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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
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春の先輩、夏の約束

作者: 稲神蘭
掲載日:2026/09/01

入学式の途中だった。


 私は体育館の少し硬い椅子に座りながら、壇上に立っている校長先生の話を聞いていた。


 正直に言えば、内容はほとんど頭に入っていなかった。


 新しい制服。


 新しい教室。


 新しいクラスメイト。


 そして、これから始まる高校生活。


 楽しみな気持ちはあった。


 けれど、それと同じくらい不安だった。


 中学のとき、私は人付き合いがあまり得意ではなかった。


 友達はいた。


 でも、自分から輪の中に入っていくのは苦手だった。


 高校では変わりたい。


 そう思っていた。


 せっかくの新しい環境なのだから、今までとは違う自分になってみたい。


 友達を作って。


 部活をして。


 毎日笑って。


 そんな高校生活を送りたい。


 そんなことを考えていたときだった。


「続いて、在校生代表挨拶」


 体育館に司会の声が響いた。


 私はなんとなく顔を上げた。


 数人が前へ出ていく。


 その中に、一人だけ妙に目に留まった人がいた。


 長い黒髪を後ろで一つにまとめている。


 背が高くて、姿勢がいい。


 それなのに、近寄りがたい感じはない。


 むしろ柔らかい。


 前に出る直前、隣の女子生徒と何か話していた。


 その人が笑った。


 ほんの一瞬だった。


 でも、その笑顔が妙に印象に残った。


 ――綺麗な人。


 それが、その人を見たときの最初の感想だった。


 やがて挨拶が始まる。


 落ち着いた声だった。


 新入生への歓迎。


 学校生活について。


 部活動について。


 特別変わったことを言っているわけではない。


 なのに、私はその人の声をずっと聞いていた。


 やがて挨拶が終わる。


 その人は列へ戻っていった。


 私はそれを目で追った。


 その時はまだ知らなかった。


 その人と、これから何度も同じ体育館に立つことになるなんて。


 その人の言葉に何度も救われることになるなんて。


 そして。


 いつか、その人を心から好きになるなんて。


 このときの私は、何も知らなかった。



 入学式が終わった日の放課後。


 私は体育館へ向かっていた。


 中学でもバレーボール部だった。


 だから、高校でもバレーを続けるつもりだった。


 全国大会に行きたいとか、強豪校で勝ちたいとか、そういう大きな目標があったわけではない。


 ただ、バレーが好きだった。


 ボールを追いかけること。


 仲間と声を出すこと。


 一本のボールをみんなで繋ぐこと。


 それが好きだった。


 体育館の扉を開ける。


「こんにちは」


 中にいた先輩たちが振り返る。


「新入生?」


「はい」


「見学?」


「そうです」


「じゃあ、そこに荷物置いていいよ」


「ありがとうございます」


 私は言われた場所に鞄を置いた。


 そのとき。


「こんにちは」


 後ろから声がした。


 振り返る。


「あ……」


 入学式で見た人だった。


「新入生?」


「はい」


「名前は?」


「橘結衣です」


「結衣ちゃんね」


 その人は優しく笑った。


「私は白石美月。二年生」


「よろしくお願いします」


「こちらこそ」


 美月先輩。


 それが、私が初めて知った名前だった。


「今日は見学?」


「はい」


「中学でもバレーやってた?」


「やってました」


「ポジションは?」


「レフトです」


「じゃあ、結構打つほうだ」


「そんなに上手くないですけど……」


「大丈夫。最初から上手い人なんていないから」


 そう言って、美月先輩は笑った。


「ゆっくり見ていってね」


 そう言ってコートへ戻る。


 その背中を、私は少しだけ目で追った。


 そして、その日の練習を見て決めた。


 私はこの部活に入りたい。


 翌日。


 私は入部届を出した。



 その年、バレー部には私を含めて四人の一年生が入った。


 一人目は宮本美咲。


 私と同じクラスだった。


 とにかく明るい。


