライカンスロープがいるとは聞いたことがない。それに、匂いが自分達とは違った。

 その子をもっとよく見よう、と身を乗り出した時、ウルラートは枝を踏んで音を立ててしまった。狩りの初歩的な失敗だ。隣に彼の父親がいたら、頭を小突かれていただろう。

 しかし、相手は獲物ではない。逃げ出すことなく、彼女はウルラートを振り返った。

 慌てたのは、彼女ではなくウルラートの方だった。


「お、おまえ、おれの秘密基地にかってに入るなよ!」


 まず最初におこなったのは威嚇だ。幼いながらも、すでにウルラートは縄張りを守る意識があった。

 女の子は目を丸めて、後ずさる。


「わたしとおんなじ……」


 怖がったのではない、驚いたのだ。

 その言葉に、ウルラートは首を傾げた。やはり、彼女はライカンスロープなのだろうか。

 そう思っていると、彼女はそそくさと近付いてきて、彼の首に遠慮なく触れた。ウルラートはいきなりのことに、慌てて吠える。


「なんだよ、おまえ!」

「ごめんなさい。私とおんなじ人、はじめて見たから」


 彼女はウルラートの首から手を離し、自分の首に手を当てる。その顔が不思議そうだった。

 相手が何者か分からなかったが、こちらから名乗らなければ無礼にあたる。ウルラートは母親にそう教わっていたため、自分の方から名乗った。


「おれ、ウルラート。おまえ、だれだ」


 もっとも、無礼とは何か。ウルラートはよく分かっていなかったのだが。


「わたしはミァン。よろしくね」


 ミァンはにこりと笑った。

 その笑顔で、ウルラートは彼女が秘密基地を覗いたこと、出会い頭に首に手を当てたこと、すべてを許すことにした。そればかりか、自分の秘密基地に招き入れる気になった。


「入れよ」


 ウルラートはミァンの隣を通り過ぎ、秘密基地へと入っていった。ミァンはおずおずと彼についていく。

 中は二人分くらいの広さしかない。ウルラートが勝手に占拠していた小動物を追い払って、場所を作っている。小動物が逃げ出したところで、ミァンは木の葉のクッションに座った。クッションは一つしかなかったので、ウルラートは地面に座る。屋根はあっても、床はないのだ。

 彼は客人に対する礼儀も、母親にたたき込まれていた。

 こういう時は、茶やお菓子を出さなければならないのだ。しかし、当然こんなところにそんなものはない。

 ウルラートは、さっき追い払った小動物を狩っておけば良かったな、と思った。


「ねえ、あなたはなに?」


 黙り込んでいたウルラートの気を、ミァンが引く。ウルラートは彼女の問いの意味を考え、答えた。


「ライカンスロープ」


 ミァンはじっと彼のことを見る。

 彼女は自分と同じ姿をした者に、会ったことがなかった。母親であるアプトラは胸が大きく膨らんでいて、下半身は蛇だ。フィスファールは姿はよく似ているが、ミァンはあんな風に首を取り外したりはできない。コルタウリにいたっては、二本足であることぐらいしか共通点がなかった。

