春の先輩、夏の約束
入学式の途中だった。
私は体育館の少し硬い椅子に座りながら、壇上に立っている校長先生の話を聞いていた。
正直に言えば、内容はほとんど頭に入っていなかった。
新しい制服。
新しい教室。
新しいクラスメイト。
そして、これから始まる高校生活。
楽しみな気持ちはあった。
けれど、それと同じくらい不安だった。
中学のとき、私は人付き合いがあまり得意ではなかった。
友達はいた。
でも、自分から輪の中に入っていくのは苦手だった。
高校では変わりたい。
そう思っていた。
せっかくの新しい環境なのだから、今までとは違う自分になってみたい。
友達を作って。
部活をして。
毎日笑って。
そんな高校生活を送りたい。
そんなことを考えていたときだった。
「続いて、在校生代表挨拶」
体育館に司会の声が響いた。
私はなんとなく顔を上げた。
数人が前へ出ていく。
その中に、一人だけ妙に目に留まった人がいた。
長い黒髪を後ろで一つにまとめている。
背が高くて、姿勢がいい。
それなのに、近寄りがたい感じはない。
むしろ柔らかい。
前に出る直前、隣の女子生徒と何か話していた。
その人が笑った。
ほんの一瞬だった。
でも、その笑顔が妙に印象に残った。
――綺麗な人。
それが、その人を見たときの最初の感想だった。
やがて挨拶が始まる。
落ち着いた声だった。
新入生への歓迎。
学校生活について。
部活動について。
特別変わったことを言っているわけではない。
なのに、私はその人の声をずっと聞いていた。
やがて挨拶が終わる。
その人は列へ戻っていった。
私はそれを目で追った。
その時はまだ知らなかった。
その人と、これから何度も同じ体育館に立つことになるなんて。
その人の言葉に何度も救われることになるなんて。
そして。
いつか、その人を心から好きになるなんて。
このときの私は、何も知らなかった。
⸻
入学式が終わった日の放課後。
私は体育館へ向かっていた。
中学でもバレーボール部だった。
だから、高校でもバレーを続けるつもりだった。
全国大会に行きたいとか、強豪校で勝ちたいとか、そういう大きな目標があったわけではない。
ただ、バレーが好きだった。
ボールを追いかけること。
仲間と声を出すこと。
一本のボールをみんなで繋ぐこと。
それが好きだった。
体育館の扉を開ける。
「こんにちは」
中にいた先輩たちが振り返る。
「新入生?」
「はい」
「見学?」
「そうです」
「じゃあ、そこに荷物置いていいよ」
「ありがとうございます」
私は言われた場所に鞄を置いた。
そのとき。
「こんにちは」
後ろから声がした。
振り返る。
「あ……」
入学式で見た人だった。
「新入生?」
「はい」
「名前は?」
「橘結衣です」
「結衣ちゃんね」
その人は優しく笑った。
「私は白石美月。二年生」
「よろしくお願いします」
「こちらこそ」
美月先輩。
それが、私が初めて知った名前だった。
「今日は見学?」
「はい」
「中学でもバレーやってた?」
「やってました」
「ポジションは?」
「レフトです」
「じゃあ、結構打つほうだ」
「そんなに上手くないですけど……」
「大丈夫。最初から上手い人なんていないから」
そう言って、美月先輩は笑った。
「ゆっくり見ていってね」
そう言ってコートへ戻る。
その背中を、私は少しだけ目で追った。
そして、その日の練習を見て決めた。
私はこの部活に入りたい。
翌日。
私は入部届を出した。
⸻
その年、バレー部には私を含めて四人の一年生が入った。
一人目は宮本美咲。
私と同じクラスだった。
とにかく明るい。
人見知りという言葉を知らないんじゃないかと思うくらい、誰とでも話せる。
「結衣ってどこ中?」
「東中」
「へえ! 私、西中!」
「近いね」
「ねえ、仲良くしようよ」
「うん」
「よし、決まり!」
そんな感じだった。