 人見知りという言葉を知らないんじゃないかと思うくらい、誰とでも話せる。


「結衣ってどこ中?」


「東中」


「へえ! 私、西中!」


「近いね」


「ねえ、仲良くしようよ」


「うん」


「よし、決まり!」


 そんな感じだった。


 二人目は佐倉菜月。


 セッター志望で、声がとにかく大きい。


「お願いします!」


「ナイス!」


「もう一本!」


 入部初日から体育館に声を響かせていた。


 三人目は藤原杏。


 おとなしくて、少し人見知り。


 でも周りをよく見ている。


「結衣、靴紐ほどけてるよ」


「え?」


「危ないから結んだほうがいい」


「ありがとう」


「うん」


 そんな子だった。


 そして私たち四人は、少しずつ仲良くなっていった。


 その中でも、一番私たち一年生の面倒を見てくれたのが美月先輩だった。


「結衣ちゃん、腕もう少し組む位置を下げてみて」


「こうですか?」


「うん。そう」


 ボールが飛んでくる。


 私はレシーブする。


 綺麗に返った。


「そう、それ」


「できました」


「うん。今のいいよ」


 先輩が笑う。


 その笑顔を見ると、自然と嬉しくなった。


 私はこの頃、美月先輩をただ、


 ――優しく教えてくれる、いい先輩。


 そう思っていた。



 美月先輩は良い先輩だった。


 練習中は誰よりも声を出す。


「一本集中!」


「声出して!」


「今のいいよ!」


「切り替え!」


 厳しいときは厳しい。


 けれど、誰かが失敗したときに責めることはなかった。


「ごめんなさい!」


 後輩がミスすると。


「謝らなくていいよ」


 そう言う。


「今のは足を一歩早く入れたら取れたと思う。次やってみよう」


「はい!」


「大丈夫。できるから」


 その姿は、私にとって憧れだった。


 ある日、私は練習試合で何度もミスをした。


 スパイクはアウト。


 レシーブは乱れる。


 最後にはサーブまで失敗した。


「ごめんなさい!」


 私は何度も謝った。


 練習が終わったあと。


 一人でボールを片付けていると、美月先輩が来た。


「結衣ちゃん」


「はい」


「今日、落ち込んでるね」


「……はい」


「そんなに気にしなくていいよ」


「でも、私、何もできなくて」


「今日何本ミスした?」


「……分かりません」


「私も分からない」


「え?」


「でも、最後の一本はちゃんと返したよね」


 私は顔を上げた。


「見てたんですか?」


「うん」


 先輩が笑う。


「だから大丈夫」


「……はい」


「失敗したことより、最後に一本取れたことを覚えておこう」


 その言葉は、その後もずっと私の中に残った。



 五月。


 練習試合が増えた。


 私は少しずつ試合に出るようになった。


 でも、高校のバレーは中学とは違った。


 スパイクは速い。


 サーブは強い。


 ブロックは高い。


 最初は何もかもついていけなかった。


 それでも、美月先輩は何度も教えてくれた。


「結衣ちゃん、今のレシーブ良かった」


「本当ですか?」


「うん」


「先輩に褒められると嬉しいです」


「じゃあ、もっと褒められるように頑張ろう」


「はい!」


 そんな会話が増えた。


 六月。


 私は初めて公式戦のベンチに入った。


 緊張していた。


 手が冷たくなっていた。


「結衣ちゃん」


「はい」


「緊張してる?」


「してます」


「私も昔はしてたよ」


「先輩でも?」


「するよ」


「意外です」


「失礼だなあ」


 先輩が笑う。


「でもね」


「はい」


「結衣ちゃんは大丈夫」


「どうしてですか?」


「練習してるから」


 その言葉だけで、不思議と落ち着いた。



 入学して半年。


 秋の大会の日が来た。


 私はすでに美月先輩と一緒にいることに慣れていた。


 朝、体育館に入る。


「おはようございます」


「おはよう、結衣ちゃん」


 先輩が笑う。


 そのやり取りが当たり前になっていた。


 大会は順調だった。


 一回戦を勝つ。


 二回戦も勝つ。


 準々決勝も勝つ。


 そして準決勝。


 私は途中からコートに入った。


「結衣!」


 美月先輩の声が聞こえる。


 相手のスパイク。


 私は腕を出した。


 ボールが上がる。


 菜月がトスを上げる。


 スパイク。


 決まった。


「ナイス!」


 美月先輩が笑ってくれた。