 だからミァンは、ウルラートを見た時にびっくりしたのだ。


「じゃあ、わたしもそうなのかな」

「……おまえ、変身する?」

「変身?」


 ウルラートは頷いて、立ち上がった。何をするのか、とミァンが瞬きを一回した時にはもう、そこに二本足で立つウルラートの姿はなく。茶色い毛並みの、子供の狼がいた。


「狼に変身できるか、おまえ」


 裂けた口から牙と舌を覗かせ、狼は喋った。少し低くなったものの、声音はウルラートのものだ。

 ミァンはどうやったら変身できるのだろう、と考えた。頭いっぱいに狼のことを思い浮かべてみたが、姿は変わらなかった。

 ミァンは諦めて首を振る。


「できない」

「なら、おまえはライカンスロープじゃない」


 ウルラートは人の姿に戻る。

 ミァンは残念そうに、うなだれた。


「そっかあ」

「おまえ、自分がなにか分かんないの?」

「うん」


 ミァンは力なく頷く。それを見て、ウルラートは彼女の手助けをしようと思い立った。困っている人は放っておけない。彼は、ミァンの手を取る。


「父ちゃんに聞いたら、なにか分かるかも。行こうぜ!」


 足の速い彼に連れられて、ミァンはこけそうになりながらも、必死についていった。




 ばたばたと駆けてくる足音が二つ。その騒がしい音のせいで、ゼブが狙っていた獲物は逃げ出してしまった。

 舌打ちをして、ゼブは狼から人の姿に変わる。

 この匂いは息子のものだ。毒蛇にでも遭遇して、逃げ帰ってきたのかもしれない。だが、夕飯を逃がした罪は重い。

 げんこつの一つでもくれてやろう、とゼブが思った時、息子以外の匂いを嗅ぎ取った。それは、彼の好物の――


「父ちゃん! 教えてほしいことがあるんだ!」


 息子のウルラートが連れてきたのは、人間の女の子だった。柔らかそうな肉が、ゼブの目にとまる。


「この子、ミァンっていうんだけど、自分がなにか分からないんだって。父ちゃん、なにか知ってる?」


 ゼブは髭を撫で、ミァンのことを観察する。すぐに、数年前、コルタウリが連れ帰ってきた子だと気付いた。ゼブは、赤子のミァンを抱いたこともある。

 しばらく見ないうちに、ずいぶんと大きくなったものだ。


「嬢ちゃん、アプトラんとこの子だな」

「わたしのこと知ってるの?」


 ミァンは目を丸める。ミァンは、ゼブのことを覚えていなかった。仕方ないだろう。ほんの赤ん坊の時に一度、会ったきりなのだから。

 ゼブはミァンと目線を合わせるために、しゃがんだ。


「嬢ちゃんは人間だ」

「にんげん?」


 ミァンは首を傾げる。隣で、ウルラートも同じことをしていた。

 ゼブが補足しようと口を開く。すると、ウルラートの質問責めにあった。


「にんげんってなに? なんで、おれらと姿がにてるの? 食べるものはいっしょ? おれ、ミァンと友達になっていい?」

「最後のは、父ちゃんより、その子自身に聞いた方がいいんじゃねえの」


 ウルラートは勢いよくミァンを振り返る。ミァンはよく分からないまま、頷いた。ウルラートは嬉しくなって、狼の姿に変わる。しきりに尻尾を振って、ミァンにじゃれついた。

 同年代の友達がいなかったのは、彼も同じなのだ。


「えーっと、人間ってなに、だったか。人間ってのは、今の大陸の支配者な」

「しはいしゃ?」


 難しい言葉に、ウルラートは尻尾を垂らした。


「一番強いってことだ」

「かっけー! ミァン、そんなすごいやつだったんだ!」


 ゼブの説明に、ミァンは違和感しか抱かなかった。自分が強いとは思えなかったからだ。

 アプトラも、コルタウリも、フィスファールも。ミァンより圧倒的に強いし怖い。怒られたら泣くしかなかった。

 ウルラートも感心しているが、彼だってミァンより優れている。変身できるし、足が速い。


「あと、姿が似ている理由か。これはな、ライカンスロープが、人間に似てんだよ。ライカンスロープの方が人間よりあとに生まれたからな」

「えー?」

「ライカンスロープと人間は、遠い親戚ってことだ」


 ライカンスロープは比較的、歴史の浅い種族だった。彼らの先祖は、人間と獣人のハーフだ。異なる人種の間に生まれた子供は、両方の特性を受け継いだ新種となった。

 人間の姿にもなれるし、獣人のような姿にもなれる。完全な獣になり、四つ足で地を駆けることだってできた。

 その成り立ちゆえに、今も昔も、彼らに対する風当たりは強い。人間と亜人が対立する世の中では、彼らは常に差別を受ける。

 そのため、ゼブの家族のように人里離れて、ひっそりと暮らす者が多かった。この森は、人間が滅多に近寄らない。ウルラートやミァンが、人間のことを知らないのも無理はなかった。


