タイトル未定2026/03/08 01:10
東山の坂道は、午前の光を受けてやわらかく明るかった。
紅殻色の格子戸の続く町家の並びに、観光客の足音と笑い声がゆっくり溶けている。石畳はまだ少し湿っていて、歩くたびに靴の裏が小さく鳴った。
彩は前を歩きながら、いつもの調子で説明を続ける。
「金沢は古くからある街のため、まずは伝統工芸を基本として押さえておいた方がいいと思います」
言いながら、振り返る。その瞬間、少しだけ言葉が詰まった。
大樹の格好が、いつもと違う。会社ではきちんとしたジャケット姿なのに、今日はラフなシャツに細身のパンツ。袖を軽くまくっていて、風が吹くたび布が揺れる。
そして何より・・・。
ピンクの髪。
ハーフアップにまとめられて、すっとしたうなじが見えている。陽の光に当たると、淡く透けるような色になる。
彩は慌てて視線を前に戻した。仕事。今日は仕事。そう言い聞かせて、歩きながら続ける。
「・・・まずは、加賀友禅。加賀五彩と言われる五色をベースに写実的な草花模様が特徴です。外側から内側へぼかしが入ります。一番わかりやすいのは、葉が虫に喰われた跡を描く、虫喰い・・・」
「へぇ」
横で大樹が声を上げる。
「それ、いいですね」
「え?」
「虫に喰われた跡まで描くって」
大樹は町家の軒先を見上げながら言った。
「綺麗なところだけじゃなくて、そういう部分も残すんですね」
彩は少し驚く。
「・・・そうですね」
「なんか」
大樹は少し笑う。
「リアルですよね。そういうの」
思ったより、近い。
ちらりと見ると、大樹は日差しに目を細めながら歩いていた。その拍子に、うなじの線がはっきり見える。
近い・・・。
彩はまた視線を逸らした。
「刺繍や金箔はほとんど使いません。日本の金箔のほぼ100%を作っているにも関わらず・・・」
言葉は口から出ているのに、意識の半分は別のところにある。
その時。
大樹が、ふと立ち止まった。
「彩さん」
呼ばれて振り向く。
大樹は格子戸の前でしゃがみ、置いてある小さな工芸品を覗き込んでいた。
指先でそっとふれる。
その手に、彩の視線は吸い寄せられる。長い指。関節の骨がはっきりしているのに、動きは柔らかい。
綺麗な手・・・。
思った瞬間、自分で驚く。
「これ、さっき言ってたやつですか?」
無邪気な声。
「え?」
「虫喰い」
顔を上げた大樹が、楽しそうに笑っている。
「あ、いえ・・・それは加賀友禅の話で」
彩は少し慌てながら説明する。
「これは・・・多分、加賀象嵌の小物ですね」
「へぇ」
大樹はそれを光にかざして見た。
「細かいですね」
少し角度を変える。
「こういうのって、機械じゃないですよね?」
「はい。手仕事です」
「すごいな」
大樹は本当に感心したように言った。
そして、ふと笑う。
「彩さん、説明上手いですね」
「え?」
「街歩き、楽しいです」
あまりにも自然に言われて、彩は少し言葉に詰まる。
「・・・ありがとうございます」
大樹は立ち上がり、また歩き出した。髪が、風で少し揺れた。結んだピンクの毛先が、うなじに触れる。
・・・落ち着いて。いつも通り。冷静に。
「・・加賀象嵌、水引、二俣和紙・・・」
歩きながら説明を続ける。
東山の細い路地に入ると、観光客の声が少し遠くなった。
格子越しの影が石畳に落ちて、ゆらゆら揺れる。
大樹は楽しそうにあたりを見回している。
「いい街ですね」
「そうですね」
「なんか、時間ゆっくりじゃないですか」
その言葉に、彩は少し笑った。
「そうかもしれません」
ふと横を見る。大樹は相変わらず楽しそうで、まるで観光客みたいに路地を眺めながら歩いている。
「きちんと説明しながら歩くのって、結構大変ですよね」
彩は少し驚く。
「え?」
「ずっと話してるじゃないですか」
大樹は前を向いたまま、気軽な調子で続けた。
「俺、楽して聞いてるだけなんで」
その言い方が、あまりにも自然で、彩は少しだけ言葉を失う。
その沈黙に気づいたのか、大樹は振り向く。そして少し笑う。
「でも」
その目が、ほんの少し柔らかくなる。
「彩さんの説明、好きですよ」
風が吹く。ピンクの髪がふわりと揺れた。
彩の胸が、小さく鳴る。
ふいに、視線が合う。
その瞬間だけ。
いつもの軽い笑顔じゃない。
少しだけ静かな目。
まるで。
最初から、ずっと見ていたみたいな。
彩の胸が、どくんと鳴る。
「彩さん」
「はい?」
大樹は少し笑って言った。
「次、どこ行きます?」
また、いつもの明るい声に戻る。
彩は息を整えながら前を向く。