二人目は佐倉菜月。
セッター志望で、声がとにかく大きい。
「お願いします!」
「ナイス!」
「もう一本!」
入部初日から体育館に声を響かせていた。
三人目は藤原杏。
おとなしくて、少し人見知り。
でも周りをよく見ている。
「結衣、靴紐ほどけてるよ」
「え?」
「危ないから結んだほうがいい」
「ありがとう」
「うん」
そんな子だった。
そして私たち四人は、少しずつ仲良くなっていった。
その中でも、一番私たち一年生の面倒を見てくれたのが美月先輩だった。
「結衣ちゃん、腕もう少し組む位置を下げてみて」
「こうですか?」
「うん。そう」
ボールが飛んでくる。
私はレシーブする。
綺麗に返った。
「そう、それ」
「できました」
「うん。今のいいよ」
先輩が笑う。
その笑顔を見ると、自然と嬉しくなった。
私はこの頃、美月先輩をただ、
――優しく教えてくれる、いい先輩。
そう思っていた。
⸻
美月先輩は良い先輩だった。
練習中は誰よりも声を出す。
「一本集中!」
「声出して!」
「今のいいよ!」
「切り替え!」
厳しいときは厳しい。
けれど、誰かが失敗したときに責めることはなかった。
「ごめんなさい!」
後輩がミスすると。
「謝らなくていいよ」
そう言う。
「今のは足を一歩早く入れたら取れたと思う。次やってみよう」
「はい!」
「大丈夫。できるから」
その姿は、私にとって憧れだった。
ある日、私は練習試合で何度もミスをした。
スパイクはアウト。
レシーブは乱れる。
最後にはサーブまで失敗した。
「ごめんなさい!」
私は何度も謝った。
練習が終わったあと。
一人でボールを片付けていると、美月先輩が来た。
「結衣ちゃん」
「はい」
「今日、落ち込んでるね」
「……はい」
「そんなに気にしなくていいよ」
「でも、私、何もできなくて」
「今日何本ミスした?」
「……分かりません」
「私も分からない」
「え?」
「でも、最後の一本はちゃんと返したよね」
私は顔を上げた。
「見てたんですか?」
「うん」
先輩が笑う。
「だから大丈夫」
「……はい」
「失敗したことより、最後に一本取れたことを覚えておこう」
その言葉は、その後もずっと私の中に残った。
⸻
五月。
練習試合が増えた。
私は少しずつ試合に出るようになった。
でも、高校のバレーは中学とは違った。
スパイクは速い。
サーブは強い。
ブロックは高い。
最初は何もかもついていけなかった。
それでも、美月先輩は何度も教えてくれた。
「結衣ちゃん、今のレシーブ良かった」
「本当ですか?」
「うん」
「先輩に褒められると嬉しいです」
「じゃあ、もっと褒められるように頑張ろう」
「はい!」
そんな会話が増えた。
六月。
私は初めて公式戦のベンチに入った。
緊張していた。
手が冷たくなっていた。
「結衣ちゃん」
「はい」
「緊張してる?」
「してます」
「私も昔はしてたよ」
「先輩でも?」
「するよ」
「意外です」
「失礼だなあ」
先輩が笑う。
「でもね」
「はい」
「結衣ちゃんは大丈夫」
「どうしてですか?」
「練習してるから」
その言葉だけで、不思議と落ち着いた。
⸻
入学して半年。
秋の大会の日が来た。
私はすでに美月先輩と一緒にいることに慣れていた。
朝、体育館に入る。
「おはようございます」
「おはよう、結衣ちゃん」
先輩が笑う。
そのやり取りが当たり前になっていた。
大会は順調だった。
一回戦を勝つ。
二回戦も勝つ。
準々決勝も勝つ。
そして準決勝。
私は途中からコートに入った。
「結衣!」
美月先輩の声が聞こえる。
相手のスパイク。
私は腕を出した。
ボールが上がる。
菜月がトスを上げる。
スパイク。
決まった。
「ナイス!」
美月先輩が笑ってくれた。
その瞬間、胸がいっぱいになった。
決勝。
最後は負けた。
悔しかった。
でも、今までで一番楽しい大会だった。