「食べるものは、まあ、一緒じゃねえかな。生肉は避けた方が良いが」


 ゼブはウルラートの質問に一通り答え終わって、一息つく。


「食べるものは同じなんだな! じゃあ、安心だ。いっしょに木苺食べに行こうぜ!」

「わたし、あれきらい。すっごくすっぱいもん。黒林檎の方があまくておいしいよ」

「ばかだなー、当たり外れがあるのがおもしろいんじゃん! 当たりはすっげー甘いぞ」


 木苺の遊びは、ゼブが教えたものだった。ウルラートのお気に入りだ。

 ウルラートがすごく楽しそうにその遊びを語ったので、ミァンも最初は渋っていたが興味を持った。彼女が一緒に行くと了承すると、ウルラートは狼の姿のまま飛び跳ねた。


「やったぜ! おまえ、足おそいから、おれが乗せてってやるよ」

「え? ちょ――」


 子供といっても、狼姿のウルラートの背中は、ミァンを余裕で乗せられるような大きさがあった。

 ミァンが返事をする前に、ウルラートは彼女を無理矢理背に乗せて、走り去っていった。目指すは木苺の茂みだ。

 彼らが去った後で、ゼブは息子を一発殴るのを忘れた、と気付いた。しかし、息子の今までにないはしゃぎようを見てしまっては、怒る気にもなれない。

 息子に友達ができた記念に、豪勢な夕飯でも捕まえるとしよう。そう思って、ゼブは再び狼に変身した。




 それからというもの、ミァンとウルラートは毎日のように会って遊ぶ仲になった。大人とばかり遊んでいたミァンが、同年代の子供と遊ぶようになり、アプトラ達も安心する。

 ただ、男の子の遊びは生傷が絶えないようなものばかりで。それに付き合っていたミァンも、毎日のようにすり傷だらけの、泥んこになって帰ってくるのだ。

 さすがに耐えかねたアプトラは、たまには女の子らしい遊びをしなさい、ミァンに言いつけた。

 そんなわけで、アプトラにお願いされたウルラートは、今日はミァンの遊びに付き合っている。


「ウルラート、王子さまの役やってよ」

「おれが王子? どうやんの」

「なんかね、白いお馬さんに乗ってるんだって」


 ただ、ミァンも女の子らしい遊びというのがどんなものか、よく分かっていなかった。彼女はアプトラに教えられた通り、ままごとをやっているに過ぎない。

 本当は木の葉の王冠なんてかなぐり捨てて、ウルラートと共に森の中を走り回りたかった。それをしないのは、アプトラを怒らせないためだ。一度我慢すれば、また、もとの遊びができるだろう。


「馬の役はだれ?」

「コルタウリを連れてこよっか」

「ミァンはなんの役なの?」

「わたしはお姫さまらしいよ」


 ミァンとウルラートは、なんだかんだで盛り上がっている。ただ、役を演じるというよりは、役にだれを当てはめるか、と考える方が楽しいようだ。

 そんな二人の様子を、フィスファールは少し離れた場所から見守っていた。木にもたれる彼の頭上で、鳥が羽ばたく。


「お姫さま“ごっこ”なんぞ、本当ならする必要もないのでしょうな」


 枝につかまったのは、一羽の真っ黒なカラス。サジュエルだ。

 思わせぶりな台詞に、フィスファールは手に持っていた頭だけを上に向ける。


「どういう意味だい」

「旦那も、薄々気付いていたのではありませんかな」


 サジュエルは子供たちに会話を聞かれないよう、声をひそめた。彼は黒い目をじっ、とフィスファールに向ける。いつもは楽しげに輝いている瞳が、暗い影を落としていた。


「なにか聞きつけたのだろうね、紳士」

「はい、それはもう。首無しの旦那」


 サジュエルはもったいぶるような真似はしなかった。普段の芝居がかった口調も、今はなりを潜めている。


「あの子は、この国の姫、なのでしょう?」


 情報屋である彼が、確信を持っていないのか、信じたくないのか、曖昧な言い方をする。フィスファールの口から、できれば否定の言葉を聞きたがっているような気配さえした。しかし、フィスファールはサジュエルの希望に沿う答えはできない。


「おそらく、そうなんだろうね」

「旦那も確信を持てないのですかな?」

「私は、母親である王妃が死んだ日に、腹の子も――姫も、一緒に死んだものとばかり」


 数年前、フィスファールはこの国の王妃に、血を浴びせた。死の宣告をしたのだ。王妃は腹に子を身籠っていた。


「王妃は、子の命と引き換えに死ぬ、という運命だったのでしょうな」


 デュラハンが死者を選別するわけではない。精霊の役割は、決められた運命に従って、物事を運ぶこと。彼は、死期が近付いている者に気付くことはできても、その死因までは分からない。