 その瞬間、胸がいっぱいになった。


 決勝。


 最後は負けた。


 悔しかった。


 でも、今までで一番楽しい大会だった。


 そして大会のあと。


 顧問の先生が打ち上げを開いてくれた。


 みんなで食事をした。


 普段よりずっと賑やかだった。


 笑って。


 大会の話をして。


 失敗した場面をからかい合って。


 しばらくして、私はトイレへ向かった。


 廊下を歩く。


 角を曲がる。


 そのとき。


「あ」


 向こうから美月先輩が歩いてきた。


「結衣ちゃん」


「先輩も?」


「うん」


 お互い笑った。


「じゃあ、またあとで」


「はい」


 そう言って別れた。


 ほんの一瞬の出来事だった。


 なのに、そのあと私は妙に先輩を意識していた。


 戻ってくると。


「遅かったね」


 美咲が言った。


「そう?」


「うん」


「先輩と会っただけ」


「ふーん」


 美咲は意味ありげに笑った。


「何?」


「別に」


 私は気にしなかった。


 でも。


 その日から少しずつ。


 美月先輩との距離が変わり始めた。



 大会の翌週。


「結衣ちゃん」


 練習後、美月先輩が声をかけてきた。


「はい」


「この前の大会、楽しかったね」


「はい」


「結衣ちゃん、すごく頑張ってた」


「ありがとうございます」


「今度、時間あったら大会の写真見ない?」


「写真?」


「いっぱい撮ったから」


「見たいです」


「じゃあ、送るね」


 その夜。


 スマートフォンに写真が届いた。


 試合中の写真。


 チーム全員の写真。


 そして。


 私が笑っている写真。


『この写真、結衣ちゃんいい顔してる』


 メッセージが届く。


『本当ですか?』


『うん』


『誰が撮ったんですか?』


『私のお母さん』


『そうなんだ。大事にします』


 送信したあと。


 私は少しだけ恥ずかしくなった。


 それから、先輩とのメッセージが増えた。


 部活の話。


 学校の話。


 好きな食べ物。


 休日の過ごし方。


 くだらない話。


 それが楽しかった。


 でも、この頃はまだ。


 私は先輩への気持ちを恋だとは思っていなかった。


 ただ、特別な先輩。


 そう思っていた。



 冬を越え。


 春になり。


 私は二年生になった。


 そして、美月先輩は三年生になった。


 残された時間は少なかった。


 最後の大会が近づいていく。


 練習は厳しくなった。


 朝練。


 放課後練習。


 休日練習。


 美月先輩は、最後まで良い先輩だった。


「結衣ちゃん」


「はい」


「最近、後輩のことよく見てるね」


「そうですか?」


「うん」


「先輩がやってたことを真似してるだけです」


「そっか」


 先輩は嬉しそうに笑った。


「じゃあ、私が引退しても大丈夫かな」


「……」


 その言葉を聞いた瞬間。


 胸が苦しくなった。


「先輩がいなくなるの、嫌です」


「私も寂しいよ」


「……」


「でも、ずっとここにいるわけにはいかないから」


「分かってます」


 分かっていた。


 でも、嫌だった。


 最後の大会。


 私たちは決勝まで進んだ。


 最後は負けた。


 悔しかった。


 でも。


 美月先輩と戦える最後の大会だった。



 大会から数日。


 美月先輩の引退の日。


 体育館に全員が集まった。


「今日までありがとう」


 先輩が頭を下げる。


「これからは二年生を中心に頑張ってください」


 みんな泣いていた。


 私も泣いていた。


 先輩は一人ずつに声をかけた。


 そして最後。


 私の前に来た。


「結衣ちゃん」


「はい……」


「泣かないでよ」


「無理です」


 先輩が笑う。


「私がいなくても大丈夫?」


「……分かりません」


「大丈夫だよ」


「でも……」


「困ったら連絡して」


「はい」


「いつでも聞くから」


「はい」


「結衣ちゃん」


「はい」


「この一年半、一緒にバレーできてよかった」


 私は涙を拭いた。


「私もです」


「ありがとう」


「ありがとうございました」


 先輩が私の頭を軽く撫でた。


「頑張ってね」


 その日。


 美月先輩は部活を引退した。


 それから、私たちは二年生中心の新体制になった。



 三年生が引退すると、体育館の雰囲気が変わった。