「・・・この先に、加賀毛針のお店があります」
大樹がすぐ横で「毛針?」と首を傾げる。
「・・・毛針は釣り用の疑似餌で・・・」
説明を続けながら、ふと大樹を見る。
「佐藤さん、釣りってしますか? 疑似餌って知ってます?」
「釣りは少しした事があります。楽しかったですよ」
その言い方が、子供みたいに素直で、彩は少しだけ笑いそうになるのをこらえた。
店は小さな町家だった。木の引き戸を開けると、鈴のような音が鳴る。
店の中には、細い針に色とりどりの羽が巻かれた毛針が整然と並んでいた。赤、黒、金、青。小さな工芸品のように美しい。
「江戸時代から続く伝統工芸で・・・」
彩が説明を続けようとした時だった。
「彩さん」
呼ばれて振り向く。
大樹がショーケースの前で何かを見つけていた。
「これ、見てください」
箱を持ち上げる。
中には孔雀の飾り羽を使ったチョーカーが入っていた。
青と緑が混じった深い色の羽が、光を受けて静かに輝いている。
次の瞬間。
「似合います?」
大樹は箱ごと顔の横に持ち上げて、にっと笑った。
彩は思わず吹き出しそうになる。
ピンクの髪。ハーフアップに結ばれた柔らかい毛先。その横に、孔雀の羽。色が、妙に合っている。
鮮やかなピンクと、深い青緑。
不思議なくらい映えていた。
彩は思わず口元を押さえる。
「・・・ふっ」
含み笑いが漏れる。思わず、おなかを押さえる。そこがぴくぴく痙攣して止めようとしても止まらない。
大樹が目を丸くする。
「そんな笑わなくても」
少しだけ膨れた顔をしてみせる。その表情がまたおかしくて、彩の肩が震える。
「いえ、あの・・・」
言い訳しようとするけれど、笑いが止まらない。
すると大樹がふっと笑った。
「そんなに楽しんでくれたのなら、買っていきます」
「え? あ、待って・・・」
彩が止める間もなく、大樹はレジに向かっていた。店主と軽く言葉を交わし、すぐに会計を済ませる。
「ちょっと」
彩が近づくころには、羽のチョーカーを取り出し、あっさり首につけてしまう。箱だけを紙袋に入れてもらっていた。
「え?」
孔雀の羽が喉元でふわりと揺れる。ピンクの髪と青緑の羽。
やっぱり、妙に似合う。
大樹は満足そうに笑った。
「さあ、次に行きましょう」
まるで何もなかったみたいに歩き出す。
彩は呆れながら、その後ろを追う。
観光客の声。遠くで三味線の音が聞こえる。
大樹は楽しそうに店を覗きながら歩いている。
孔雀の羽が歩くたび、軽く揺れる。
彩はその後ろ姿を見ながら思う。・・・本当に着ける人、初めて見た。
少し歩くと、浅野川の流れが見えてきた。川面は光を受けてきらきらしている。
梅の橋が静かに架かっていた。細い木の橋。淡い色の欄干。橋の上では、観光客がゆっくりと行き交っている。立ち止まって写真を撮る人、欄干にもたれて川を覗き込む人。
一人の女性が橋を渡りきると、木の板が小さく軋んだ。
大樹が足を止めた。
「綺麗ですね」
橋の向こうはこちら側とは別世界のように、10階建てほどの現代的なマンションが立ち並ぶ。
彩も大樹の隣に並ぶ。
川の水がさらさらと流れる音。風が少しだけ冷たい。
「ここ、梅の橋です」
そう言って、彩は少し振り向く。
「泉鏡花の義血侠血の舞台になっていて・・・」
大樹は川を見ていた。浅野川は、静かに流れている。ゆるやかで、穏やかで、どこか遠くへ続いていく。
首元で孔雀の羽が揺れている。その横顔が、少しだけ静かで。
彩の胸が、また小さく鳴る。
川面を渡る風が、ふわりと頬をかすめた。
「義血侠血って、どんな話なんですか?」
不意に、大樹が聞く。
彩は少しだけ驚く。
「・・・恋の話です」
そう言ってから、少しだけ言葉を選ぶ。
「想い合っているのに、結ばれない男女の物語で」
浅野川の水音が、細く続く。
大樹は「へぇ」と軽く頷く。
「切ないやつですね」
あっさりした声。
たぶん、深くは知らない。彩は小さく笑う。
「・・・そうですね」
梅の橋の上で、二人は並んで立っている。手を伸ばせばふれられる距離。
けれど。
浅野川の流れは同じ方向へ向かっているのに、すぐ隣を流れる水同士が混ざることはない。彩はふと思う。物語の中の二人も、きっとこんな風に並んで立つ瞬間があったのかもしれない。
まだ、何も起きていない頃。
何も知らないまま。
観光客の声は少し離れ、橋の上には穏やかな時間が漂っていた。
大樹は相変わらず川を眺めている。首元の孔雀の羽が、風に揺れていた。
彩はその横顔を見る。
そして、ほんの少しだけ思う。・・・この人は、知らない。