そして大会のあと。
顧問の先生が打ち上げを開いてくれた。
みんなで食事をした。
普段よりずっと賑やかだった。
笑って。
大会の話をして。
失敗した場面をからかい合って。
しばらくして、私はトイレへ向かった。
廊下を歩く。
角を曲がる。
そのとき。
「あ」
向こうから美月先輩が歩いてきた。
「結衣ちゃん」
「先輩も?」
「うん」
お互い笑った。
「じゃあ、またあとで」
「はい」
そう言って別れた。
ほんの一瞬の出来事だった。
なのに、そのあと私は妙に先輩を意識していた。
戻ってくると。
「遅かったね」
美咲が言った。
「そう?」
「うん」
「先輩と会っただけ」
「ふーん」
美咲は意味ありげに笑った。
「何?」
「別に」
私は気にしなかった。
でも。
その日から少しずつ。
美月先輩との距離が変わり始めた。
⸻
大会の翌週。
「結衣ちゃん」
練習後、美月先輩が声をかけてきた。
「はい」
「この前の大会、楽しかったね」
「はい」
「結衣ちゃん、すごく頑張ってた」
「ありがとうございます」
「今度、時間あったら大会の写真見ない?」
「写真?」
「いっぱい撮ったから」
「見たいです」
「じゃあ、送るね」
その夜。
スマートフォンに写真が届いた。
試合中の写真。
チーム全員の写真。
そして。
私が笑っている写真。
『この写真、結衣ちゃんいい顔してる』
メッセージが届く。
『本当ですか?』
『うん』
『誰が撮ったんですか?』
『私のお母さん』
『そうなんだ。大事にします』
送信したあと。
私は少しだけ恥ずかしくなった。
それから、先輩とのメッセージが増えた。
部活の話。
学校の話。
好きな食べ物。
休日の過ごし方。
くだらない話。
それが楽しかった。
でも、この頃はまだ。
私は先輩への気持ちを恋だとは思っていなかった。
ただ、特別な先輩。
そう思っていた。
⸻
冬を越え。
春になり。
私は二年生になった。
そして、美月先輩は三年生になった。
残された時間は少なかった。
最後の大会が近づいていく。
練習は厳しくなった。
朝練。
放課後練習。
休日練習。
美月先輩は、最後まで良い先輩だった。
「結衣ちゃん」
「はい」
「最近、後輩のことよく見てるね」
「そうですか?」
「うん」
「先輩がやってたことを真似してるだけです」
「そっか」
先輩は嬉しそうに笑った。
「じゃあ、私が引退しても大丈夫かな」
「……」
その言葉を聞いた瞬間。
胸が苦しくなった。
「先輩がいなくなるの、嫌です」
「私も寂しいよ」
「……」
「でも、ずっとここにいるわけにはいかないから」
「分かってます」
分かっていた。
でも、嫌だった。
最後の大会。
私たちは決勝まで進んだ。
最後は負けた。
悔しかった。
でも。
美月先輩と戦える最後の大会だった。
⸻
大会から数日。
美月先輩の引退の日。
体育館に全員が集まった。
「今日までありがとう」
先輩が頭を下げる。
「これからは二年生を中心に頑張ってください」
みんな泣いていた。
私も泣いていた。
先輩は一人ずつに声をかけた。
そして最後。
私の前に来た。
「結衣ちゃん」
「はい……」
「泣かないでよ」
「無理です」
先輩が笑う。
「私がいなくても大丈夫?」
「……分かりません」
「大丈夫だよ」
「でも……」
「困ったら連絡して」
「はい」
「いつでも聞くから」
「はい」
「結衣ちゃん」
「はい」
「この一年半、一緒にバレーできてよかった」
私は涙を拭いた。
「私もです」
「ありがとう」
「ありがとうございました」
先輩が私の頭を軽く撫でた。
「頑張ってね」
その日。
美月先輩は部活を引退した。
それから、私たちは二年生中心の新体制になった。
⸻
三年生が引退すると、体育館の雰囲気が変わった。
新しいキャプテンが決まった。
二年生がチームをまとめる。
私は副キャプテンになった。