 新しいキャプテンが決まった。


 二年生がチームをまとめる。


 私は副キャプテンになった。


 先輩がいた場所に、自分が立つ。


 最初は怖かった。


 でも。


「一本!」


 私は声を出した。


「ナイス!」


 後輩を励ます。


 ミスした子に声をかける。


 それを繰り返していく。


 ある日。


 一年生の莉子が落ち込んでいた。


「結衣先輩」


「どうしたの?」


「私、全然できません」


「最初はみんなできないよ」


「でも……」


「私も一年生のとき、全然できなかった」


「本当ですか?」


「本当」


「……先輩でも?」


「そうだよ」


 私は笑った。


「だから大丈夫」


 その言葉を言った瞬間。


 美月先輩の声が頭の中に蘇った。


 ――大丈夫。できるよ。


 私は先輩からもらった言葉を、今度は後輩に渡していた。



 部活を引退してからも、美月先輩とは連絡を取り合っていた。


 以前より会う回数は減った。


 でも、休日に会うことはあった。


 駅で待ち合わせる。


「お待たせ」


「先輩!」


「久しぶり」


「そんなに久しぶりじゃないですよ」


「そう?」


「この前会ったばかりです」


「そっか」


 そんな会話をする。


 一緒に昼ご飯を食べる。


 公園を歩く。


 本屋を見る。


 帰る。


 それだけ。


 でも私は、それが好きだった。


 ある日。


「結衣ちゃん」


「はい」


「最近、部活どう?」


「大変です」


「副キャプテンだもんね」


「はい」


「ちゃんと後輩見てる?」


「見てます」


「偉い」


「先輩みたいになりたいので」


「……」


 美月先輩が少し黙った。


「どうしました?」


「ううん」


「?」


「嬉しいなって思っただけ」


 先輩が笑った。


 その笑顔を見ていると。


 胸の奥が温かくなる。


 その頃からだった。


 私は先輩と会うたびに、少しだけ緊張するようになった。



 私は、少しずつ自分の気持ちに気づいていった。


 美月先輩から連絡が来ると嬉しい。


 会えると嬉しい。


 会えないと寂しい。


 先輩が誰かと楽しそうに話していると、なぜか胸がざわつく。


 そして。


 先輩が卒業することを考えると、怖かった。


 ある夜。


 私はスマートフォンを握ったまま、ベッドに寝転んでいた。


 美月先輩とのトーク画面。


 何気ない会話。


『今日もお疲れさま』


『先輩もお疲れさまです』


『明日頑張ってね』


『ありがとうございます』


 たったそれだけ。


 なのに、私は嬉しい。


 私は画面を閉じた。


 胸に手を当てる。


 ドキドキしている。


「……これって」


 私は呟いた。


「好きってことなのかな」


 答えは、すぐに出た。


 きっとそうだった。


 私は、美月先輩が好きだった。


 ただの先輩としてじゃない。


 一人の女の人として。


 私は先輩のことが好きだった。



 翌日の昼休み。


 私は美咲を呼び出した。


「美咲」


「ん?」


「相談がある」


「珍しい」


 美咲が弁当を置く。


「何?」


「……美月先輩のこと」


 美咲は一瞬黙った。


 そして。


「やっぱり」


「……」


「その話だと思った」


「知ってたの?」


「うん」


「いつから?」


「結構前」


「どのくらい?」


「一年生の終わりくらい」


「そんな前から?」


「だって分かりやすいもん」


「どこが?」


「先輩の話するときの顔」


「……」


「あと、先輩から連絡来ると明らかに機嫌よくなる」


「そんなに?」


「うん」


 私は顔を覆った。


「恥ずかしい……」


「今さら?」


「今まで隠せてると思ってた」


「全然」


「……」


 私は少し黙った。


「私、先輩のこと好きなんだと思う」


「うん」


「でも、怖い」


「何が?」


「女同士だから」


 美咲は少し考えた。


「私は正直、最初に聞いたらちょっと驚くと思う」


「……うん」


「でも、それだけ」


「それだけ?」


「うん」


「嫌じゃないの?」


「なんで嫌なの?」


「だって……」


「結衣が好きになった人が女の人だっただけでしょ」


「……」


「私は結衣の友達だから」


 美咲が笑う。


「それに、白石先輩ならいいと思う」


