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デュラハンの弟子  作者: 鴉山 九郎
【第2章 欲望は底知れぬ】
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23.ラミアの慈愛

 *****



 亜人に救われた人間の赤子は、ラミアの母乳を飲み、すくすくと育っていった。アプトラは母親という立場を受け入れ、種族の垣根などやすやすと飛び越えて、その子を愛した。人間に殺された我が子の代わりではない。人間は憎いが、だからといって種族ごと嫌うのは間違っていると理解していた。今はまだ、自分にすがることでしか生きていけないか弱い命に、彼女は慈愛を持って接した。

 その姿に、かつて気性の荒さを恐れられたアプトラはいない。彼女は改めて、母親として生まれ変わったのだ。




 その子が、まだ森に来て幾日も経っていない頃。コルタウリはいつものようにアプトラのもとを訪れ、人間の赤子と遊んでいた。赤子はよく、コルタウリの顔を不思議そうにぺたぺたと触ってきた。コルタウリはすっかり赤子の虜になっていて、何をされても怒らない。それどころか、赤子が何か一つ動作するたびに、小さく短い歓声を上げる。

 そんな微笑ましい光景を見ながら、アプトラは難しそうな顔をして考え事をしていた。彼女は今、大問題に直面しているのだ。この難解な問題の答を出すために、頭をひねっている。

 何度か答えが浮かびそうになっても、結局それは沈んでしまう。それ以上に良い答えがあるように思えて、満足できない。

 ついに、アプトラは投げ出してしまった。


「ああ、もう、決まらないねえ!」

「なにが?」


 コルタウリが赤子を抱いて、アプトラを見る。アプトラは、自身の尻尾をいらいらと木の幹に叩きつけていた。赤子は目を丸めて、彼女の尻尾の動きを目で追っている。

 アプトラはコルタウリが抱く子を指差した。


「名前だよ、名前」


 言われて初めて、コルタウリは気付いたようだった。普段、名前がないこの子に自分はなんと呼び掛けていただろう、と彼は首を傾げながら言う。


「この子にも、名前があったのかな」


 コルタウリはいつも、可愛い子、と呼び掛けていた。本人も無意識のうちにそう呼んでいたらしい。

 人間がこの子につけていた名前など、彼らには知る由もない。だから、アプトラは新たに名前をつけようと奮闘していたのだ。せっかくなら可愛い名前が良い、縁起の良い名前が良い。この子の健やかな成長を願って。この子だけのための名前を。

 アプトラは亡くした子供の名前を、赤子に与えることだけはしなかった。それは、我が子にとっても、この子にとっても、好ましくない。アプトラはこの子を、我が子の代わりにはしないと決めたのだから。

 コルタウリも共に、赤子の名前を考え始める。しかし、彼はたいした戦力にはならなかった。自分達だけでは埒が明かない、そう思ったアプトラは地を這い始める。


「森の知恵を借りに行くよ」


 コルタウリにそう呼び掛け、彼女は彼のもとを目指した。




「それで、私のところに来たのか」


 森の知恵こと、デュラハンのフィスファールは赤子を見た。コルタウリに抱かれた赤子は彼の身体をよじ登ろうとしている。

 自身の頭を脇に抱え、フィスファールは首の側面を指でかいた。首の断面は平らで、骨や肉のようなグロテスクなものは一切見えない。ただ真っ黒な面だけが存在する。

 そもそも、彼の身体には骨や肉といったものはない。デュラハンは亜人ではなく、精霊だ。精霊は生身の肉体を持たない種族だった。彼らがどのように生まれるのかは謎に包まれているし、並大抵のことでは死なない。たとえ死んだとしても、その時は何も残さずに消滅する。それゆえ、精霊は生や死の概念が曖昧な存在だった。

 フィスファールと付き合いの長いアプトラだが、彼女は彼が何かを食べている姿を見たことがない。

 食物を摂取する必要がないのだろう。精霊にそれぞれ与えられた使命、それを遂行することで、彼らは精霊として長らえる。それは草花を育てるといった、人が精霊と聞いて思い浮かべるようなことであったり、逆に負のイメージが付きまとう、命ある者に死の宣告をすることだったり、埋葬されることのない死体を処理することだったり、と内容はまちまちだ。精霊はこの世界の均衡を保つ、自称、世界の管理者だった。

 フィスファールは、人間の子がこの森にいることを好ましく思っていない。コルタウリが赤子を連れ帰ったあの日から、彼は森の住人達と距離を置いていた。だから、彼らの頼みに、フィスファールは眉をひそめた。