先輩がいた場所に、自分が立つ。
最初は怖かった。
でも。
「一本!」
私は声を出した。
「ナイス!」
後輩を励ます。
ミスした子に声をかける。
それを繰り返していく。
ある日。
一年生の莉子が落ち込んでいた。
「結衣先輩」
「どうしたの?」
「私、全然できません」
「最初はみんなできないよ」
「でも……」
「私も一年生のとき、全然できなかった」
「本当ですか?」
「本当」
「……先輩でも?」
「そうだよ」
私は笑った。
「だから大丈夫」
その言葉を言った瞬間。
美月先輩の声が頭の中に蘇った。
――大丈夫。できるよ。
私は先輩からもらった言葉を、今度は後輩に渡していた。
⸻
部活を引退してからも、美月先輩とは連絡を取り合っていた。
以前より会う回数は減った。
でも、休日に会うことはあった。
駅で待ち合わせる。
「お待たせ」
「先輩!」
「久しぶり」
「そんなに久しぶりじゃないですよ」
「そう?」
「この前会ったばかりです」
「そっか」
そんな会話をする。
一緒に昼ご飯を食べる。
公園を歩く。
本屋を見る。
帰る。
それだけ。
でも私は、それが好きだった。
ある日。
「結衣ちゃん」
「はい」
「最近、部活どう?」
「大変です」
「副キャプテンだもんね」
「はい」
「ちゃんと後輩見てる?」
「見てます」
「偉い」
「先輩みたいになりたいので」
「……」
美月先輩が少し黙った。
「どうしました?」
「ううん」
「?」
「嬉しいなって思っただけ」
先輩が笑った。
その笑顔を見ていると。
胸の奥が温かくなる。
その頃からだった。
私は先輩と会うたびに、少しだけ緊張するようになった。
⸻
私は、少しずつ自分の気持ちに気づいていった。
美月先輩から連絡が来ると嬉しい。
会えると嬉しい。
会えないと寂しい。
先輩が誰かと楽しそうに話していると、なぜか胸がざわつく。
そして。
先輩が卒業することを考えると、怖かった。
ある夜。
私はスマートフォンを握ったまま、ベッドに寝転んでいた。
美月先輩とのトーク画面。
何気ない会話。
『今日もお疲れさま』
『先輩もお疲れさまです』
『明日頑張ってね』
『ありがとうございます』
たったそれだけ。
なのに、私は嬉しい。
私は画面を閉じた。
胸に手を当てる。
ドキドキしている。
「……これって」
私は呟いた。
「好きってことなのかな」
答えは、すぐに出た。
きっとそうだった。
私は、美月先輩が好きだった。
ただの先輩としてじゃない。
一人の女の人として。
私は先輩のことが好きだった。
⸻
翌日の昼休み。
私は美咲を呼び出した。
「美咲」
「ん?」
「相談がある」
「珍しい」
美咲が弁当を置く。
「何?」
「……美月先輩のこと」
美咲は一瞬黙った。
そして。
「やっぱり」
「……」
「その話だと思った」
「知ってたの?」
「うん」
「いつから?」
「結構前」
「どのくらい?」
「一年生の終わりくらい」
「そんな前から?」
「だって分かりやすいもん」
「どこが?」
「先輩の話するときの顔」
「……」
「あと、先輩から連絡来ると明らかに機嫌よくなる」
「そんなに?」
「うん」
私は顔を覆った。
「恥ずかしい……」
「今さら?」
「今まで隠せてると思ってた」
「全然」
「……」
私は少し黙った。
「私、先輩のこと好きなんだと思う」
「うん」
「でも、怖い」
「何が?」
「女同士だから」
美咲は少し考えた。
「私は正直、最初に聞いたらちょっと驚くと思う」
「……うん」
「でも、それだけ」
「それだけ?」
「うん」
「嫌じゃないの?」
「なんで嫌なの?」
「だって……」
「結衣が好きになった人が女の人だっただけでしょ」
「……」
「私は結衣の友達だから」
美咲が笑う。
「それに、白石先輩ならいいと思う」
「どうして?」
「結衣があんなに大切に思ってる人だから」
私は目を伏せた。
「……告白しようかな」