「どうして?」


「結衣があんなに大切に思ってる人だから」


 私は目を伏せた。


「……告白しようかな」


「うん」


「先輩、もうすぐ卒業だから」


「そうだね」


「あと二か月くらいしかない」


「じゃあ、後悔しないようにしたほうがいい」


「怖い」


「振られるのが?」


「それもある」


「じゃあ、一つだけ覚えておいて」


「何?」


「告白するのは、付き合ってもらうためだけじゃないよ」


「……」


「自分の気持ちをちゃんと伝えるためでもある」


 私は美咲を見た。


「……ありがとう」


「うん」


「私、頑張ってみる」


「頑張れ」



 それから数日。


 私は何度も告白する練習をした。


 鏡の前。


「先輩が好きです」


「……無理」


 顔が熱くなる。


 もう一度。


「美月先輩のことが好きです」


 また無理。


 スマートフォンで文章を打つ。


『今度会えませんか?』


 送信。


 すぐに返事が来た。


『うん。どうしたの?』


『少し話したいことがあります』


『分かった』


 約束の日。


 私は待ち合わせ場所に早く着いた。


 何度も時計を見る。


 そして。


「結衣ちゃん」


 美月先輩が来た。


「先輩……」


「待った?」


「いえ」


「そっか」


 私たちは公園のベンチに座った。


「それで、話って?」


「……」


 心臓がうるさい。


 私は何度も深呼吸した。


「先輩」


「うん」


「私……」


 声が震える。


「先輩のことが好きです」


 美月先輩が黙った。


「最初は、優しくていい先輩だと思ってました」


「うん」


「でも、いつの間にか」


 私は先輩を見た。


「先輩と話すのが嬉しくなって」


「……」


「先輩から連絡が来ると嬉しくて」


「……」


「会えないと寂しくて」


 涙が出そうになる。


「卒業するって考えたら、もっと寂しくて」


「結衣ちゃん……」


「私、美月先輩のことが好きです」


 言った。


 全部。


 伝えた。


 先輩はしばらく黙っていた。


 そして。


「……ありがとう」


「……」


「言ってくれて嬉しい」


 先輩の目が少し潤んでいた。


「私も、結衣ちゃんのことが好き」


「……本当ですか?」


「うん」


 私は息を呑んだ。


「私も、いつからか分からないけど」


 先輩が笑う。


「結衣ちゃんと話すのが一番楽しみになってた」


「先輩……」


「だから、嫌じゃない」


「……」


「むしろ、嬉しい」


 涙がこぼれた。


「よかった……」


「泣かないで」


「無理です」


 先輩が笑う。


「じゃあ、私も泣く」


「先輩まで……」


 二人で少し笑った。


 ただ。


 この日は、まだ「付き合おう」とは言わなかった。


 お互いに好きだと分かった。


 それだけで十分だった。


「じゃあ、今日は帰ろうか」


「はい」


「また連絡するね」


「はい」


 駅で別れる。


 私は何度も振り返った。


 先輩も振り返っていた。


 手を振る。


 私も振り返す。


 そして。


 先輩の姿が見えなくなった。


 私は一人になった。


 でも。


 心は、一人じゃなかった。



 翌朝。


 目が覚めて、一番最初に思った。


 ――昨日、告白したんだ。


 急に恥ずかしくなった。


 私はスマートフォンを手に取った。


 美月先輩からメッセージが来ている。


『おはよう』


『おはようございます』


『眠れた?』


『あまり眠れませんでした』


『私も』


 私は少し考えた。


『先輩も?』


『うん』


『どうしてですか?』


 送信したあと、少し後悔した。


 返事が来る。


『結衣ちゃんのこと考えてたから』


「……」


 私はスマートフォンをベッドに置いた。


「無理……」


 顔が熱い。


 昨日までなら普通に返せた言葉なのに。


 今は一つ一つが特別に感じる。



 三日目。


 私たちは学校帰りに少しだけ会った。


「こんにちは」


「こんにちは」


「……」


「……」


 二人とも黙る。


 そして。


「なんか変ですね」


 私が言った。


「うん」


 先輩も笑う。


「昨日まで普通に話してたのに」


「好きって分かってから会うと、こんなに緊張するんですね」


「私も同じ」


「先輩も?」


「うん」


「ちょっと安心しました」