 くわえて、フィスファールが死を告げる相手は、高潔な者に限られていた。デュラハンに血濡れにされることは、ある意味で祝福と同義なのだ。


「姫の扱いはどうなっている。行方不明か?」

「大半の人間は死んだと思っているようですな。王だけが、姫は生きている、と信じておりやす。周りは、それを妄言だととらえる者ばかりですが」


 姫が生まれて間もなくして、王国は魔族駆除をうたって森に進撃した。それは王妃を“殺された”と思った王の復讐だった。

 デュラハンは勘違いされやすい。死と密接に関係している精霊は、すでに亜人と同じく魔族扱いをされていた。

 王国兵の襲撃を受けた森の住人達は、それを返り討ちにする。人目を逃れて生きているからといって、彼らは決して弱いわけではなかった。同じようなことを何回もされてはかなわないから、と森の住人達は人間の街まで進攻し、牽制したのだった。


「あっしらが人間を脅すために街に入ったあの日、姫は死んだとされておりやす」


 コルタウリが、ミァンを連れ帰ってきたその日。彼はなんと言っていたか。


「姫の存在を邪魔に思っている者が、城の中にいるのだね」

「亜人に――魔族に、責任を押し付けようとしたのでしょうな」


 姫の死体は見つかっていない。人間達がそれにも関らず、姫の死を確信しているのは、魔族が姫を食べたと考えているからだ。亜人に対する偏見は、時代を経るにつれて酷くなっている。魔族と呼ばれる亜人達には理性がない、と思われていた。

 城の中に、姫を殺そうとした人間がいることは確か。赤子を城の最上階から落としておいて、殺意がなかった、と言う者はいないだろう。その者は、死体の処理は魔族がやってくれる、と考えたのかもしれない。


「コルタウリの言う通りだった、というわけだね。城にいては、あの子の身は安全じゃない」


 フィスファールは険しい顔で言った。

 王には気の毒だが、身内の策略に気付けないような無能のもとには、ミァンを帰すことは出来ない。そう考えるまでに、フィスファールは彼女に対して愛着を持ってしまっていた。

 サジュエルも残念ながら、と同意する。


「真実を告げたとして、人間が“魔族”の言葉を信用するとは思えませんしな。皮肉ながら、森にいた方が安全を保障されている」


 ミァンとウルラートが戯れる姿を見て、サジュエルはため息をついた。

 彼女達には、今の会話を聞かれなかったようだ。知らないままでいた方が良いこともある、とサジュエルは考える。たとえいつか知る日が来ようとも、今はその時期ではない。

 情報屋サジュエルはこの会話を、そっと非売品リストにいれるのだった。




 その日、ウルラートとミァンは迷宮に入り込んでいた。森のさらに奥には、亜人ですら入ることの出来ない深淵の森がある。そこには、精霊だけが住む里があるのだ、と伝えられていた。

 迷宮は、ミァン達が住む森と、精霊の里があるという深淵の森の境界にあった。その名の通り、中は入り組んだ複雑な迷路になっている。この迷宮を攻略すれば、幻の精霊の里に行き着くことができると考えられていた。

 そんな無謀な挑戦をしに、今まで何人もの冒険者が訪れた。ただ行き着くことだけが望みの人間、精霊に救済を求めた亜人。彼らは皆、夢を夢のまま生を終えた。迷宮の中で息絶えたのだ。そこは簡単に攻略できるような場所ではなかった。

 大人たちに恐ろしい話をされようと、子供にとっては興味のそそる面白そうな場所でしかない。ウルラートとミァンは迷宮を遊び場にしよう、と入り込んだのだった。彼らは迷宮を、巨大な迷路、としか認識していない。当然、数多の冒険者のような覚悟など、持ち合わせてはいなかった。


「いりぐち、見えなくなったよ」

「おれたちは出口をさがしているんだ。後ろはふりかえるな!」


 ウルラートはかっこいい台詞を放って、胸を張る。彼が持つ松明だけが頼りだったため、ミァンはウルラートと手をつないでいた。

 自分たちに出来ないことはない、とその頃は思えた。精霊の里にだって、誰よりも早く到達することが出来る、と。冒険心は子供達を、迷宮の奥へ、奥へ、と誘う。

 どれだけ進んでも景色は代わり映えしない。傷一つない無機質な石の壁と、洞窟の中のような暗闇。これでは、同じ場所を通っていたとしても気付きようがない。

 いつまで経っても、どれだけ歩いても、出口らしきものには遭遇できず。ウルラートはしだいに外の光が恋しくなり、ミァンが不安を覚えた頃。彼らはついに立ち止まった。


「ねえ、もう出ようよ」


 いくら歩いたといっても、所詮は子供の足。実際は入り口から、そう離れていないかもしれない。

 ウルラートは未練がましく迷宮の暗闇を睨んだが、ミァンが疲れていると感じ取ると、引き返そう、と決心した。


「入り口まで、もどるか」


 彼らは手をつないだまま、進もうとしていた道に背を向ける。来た道を戻ればいいだけだ。行きと同じだけの時間がかかるなら、夕飯までには帰れるだろう。そんなふうに、ウルラートは甘く考えていた。