物語の結末も。
そして。こうして並んでいる時間が、どれだけ危ういものなのかも。
浅野川の水が静かに流れている。
その時だった。
「知ってます? 彩さん」
隣で、大樹が少しだけ顔を傾ける。
ピンクの髪が光を受けて柔らかく揺れ、首元の孔雀の羽がゆっくりと動く。
さっきまでの無邪気な笑顔とは違う。
少しだけ低く、落ち着いた目。
その視線が、ふっと彩に向いた。
まっすぐ。
逃げ道を探すみたいに、彩の心が一瞬だけ揺れる。見つめられているだけなのに、まるで距離を詰められているみたいだった。
「孔雀の飾り羽って、雄しかないんですよ?」
彩は一瞬、言葉を探す。
「それは知っていますが・・・?」
大樹がふっと笑う。
その笑い方が、どこか静かで。
そして。
ほんの少しだけ、距離が近づいた。
橋の上は広いのに、なぜか逃げ場がないように感じる。
大樹の視線は、まだ彩を見ている。
まるで。
反応を待っているみたいに。
次の瞬間。
大樹の声が、低く落ちる。
そのまま、ゆっくりと手が持ち上がる。
彩の視線が、思わずそこへ落ちた。
長い指。
大きな手。
まっすぐ、こちらへ伸びてくる。・・・ふれる。
そう思った瞬間。
大樹の手が、ぴたりと止まった。
ほんの、わずかな距離。
指先と指先のあいだに、ほんの数センチの空間。
風が吹く。
孔雀の羽が揺れる。
浅野川の水音だけが、橋の下で流れている。
彩の心臓が、うるさい。
逃げようと思えば逃げられる距離だった。
手を引けばいい。
半歩下がればいい。
それだけなのに。
体が動かない。
大樹は何も言わない。
ただ、彩を見ている。
静かに。
反応を待つみたいに。
その視線に捕まったまま。
彩は、息を呑む。
大樹の手が伸びる。
そっと、彩の手を取った。
「え・・・」
指先が触れた瞬間、彩の心臓が跳ねる。
温かい。大樹の手は思ったより大きくて、指が長い。
ふわりと包まれるだけなのに、逃げ場がないみたいに鼓動が速くなる。
「佐藤さん・・・?」
名前を呼ぶ声が少し震える。
大樹は彩の手を離さないまま、もう一方の手をゆっくり持ち上げた。
チョーカーの孔雀の羽に指先が触れる。羽を、そっと摘まむ。
青と緑の光が、風に揺れる。
「こうやって」
大樹の声が、低く落ちる。
その視線に捕まったまま、彩は息を呑む。
声は低く、穏やかで。
「羽を見せびらかす時って、ね」
大樹の目が細くなる。
「ちゃんと意味があるんですよ」
その視線が、まっすぐ彩に落ちる。
逃げられない距離。
「雄が羽を広げる時って」
ほんの少し笑う。
でも、その目は静かだった。笑っているのに。その視線は、彩から外れない。
風が吹く。
孔雀の羽が、ゆっくり揺れた。
視線だけが、まっすぐ彩に落ちる。
「・・・相手がいるんですよ」
その言葉が落ちた瞬間。
彩の胸が、大きく鳴る。
指先はまだ握られている。
浅野川の水の音が遠くなる。
近い。
近すぎる。
逃げなきゃ。
そう思うのに。
体が動かない。
大樹が、少しだけ首を傾ける。
そのまま、静かに言う。
「さっきの話」
「義血侠血」
浅野川の流れが、橋の下で続いている。
「結ばれない恋、でしたよね」
彩は小さく頷く。
「・・・彩さん」
同じように呼ばれているはずなのに、その呼び方が、さっきまでと違って聞こえた。
大樹は少しだけ笑った。
そして。
低く言う。
「俺」
大樹は視線を落とし、ゆっくり瞬きした後、まっすぐに見つめる。
「俺、そういうの」
一瞬だけ沈黙。
風が吹く。孔雀の羽が、ゆっくり揺れた。
大樹の指が、ほんの少しだけ強くなる。
逃がさないみたいに。
そして。
静かに言った。
「好きじゃないんですよ」
浅野川の水音だけが流れる。
「結ばれないまま終わる恋とか」
一歩だけ、距離が詰まる。
彩の呼吸が浅くなる。
大樹の瞳が、すぐ近くにある。
その奥に、さっきまで見えなかった色がある。
そして。
低く。
ゆっくり。
決定打が落ちる。
「・・・俺なら」
彩の手を握ったまま。
少しだけ引き寄せる。
距離が、もう逃げられないところまで近づく。
「終わらせないです」
その瞬間。
彩の理性がぐらりと揺れる。
だめ。
近い。
こんな距離で。
こんな目で見られたら。
離れなきゃいけないのに。
どうして。
どうして、この人は。
こんな顔をするの。
大樹はまだ彩を見ている。
静かに。
まっすぐ。
まるで。
もう答えを知っているみたいに。
読んでくださってありがとうございます(*_ _)
ポイントを入れてもらえると、嬉しいです。