「ふふ」


 先輩が笑う。


「結衣ちゃん」


「はい」


「この前、告白してくれたとき」


「はい」


「本当に嬉しかった」


「……私も、先輩が好きって言ってくれて嬉しかったです」


 少し沈黙する。


「でも」


 先輩が言った。


「ちゃんと考えたい」


「……はい」


「結衣ちゃんも、私も」


「分かりました」


「卒業する前に、曖昧なままにはしたくないから」


「はい」


 それから、私たちはゆっくり距離を縮めた。



 五日目。


 美月先輩から連絡が来た。


『今日、会える?』


『はい』


 公園で待ち合わせる。


 先輩は少し緊張した顔をしていた。


「結衣ちゃん」


「はい」


「この前のことなんだけど」


「はい」


「私、ちゃんと考えた」


 私は黙って聞いた。


「結衣ちゃんとこれからも一緒にいたい」


「……」


「学校が違っても」


「……」


「卒業しても」


「……」


「だから」


 先輩が私を見る。


「私と付き合ってください」


 胸がいっぱいになった。


「……はい」


「本当に?」


「はい」


「よかった」


 先輩が笑った。


 その笑顔を見た瞬間。


 私は、ようやく実感した。


 今日から。


 私たちは恋人なんだ。


「よろしくお願いします」


「こちらこそ」


 先輩が手を差し出す。


 私は少し迷ってから、その手を握った。


 温かかった。


 それだけで、嬉しかった。



 付き合い始めても、私たちは急に何かが変わったわけではなかった。


 私は部活がある。


 美月先輩はもう引退している。


 だから、部活のあとに少し会う。


 休日に出かける。


 メッセージをする。


 それくらいだった。


「今日の練習どうだった?」


「疲れました」


「キャプテンの仕事?」


「まだ副キャプテンです」


「そうだった」


「先輩、覚えてください」


「ごめん」


 二人で笑う。


 ある日。


「先輩」


「ん?」


「私、今日後輩に褒められました」


「何て?」


「『結衣先輩みたいになりたい』って」


「ふふ」


「笑わないでください」


「嬉しいなって思って」


「何がですか?」


「結衣ちゃんが、ちゃんと私からもらったものを次の子に渡してるんだなって」


「……」


 その言葉が嬉しかった。



 そして。


 卒業式の日が来た。


 私は在校生。


 美月先輩は卒業生。


 体育館に入る。


 去年まで、同じコートに立っていた人が。


 今日は卒業生の列にいる。


「白石美月」


「はい」


 名前が呼ばれる。


 先輩が返事をする。


 私は少しだけ胸が苦しくなった。


 でも。


 もう、以前とは違う。


 私たちは恋人だ。


 だから。


 卒業は別れではない。


 式が終わる。


 校門の前。


「先輩」


「結衣ちゃん」


「卒業、おめでとうございます」


「ありがとう」


「寂しいです」


「私も」


「でも、会えますよね」


「もちろん」


 先輩が笑った。


「だって、恋人なんだから」


「……はい」


 その言葉だけで、安心できた。


「これからもよろしくお願いします」


「こちらこそ」


「ずっと」


「うん」


 先輩は笑った。


 そして、卒業生の列へ戻っていった。


 私はその背中を見送った。


 寂しかった。


 でも、泣かなかった。


 だって。


 これで終わりじゃないから。



 春。


 私は三年生になった。


 入学式の日。


 体育館に新入生が並んでいる。


 二年前。


 私もここにいた。


 不安だった。


 何も分からなかった。


 そのとき。


 私は美月先輩を見つけた。


 今。


 私は三年生として、新入生を見ている。


 時間が経つのは早い。


 入学式が終わったあと。


 私は部活へ向かった。


 そして。


「今年からキャプテンは、橘に変えたいと思ってる」


 顧問の先生が言った。


「……私ですか?」


「そう」


 体育館にいたみんなが私を見る。


 美咲。


 菜月。


 杏。


 莉子。


 後輩たち。


 私は一度息を吸った。


「分かりました」


 拍手が起こる。


 私は頭を下げた。


「よろしくお願いします」


 キャプテン。


 その言葉が、まだ少し不思議だった。



 その夜。