「名前なんかつけたら、愛着が湧くじゃないか」


 フィスファールの言い分に、彼らはきょとんとした。

 フィスファールは人間の赤子をあくまで一時的に保護しているにすぎない、と思っている。対して、アプトラ達は赤子を自分達の手で育てると考えていた。

 アプトラはじっとりと彼を見た。


「アンタ、まだそんなこと言ってたのお。アタシが受け入れるって決めたんだから、それでいいじゃないか」


 赤子はコルタウリをよじ登り終え、彼の頭の角を掴んでいた。


「きみ達はそれでいいのかもしれないね。でも、私は――」


 赤子の手が滑り、角を離してしまう。小さな身体がぐらり、と揺れてコルタウリの巨体から落ちる。コルタウリが慌てている間に、フィスファールが空いている方の手で赤子を抱きとめた。


「認めていないからね」


 左腕で自分の頭を、右腕で赤子を抱えたフィスファールは、そう言い終える。

 赤子は彼の頭に興味を示していた。小さな手を伸ばしてきたので、フィスファールは頭をできるだけ赤子から離す。

 その様に、アプトラとコルタウリが小さく吹き出した。先ほどまで毅然としていたフィスファールが、不安そうな顔をしているのが可笑しかった。しかし、彼が心配しているのは自分の頭のことではない。


「きみ達にまかせていたら、そのうちこの子を殺してしまいそうだね」

「どういう意味さ!」

「失敬。今のは失言だった。そのうち、死なせてしまいそうだね」

「そんなに変わってないじゃないか!」


 アプトラは抗議するように、地面を尻尾で叩く。フィスファールは視線でそれを指し示した。


「扱いが乱暴だ。人間の子は弱い」


 う、とアプトラは尻尾の動きを止めた。これは彼女の癖だったのだ。もし、尻尾が間違って赤子を叩きつけてしまったとしたら、ひとたまりもないだろう。アプトラは大人しく尻尾を巻いた。

 コルタウリは優しいのだが、気が回らない。それが、さっきのような事故につながる。フィスファールがいなければ、赤子は地面にぶつかって怪我をしていたかもしれない。コルタウリは巨体の身を縮めた。

 森にいるのが気に食わないからといって、死なせてしまうのは本意ではない。フィスファールは赤子の身に怪我一つ付けることなく、人間の国に帰してやりたかった。

 咎められつつも、アプトラはフィスファールの様子にほくそ笑む。


「フィスファール、アンタがこの子の面倒を見てやればいいじゃないか」

「……その手には乗らない」


 うっかり取り込まれてしまわないように、フィスファールは警戒する。コルタウリが遠慮がちに声を出した。


「じゃあ、僕たちを見張るっていう意味で、様子ぐらいは見守っていてよ」


 コルタウリにしては気の利いたことを言った、とアプトラは機嫌よく尻尾を丸める。フィスファールはよく考えたうえで、返答した。


「まあ、それぐらいなら……」


 それは、なし崩し的に子育てを助けるような答えになってしまうのだが。のちに自分がこの子の師匠になるなど、この時のフィスファールは考えもしていなかった。

 アプトラは調子良く言う。


「じゃ、さっそく最初の仕事だねえ。この子の名前を――」

「この子にはすでに名前があるはずだろう。人間がつけた名前が。私達に必要なのは、この子の呼び名だ」


 フィスファールは律義に訂正する。アプトラはしびれを切らしかけていた。尻尾を振り回したくて、うずうずしている。それを察したコルタウリは、徐々に彼女から離れていく。

 フィスファールは赤子をじっと見つめた。赤子は女の子だった。子供特有のやわらかい黒髪に、丸めた灰色の目。その目が、不思議そうに彼を見つめ返してくる。

 ただの呼び名だ。考える必要はない、彼はそう思っていた。しかし、その無垢な瞳に彼は吸い込まれる。

 赤子はまだフィスファールの頭を諦めていない。ずっと手を伸ばしていた赤子に根負けして、フィスファールは自身の頭を赤子に持たせてやった。小さな両手で、その子はしっかりと彼の頭を持つ。指の感触は柔らかで、赤子からは乳の匂いがした。間近で見るその子はとても可愛らしかった。

 この子の可能性は未知数なのだ。この子が将来なにをするのか、フィスファールは興味を持った。もしかしたら、この子がこの世界の――


「『ミァン』だ、ミァンにしよう」


 希望になる日が来るかもしれない、と。

 この時すでにフィスファールは赤子の、ミァンの魔性にやられていたのだ、と彼は後になってから気付いた。



 *****


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