「うん」
「先輩、もうすぐ卒業だから」
「そうだね」
「あと二か月くらいしかない」
「じゃあ、後悔しないようにしたほうがいい」
「怖い」
「振られるのが?」
「それもある」
「じゃあ、一つだけ覚えておいて」
「何?」
「告白するのは、付き合ってもらうためだけじゃないよ」
「……」
「自分の気持ちをちゃんと伝えるためでもある」
私は美咲を見た。
「……ありがとう」
「うん」
「私、頑張ってみる」
「頑張れ」
⸻
それから数日。
私は何度も告白する練習をした。
鏡の前。
「先輩が好きです」
「……無理」
顔が熱くなる。
もう一度。
「美月先輩のことが好きです」
また無理。
スマートフォンで文章を打つ。
『今度会えませんか?』
送信。
すぐに返事が来た。
『うん。どうしたの?』
『少し話したいことがあります』
『分かった』
約束の日。
私は待ち合わせ場所に早く着いた。
何度も時計を見る。
そして。
「結衣ちゃん」
美月先輩が来た。
「先輩……」
「待った?」
「いえ」
「そっか」
私たちは公園のベンチに座った。
「それで、話って?」
「……」
心臓がうるさい。
私は何度も深呼吸した。
「先輩」
「うん」
「私……」
声が震える。
「先輩のことが好きです」
美月先輩が黙った。
「最初は、優しくていい先輩だと思ってました」
「うん」
「でも、いつの間にか」
私は先輩を見た。
「先輩と話すのが嬉しくなって」
「……」
「先輩から連絡が来ると嬉しくて」
「……」
「会えないと寂しくて」
涙が出そうになる。
「卒業するって考えたら、もっと寂しくて」
「結衣ちゃん……」
「私、美月先輩のことが好きです」
言った。
全部。
伝えた。
先輩はしばらく黙っていた。
そして。
「……ありがとう」
「……」
「言ってくれて嬉しい」
先輩の目が少し潤んでいた。
「私も、結衣ちゃんのことが好き」
「……本当ですか?」
「うん」
私は息を呑んだ。
「私も、いつからか分からないけど」
先輩が笑う。
「結衣ちゃんと話すのが一番楽しみになってた」
「先輩……」
「だから、嫌じゃない」
「……」
「むしろ、嬉しい」
涙がこぼれた。
「よかった……」
「泣かないで」
「無理です」
先輩が笑う。
「じゃあ、私も泣く」
「先輩まで……」
二人で少し笑った。
ただ。
この日は、まだ「付き合おう」とは言わなかった。
お互いに好きだと分かった。
それだけで十分だった。
「じゃあ、今日は帰ろうか」
「はい」
「また連絡するね」
「はい」
駅で別れる。
私は何度も振り返った。
先輩も振り返っていた。
手を振る。
私も振り返す。
そして。
先輩の姿が見えなくなった。
私は一人になった。
でも。
心は、一人じゃなかった。
⸻
翌朝。
目が覚めて、一番最初に思った。
――昨日、告白したんだ。
急に恥ずかしくなった。
私はスマートフォンを手に取った。
美月先輩からメッセージが来ている。
『おはよう』
『おはようございます』
『眠れた?』
『あまり眠れませんでした』
『私も』
私は少し考えた。
『先輩も?』
『うん』
『どうしてですか?』
送信したあと、少し後悔した。
返事が来る。
『結衣ちゃんのこと考えてたから』
「……」
私はスマートフォンをベッドに置いた。
「無理……」
顔が熱い。
昨日までなら普通に返せた言葉なのに。
今は一つ一つが特別に感じる。
⸻
三日目。
私たちは学校帰りに少しだけ会った。
「こんにちは」
「こんにちは」
「……」
「……」
二人とも黙る。
そして。
「なんか変ですね」
私が言った。
「うん」
先輩も笑う。
「昨日まで普通に話してたのに」
「好きって分かってから会うと、こんなに緊張するんですね」
「私も同じ」
「先輩も?」
「うん」
「ちょっと安心しました」
「ふふ」
先輩が笑う。
「結衣ちゃん」
「はい」
「この前、告白してくれたとき」