 私は美月先輩に電話をした。


『もしもし?』


「先輩」


『どうしたの?』


「私……」


『うん』


「キャプテンになりました」


『……本当?』


「はい」


『おめでとう』


「ありがとうございます」


『すごいね』


「でも、ちょっと怖いです」


『うん』


「私にできるかな」


『できるよ』


「どうして即答なんですか」


『だって、私は知ってるから』


「何を?」


『結衣ちゃんがどれだけ頑張ってきたか』


 私は黙った。


『一年生のとき、何度も失敗して落ち込んでた』


「……」


『でも、そのたびに頑張った』


「……はい」


『二年生になったら後輩を教えるようになった』


「はい」


『今度は、チームを引っ張る番』


「……」


『結衣ちゃんなら大丈夫』


 胸が熱くなった。


「私、先輩みたいなキャプテンになりたいです」


『……』


「入学したときから、ずっとそう思ってました」


『ありがとう』


「でも」


『ん?』


「先輩が教えてくれたことを、そのまま真似するだけじゃなくて」


 私は笑った。


「私らしいキャプテンになりたいです」


 電話の向こうで、先輩が笑った。


『うん』


『それが一番いい』


「先輩」


『ん?』


「これからも見ててください」


『もちろん』


「ずっと」


『うん。ずっと』



 翌朝。


 私は誰よりも早く体育館へ入った。


 ボールを並べる。


 ネットを確認する。


 床を確認する。


 やがて、後輩たちが入ってくる。


「おはようございます、キャプテン!」


「おはよう」


 まだ、その呼ばれ方には慣れない。


「今日の練習は?」


「まずレシーブから」


「はい!」


 体育館に声が響く。


「お願いします!」


「一本!」


 ボールが飛ぶ。


 私は走る。


 声を出す。


 後輩を励ます。


 ミスした子に声をかける。


「大丈夫!」


「もう一本!」


「今の良かったよ!」


 その瞬間。


 ふと思った。


 ――昔、美月先輩もこうしていた。


 私が一年生だった頃。


 何度失敗しても。


 先輩は怒らなかった。


 何度落ち込んでも。


 先輩は「大丈夫」と言ってくれた。


 私はその言葉に何度も救われた。


 だから今度は。


 私が誰かに「大丈夫」と言う番だ。


 練習が終わる。


 みんなが帰っていく。


 私は最後に体育館を見渡した。


 この場所で。


 美月先輩と出会った。


 この場所で。


 一緒にバレーをした。


 この場所で。


 何度も笑った。


 泣いた。


 悔しがった。


 そして今。


 私はキャプテンになった。


 スマートフォンが震える。


 美月先輩からだった。


『キャプテン、今日もお疲れさま』


 私は笑う。


『先輩もお疲れさまです』


『今日どうだった?』


『大変でした』


『そっか』


『でも楽しかったです』


『よかった』


『私、ちゃんとキャプテンできてますか?』


 少しだけ不安になりながら送る。


 返事はすぐに来た。


『できてるよ』


『どうして分かるんですか?』


『結衣ちゃんだから』


『それ答えになってません』


『じゃあ、今度会ったときに教える』


『本当ですか?』


『うん』


『楽しみにしてます』


『私も』


 スマートフォンをしまう。


 体育館の扉を閉める。


 外に出る。


 春の風が吹いていた。


 桜の花びらが一枚、足元に落ちる。


 私はそれを見つめた。


 二年前。


 入学式の途中で見つけた、一人の先輩。


 あの人の笑顔を見たことから始まった。


 最初はただの憧れだった。


 優しい先輩。


 頼れるキャプテン。


 バレーを教えてくれる人。


 それだけだった。


 半年後。


 大会の打ち上げで偶然トイレに行くタイミングが重なった。


 そんな小さな出来事から。


 少しずつ距離が近づいていった。


 メッセージが増えた。


 一緒に帰ることが増えた。


 休日に会うようになった。


 そして私は、自分の気持ちに気づいた。


 二年生になって。


 先輩が引退して。


 私は先輩から教わったことを後輩に渡していった。


 そして。


 卒業二か月前。


 私は美咲に相談した。


 美咲はずっと前から気づいていた。


 少し驚きながらも。


 それでも、私の気持ちをそのまま受け止めてくれた。