 しかし、そう簡単にはいかなかった。ここに来るまでに、迷宮にはいくつもの分岐があったのだ。適当に歩いてきた彼らは、帰り道が分からなくなってしまった。


「……まだつかないの?」

「お、おれがいるから大丈夫だよ」


 ミァンは早くも半べそになっている。ずっと歩きっぱなしで、足が重くなっていた。ウルラートは彼女に不安を与えないよう、無理に笑ってみせる。

 彼自身も、本当は不安に思っているにも関わらず。


「もう、お外に出られないの?」

「そ、そんなこと――」

「ずっと、ここにいなきゃいけないの?」


 潤んだ目で、ミァンはウルラートのことを見上げた。ウルラートは涙をこらえていた。唇を噛みしめ、年上として気丈に振る舞おうとしていた。

 しかし、それではミァンを誤魔化すことはできない。

 いつも元気なウルラートが泣きたくなるほどの状況にいる、と再確認したミァンは、ついに声を上げて泣き出してしまった。

 すると、ウルラートも我慢していた涙が流れ出てしまう。

 二人は手だけは離さないまま、その場で泣き続けた。迷宮の中で声が反響し、泣き声は何十に重なる。

 自分たちの泣き声のせいで、彼らは誰かが近付いてくる足音に気付かなかった。その巨体が二人の前に立ってようやく、彼らの涙により歪んだ視界でも、彼の姿を確認することができた。


「コルタウリ……?」


 ミノタウロスの青年、コルタウリが無言のまま、そこに立っていた。

 ミァンは涙を拭って、彼を見上げる。しゃくりあげながら、彼の名を呼んだが、コルタウリは答えなかった。

 ただ何も言わず、ミァンとウルラートを肩に担ぎ上げた。助けに来てくれたのだ、と気付いた子供たちはホッとして、また涙ぐむ。コルタウリはのしのしと歩いて、迷宮の入り口に戻り始める。その足取りに迷いはない。彼らは迷宮の外に出るまでずっと、すすり泣いていた。

 コルタウリは外に出ると、担いでいた二人を地面におろした。外はもう真っ暗闇だ。木々の葉の間から、星空が覗いている。

 コルタウリは先程から一言も喋っていない。ミァンは彼にお礼を言おうと近付いた。


「コルタウリ、ありが――」

「なんで、こんなことしたの! この場所は危険だ、ってあれほど言い聞かせたのに! もし、ぼくが気付いて助けに行かなかったら、今頃どうなっていたと思うの!?」


 普段、温厚なコルタウリの怒鳴り声に、子供たちは硬直した。彼が怒るほどのことだ。どれだけやってはいけないことをやってしまったのか、二人はようやく理解した。


「永遠に迷宮から出られなかったかもしれないんだよ!? ぼくが助けに行ったから、良かったけど……良かった。本当に。無事で」


 コルタウリの声の調子が、急にいつもと同じものに戻ると、子供たちはまた泣き出した。今度は謝りながらだ。

 夜中にこれほど大きな声を出されては、近所迷惑だろう。だが、二人はすでにお騒がせなことをやっていた。コルタウリの怒鳴り声と子供たちの泣き声は、森の皆にミァンとウルラートの無事を知らせた。

 コルタウリが迷宮の番人だと知ったのは、それから大分先のことで。ミァンはその時に改めて、コルタウリを見直したのだった。




 翌朝、フィスファールがミァンを訪ねた時、彼女は内心びくびくしていた。昨夜遅くまで、彼もミァンとウルラートの行方を捜索していたのだ。

 ウルラートは昨日のうちに、両親にこってり絞られたらしい。ミァンもアプトラにさんざん怒られた。そのうえ、フィスファールの説教がこれから始まりそうだ。

 もう充分反省している、と彼が口を開くよりも前に、ミァンは宣言したかった。


「ミァン、今日から君は私の弟子だ」


 しかし、フィスファールの第一声は、ミァンの予想していたものではなかった。


「私のことは師匠と呼びなさい」

「し、しょう……?」


 ミァンが初めて“師匠”と口にしたのは、そんな騒ぎがあった次の日のことだった。

 この日、彼女はデュラハンの弟子となった。



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