「はい」
「本当に嬉しかった」
「……私も、先輩が好きって言ってくれて嬉しかったです」
少し沈黙する。
「でも」
先輩が言った。
「ちゃんと考えたい」
「……はい」
「結衣ちゃんも、私も」
「分かりました」
「卒業する前に、曖昧なままにはしたくないから」
「はい」
それから、私たちはゆっくり距離を縮めた。
⸻
五日目。
美月先輩から連絡が来た。
『今日、会える?』
『はい』
公園で待ち合わせる。
先輩は少し緊張した顔をしていた。
「結衣ちゃん」
「はい」
「この前のことなんだけど」
「はい」
「私、ちゃんと考えた」
私は黙って聞いた。
「結衣ちゃんとこれからも一緒にいたい」
「……」
「学校が違っても」
「……」
「卒業しても」
「……」
「だから」
先輩が私を見る。
「私と付き合ってください」
胸がいっぱいになった。
「……はい」
「本当に?」
「はい」
「よかった」
先輩が笑った。
その笑顔を見た瞬間。
私は、ようやく実感した。
今日から。
私たちは恋人なんだ。
「よろしくお願いします」
「こちらこそ」
先輩が手を差し出す。
私は少し迷ってから、その手を握った。
温かかった。
それだけで、嬉しかった。
⸻
付き合い始めても、私たちは急に何かが変わったわけではなかった。
私は部活がある。
美月先輩はもう引退している。
だから、部活のあとに少し会う。
休日に出かける。
メッセージをする。
それくらいだった。
「今日の練習どうだった?」
「疲れました」
「キャプテンの仕事?」
「まだ副キャプテンです」
「そうだった」
「先輩、覚えてください」
「ごめん」
二人で笑う。
ある日。
「先輩」
「ん?」
「私、今日後輩に褒められました」
「何て?」
「『結衣先輩みたいになりたい』って」
「ふふ」
「笑わないでください」
「嬉しいなって思って」
「何がですか?」
「結衣ちゃんが、ちゃんと私からもらったものを次の子に渡してるんだなって」
「……」
その言葉が嬉しかった。
⸻
そして。
卒業式の日が来た。
私は在校生。
美月先輩は卒業生。
体育館に入る。
去年まで、同じコートに立っていた人が。
今日は卒業生の列にいる。
「白石美月」
「はい」
名前が呼ばれる。
先輩が返事をする。
私は少しだけ胸が苦しくなった。
でも。
もう、以前とは違う。
私たちは恋人だ。
だから。
卒業は別れではない。
式が終わる。
校門の前。
「先輩」
「結衣ちゃん」
「卒業、おめでとうございます」
「ありがとう」
「寂しいです」
「私も」
「でも、会えますよね」
「もちろん」
先輩が笑った。
「だって、恋人なんだから」
「……はい」
その言葉だけで、安心できた。
「これからもよろしくお願いします」
「こちらこそ」
「ずっと」
「うん」
先輩は笑った。
そして、卒業生の列へ戻っていった。
私はその背中を見送った。
寂しかった。
でも、泣かなかった。
だって。
これで終わりじゃないから。
⸻
春。
私は三年生になった。
入学式の日。
体育館に新入生が並んでいる。
二年前。
私もここにいた。
不安だった。
何も分からなかった。
そのとき。
私は美月先輩を見つけた。
今。
私は三年生として、新入生を見ている。
時間が経つのは早い。
入学式が終わったあと。
私は部活へ向かった。
そして。
「今年からキャプテンは、橘に変えたいと思ってる」
顧問の先生が言った。
「……私ですか?」
「そう」
体育館にいたみんなが私を見る。
美咲。
菜月。
杏。
莉子。
後輩たち。
私は一度息を吸った。
「分かりました」
拍手が起こる。
私は頭を下げた。
「よろしくお願いします」
キャプテン。
その言葉が、まだ少し不思議だった。
⸻
その夜。
私は美月先輩に電話をした。
『もしもし?』
「先輩」
『どうしたの?』
「私……」
『うん』