 私は勇気を出して告白した。


 先輩も、私を好きだと言ってくれた。


 その日はまだ恋人にならなかった。


 次の日。


 三日目。


 五日目。


 少しずつ、お互いの気持ちを確かめた。


 そして。


 先輩が私に告白してくれた。


 私は「はい」と答えた。


 そこから二か月。


 私たちは恋人として過ごした。


 そして卒業式。


 先輩はこの学校を卒業した。


 でも。


 私たちは別れなかった。


 今も会える。


 今も話せる。


 今も好きだと言える。


 そして私は。


 三年生になった。


 キャプテンになった。


 美月先輩がかつて立っていた場所に、今度は私が立っている。


 不思議だった。


 でも。


 怖くはなかった。


 私には、先輩からもらったものがある。


 仲間がいる。


 そして。


 大切な人がいる。


 私は空を見上げた。


 青い空。


 入学式の日と同じような空だった。


 あの日の私は、これから何が起こるのか何も知らなかった。


 まさか。


 あの日見つけた先輩を好きになるなんて。


 まさか。


 その人と恋人になるなんて。


 まさか。


 その人からもらったものを、今度は自分が後輩に渡していくなんて。


 人生は、何が起こるか分からない。


 でも。


 私は、この道を選んでよかったと思う。


 スマートフォンを見る。


 新しいメッセージ。


『結衣ちゃん』


『はい』


『明日、会える?』


 私はすぐに返信した。


『会いたいです』


『よかった』


『私も会いたかったです』


『じゃあ、明日ね』


『はい』


 画面を閉じる。


 私は歩き出した。


 春の風が吹いている。


 桜が舞っている。


 その先には、まだ知らない未来がある。


 部活も。


 進路も。


 卒業も。


 その先の人生も。


 きっと、簡単なことばかりじゃない。


 それでも。


 私は大丈夫だと思えた。


 だって。


 私が大切にしたい人は、今も私の隣にいる。


 私が大好きな人は、これからも私のことを見ていてくれる。


 そして私も。


 その人をずっと大切にしていきたい。


 入学式の日に見つけた、憧れの先輩。


 私にバレーを教えてくれた人。


 私の弱さを知っている人。


 私の努力を見ていてくれる人。


 そして。


 私が初めて心から好きになった人。


 白石美月。


 私はその名前を、心の中でそっと呼んだ。


「また明日」


 春の空に向かって呟く。


 そして、私は歩いていく。


 新しい仲間たちと。


 大切な人と。


 これから始まる、私たちの未来へ。


 あの日の先輩と後輩だった二人は。


 今では恋人になった。


 そして私は。


 かつて憧れた先輩から受け取ったものを胸に。


 新しいチームのキャプテンとして。


 もう一度、この体育館でボールを追いかける。


 ――春は、まだ始まったばかりだった。


 そして。


 私たちの恋も、まだ始まったばかりだった。

最後まで読んでくださって、ありがとうございました。


この二人の話を書き終えて、なんだか少し寂しい気持ちになっています。


結衣と美月のことを「登場人物」として考えるというより、二人が本当にどこかの高校でバレーをしていたんじゃないか、と思ってしまうような感覚で書いていました。


入学式の日、たまたま体育館で美月を見つけた結衣。


最初はただの優しい先輩だったのに、一緒にバレーをして、話をして、少しずつ距離が近づいていって。


気づけば、お互いにとって特別な人になっていた。


きっと二人にとっては、特別な出来事ばかりだったわけじゃないんだと思います。


練習終わりの何気ない会話だったり、帰り道だったり、メッセージを送り合った夜だったり。


そういう小さな時間が積み重なって、二人の関係ができていったんじゃないかなと思っています。


美月が卒業して、結衣がキャプテンになったときも、二人の間にあるものは変わらない。


むしろ、そこからまた新しい時間が始まっていくんだと思います。


今頃二人は、卒業後もどこかで待ち合わせをして、一緒に笑っているのかもしれません。


そんなふうに思えるくらい、二人にはこの先もずっと幸せでいてほしいです。


ここまで二人の時間を見届けてくれて、本当にありがとうございました。

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