「キャプテンになりました」
『……本当?』
「はい」
『おめでとう』
「ありがとうございます」
『すごいね』
「でも、ちょっと怖いです」
『うん』
「私にできるかな」
『できるよ』
「どうして即答なんですか」
『だって、私は知ってるから』
「何を?」
『結衣ちゃんがどれだけ頑張ってきたか』
私は黙った。
『一年生のとき、何度も失敗して落ち込んでた』
「……」
『でも、そのたびに頑張った』
「……はい」
『二年生になったら後輩を教えるようになった』
「はい」
『今度は、チームを引っ張る番』
「……」
『結衣ちゃんなら大丈夫』
胸が熱くなった。
「私、先輩みたいなキャプテンになりたいです」
『……』
「入学したときから、ずっとそう思ってました」
『ありがとう』
「でも」
『ん?』
「先輩が教えてくれたことを、そのまま真似するだけじゃなくて」
私は笑った。
「私らしいキャプテンになりたいです」
電話の向こうで、先輩が笑った。
『うん』
『それが一番いい』
「先輩」
『ん?』
「これからも見ててください」
『もちろん』
「ずっと」
『うん。ずっと』
⸻
翌朝。
私は誰よりも早く体育館へ入った。
ボールを並べる。
ネットを確認する。
床を確認する。
やがて、後輩たちが入ってくる。
「おはようございます、キャプテン!」
「おはよう」
まだ、その呼ばれ方には慣れない。
「今日の練習は?」
「まずレシーブから」
「はい!」
体育館に声が響く。
「お願いします!」
「一本!」
ボールが飛ぶ。
私は走る。
声を出す。
後輩を励ます。
ミスした子に声をかける。
「大丈夫!」
「もう一本!」
「今の良かったよ!」
その瞬間。
ふと思った。
――昔、美月先輩もこうしていた。
私が一年生だった頃。
何度失敗しても。
先輩は怒らなかった。
何度落ち込んでも。
先輩は「大丈夫」と言ってくれた。
私はその言葉に何度も救われた。
だから今度は。
私が誰かに「大丈夫」と言う番だ。
練習が終わる。
みんなが帰っていく。
私は最後に体育館を見渡した。
この場所で。
美月先輩と出会った。
この場所で。
一緒にバレーをした。
この場所で。
何度も笑った。
泣いた。
悔しがった。
そして今。
私はキャプテンになった。
スマートフォンが震える。
美月先輩からだった。
『キャプテン、今日もお疲れさま』
私は笑う。
『先輩もお疲れさまです』
『今日どうだった?』
『大変でした』
『そっか』
『でも楽しかったです』
『よかった』
『私、ちゃんとキャプテンできてますか?』
少しだけ不安になりながら送る。
返事はすぐに来た。
『できてるよ』
『どうして分かるんですか?』
『結衣ちゃんだから』
『それ答えになってません』
『じゃあ、今度会ったときに教える』
『本当ですか?』
『うん』
『楽しみにしてます』
『私も』
スマートフォンをしまう。
体育館の扉を閉める。
外に出る。
春の風が吹いていた。
桜の花びらが一枚、足元に落ちる。
私はそれを見つめた。
二年前。
入学式の途中で見つけた、一人の先輩。
あの人の笑顔を見たことから始まった。
最初はただの憧れだった。
優しい先輩。
頼れるキャプテン。
バレーを教えてくれる人。
それだけだった。
半年後。
大会の打ち上げで偶然トイレに行くタイミングが重なった。
そんな小さな出来事から。
少しずつ距離が近づいていった。
メッセージが増えた。
一緒に帰ることが増えた。
休日に会うようになった。
そして私は、自分の気持ちに気づいた。
二年生になって。
先輩が引退して。
私は先輩から教わったことを後輩に渡していった。
そして。
卒業二か月前。
私は美咲に相談した。
美咲はずっと前から気づいていた。
少し驚きながらも。
それでも、私の気持ちをそのまま受け止めてくれた。
私は勇気を出して告白した。
先輩も、私を好きだと言ってくれた。
その日はまだ恋人にならなかった。
次の日。
三日目。
五日目。
少しずつ、お互いの気持ちを確かめた。
そして。
先輩が私に告白してくれた。
私は「はい」と答えた。
そこから二か月。
私たちは恋人として過ごした。
そして卒業式。
先輩はこの学校を卒業した。
でも。
私たちは別れなかった。
今も会える。
今も話せる。
今も好きだと言える。
そして私は。
三年生になった。
キャプテンになった。
美月先輩がかつて立っていた場所に、今度は私が立っている。
不思議だった。
でも。
怖くはなかった。
私には、先輩からもらったものがある。
仲間がいる。
そして。
大切な人がいる。
私は空を見上げた。
青い空。
入学式の日と同じような空だった。
あの日の私は、これから何が起こるのか何も知らなかった。
まさか。
あの日見つけた先輩を好きになるなんて。
まさか。
その人と恋人になるなんて。
まさか。
その人からもらったものを、今度は自分が後輩に渡していくなんて。
人生は、何が起こるか分からない。
でも。
私は、この道を選んでよかったと思う。
スマートフォンを見る。
新しいメッセージ。
『結衣ちゃん』
『はい』
『明日、会える?』
私はすぐに返信した。
『会いたいです』
『よかった』
『私も会いたかったです』
『じゃあ、明日ね』
『はい』
画面を閉じる。
私は歩き出した。
春の風が吹いている。
桜が舞っている。
その先には、まだ知らない未来がある。
部活も。
進路も。
卒業も。
その先の人生も。
きっと、簡単なことばかりじゃない。
それでも。
私は大丈夫だと思えた。
だって。
私が大切にしたい人は、今も私の隣にいる。
私が大好きな人は、これからも私のことを見ていてくれる。
そして私も。
その人をずっと大切にしていきたい。
入学式の日に見つけた、憧れの先輩。
私にバレーを教えてくれた人。
私の弱さを知っている人。
私の努力を見ていてくれる人。
そして。
私が初めて心から好きになった人。
白石美月。
私はその名前を、心の中でそっと呼んだ。
「また明日」
春の空に向かって呟く。
そして、私は歩いていく。
新しい仲間たちと。
大切な人と。
これから始まる、私たちの未来へ。
あの日の先輩と後輩だった二人は。
今では恋人になった。
そして私は。
かつて憧れた先輩から受け取ったものを胸に。
新しいチームのキャプテンとして。
もう一度、この体育館でボールを追いかける。
――春は、まだ始まったばかりだった。
そして。
私たちの恋も、まだ始まったばかりだった。
最後まで読んでくださって、ありがとうございました。
この二人の話を書き終えて、なんだか少し寂しい気持ちになっています。
結衣と美月のことを「登場人物」として考えるというより、二人が本当にどこかの高校でバレーをしていたんじゃないか、と思ってしまうような感覚で書いていました。
入学式の日、たまたま体育館で美月を見つけた結衣。
最初はただの優しい先輩だったのに、一緒にバレーをして、話をして、少しずつ距離が近づいていって。
気づけば、お互いにとって特別な人になっていた。
きっと二人にとっては、特別な出来事ばかりだったわけじゃないんだと思います。
練習終わりの何気ない会話だったり、帰り道だったり、メッセージを送り合った夜だったり。
そういう小さな時間が積み重なって、二人の関係ができていったんじゃないかなと思っています。
美月が卒業して、結衣がキャプテンになったときも、二人の間にあるものは変わらない。
むしろ、そこからまた新しい時間が始まっていくんだと思います。
今頃二人は、卒業後もどこかで待ち合わせをして、一緒に笑っているのかもしれません。
そんなふうに思えるくらい、二人にはこの先もずっと幸せでいてほしいです。
ここまで二人の時間を見届けてくれて、本当にありがとうございました。




