第8話:マンデーパニック再び
今朝見た時も、天気予報は曇り。降水確率は20%。
よし、傘はいらない。
この判断がすべて、と言える一日だった。
◇
あの一週間前の「公開処刑」から、ちょうど一週間、会社での俺の扱いは微妙に変わった。
天草ひよりとランチを共にした男として、一部からは英雄視され、一部からは嫉妬の視線を向けられている。
だが、あれから、当の本人とはエレベーターで一言二言交わしただけで終わったのが事実である。
「……平和だ」
俺は定時を少し過ぎたオフィスの窓から、外を眺めて呟いた。
先週のような波乱はない。
1週間で最も憂鬱な月曜日もあとわずか。
そう思って会社を出て、電車に揺られ、地元の最寄り駅に降り立った瞬間だった。
ザァァァァァッ!
バケツをひっくり返したような豪雨が、アスファルトを叩きつけていた。
いわゆる、ゲリラ豪雨というやつだ。
慌てて駅舎に戻った俺を嘲るように、空気を切り裂く稲光と轟音が辺りを覆った。
「なんじゃこりゃ……」
こんなことなら、タクシー乗り場がある駅にすればよかった。
もっとも、貧乏人には選択の余地なんかないが。
「ついてねーな……。やっぱり月曜日は鬼門か」
屋根のギリギリに立っていたものだから、スーツの裾が少し濡れてしまった。
天気予報では確かに曇りだった。
あの時の自分に教えてやりたい。その判断は間違いだと。
雨宿りをしているのは俺一人。
雨は弱まる気配がない。
数十メートル先のコンビニに行けば傘が買えるんだろうが、そこまでの間にどれだけの雨に晒されることだろうか。
途方に暮れていると、背後から一つの足音が近づいてくるのが聞こえた。
振り返ると、手には新品のビニール傘。
そして、その下には見覚えのあるシルエット。
ボサボサ気味の黒髪に、エンジ色の芋ジャージ。
足元はサンダル。
(あ、豆腐さん……)
こんな雨の中、出歩いているとは。
犬の散歩ではなさそうだ。スーパーの袋を提げている。
彼女は俺の横を通り過ぎようとして、雨宿りをしている俺に気づいたようだった。
ピタリと足が止まる。
ぺこり、と彼女が会釈をした。
「……あ、どうも」
俺も反射的に頭を下げる。
彼女は少し躊躇うような仕草を見せた後、トコトコと近づいてきた。
「あの……傘、ないんですか?」
黒縁メガネの奥の瞳が、心配そうにこちらを見ている。
Tシャツの文字は――おっと、今日はカーディガンを羽織っていて見えない。
だが、このジャージ姿は間違いなく彼女だ。
「ええ、やられちゃいました。こんなゲリラ豪雨、参っちゃいますね」
「どうなさるんですか?」
「とりあえず、コンビニで傘でも買おうかと思うんですけど、あそこまで行ってる間にずぶ濡れになっちゃいそうで」
「……あ、そうなんですね。よかったら、入ります? 」
彼女はビニール傘を少しこちらに差し出した。
女神だ。
格好は芋ジャージだが、後光が差して見える。
「いいんですか? 助かります」
俺は遠慮なく、その傘に入らせてもらうことにした。
ビニール傘の中に、二人。
距離が近い。
「すみません、なんか。見ず知らずの人間に」
「いえいえ。困った時はお互い様ですから」
雨音に紛れて、彼女の声がやけに近くに聞こえる。
——この声。金曜日のエレベーターで、耳を傾けてしまった、あの声色に似ている。
心臓が、答えを知っているかのように速くなった。
彼女はため息をつきながら、提げているスーパーの袋を見つめた。
中にはアイスクリームとお菓子が入っているのが透けて見える。
「兄に『アイス買ってこい』ってパシリにされまして……。出たらこの雨で、余計な出費でした」
「ああ、傘買ったんですか?」
「はい。家に何本もあるのに……兄に請求してやります」
彼女は「ふふっ」と少し悪戯っぽく笑った。
やっぱり、いい人だ。
兄思いの妹という感じがする。
天草ひよりと豆腐さんのパラメータが一致しすぎているという疑惑は、もはや疑惑ではなく確信に近づいている。
だが、この親しみやすさの前では、答え合わせを急ぐ気持ちすらかすんでいく。
その時だった。
ヒュオオオオッ!
ビル風が吹き抜け、突風が俺たちを襲った。
「きゃっ!」
彼女がよろめく。
傘が煽られ、雨が横殴りに吹き付ける。
彼女の長い前髪が、風で大きく舞い上がった。
同時に、彼女の手が傘を支えようとして動き――掛けていたアラレちゃんのような大きなメガネが、ずり落ちた。
街灯の明かりが、彼女の素顔を照らし出す。
濡れた前髪をかき上げる、白く細い指。
顕になった、濡れた長いまつ毛と、全てを慈しむような瞳。
そして、整いすぎている鼻筋と唇。
スローモーションのように、その映像が俺の網膜に焼き付いた。
その横顔は。
会社で毎日見ている、あの「高嶺の花」そのものだった。
クロスワードの最後の一マスが、雨音と共に埋まった。
「…………あ」
俺の足が止まる。
彼女も気づいて、慌ててメガネの位置を直そうとする。
だが、もう遅い。
風に煽られたカーディガンの隙間から、Tシャツの文字が露わになる。
そこには、力強い筆文字でこう書かれていた。
『味噌田楽』
「…………えっ」
彼女の動きも止まった。
メガネが斜めに掛かったまま、彼女は俺を見て固まっている。
その瞳に、動揺と絶望の色が広がっていくのが見えた。
雨の音だけが、やけに大きく聞こえる。
「……あま、くさ……さん?」
俺は震える声で、彼女が一番聞きたくないであろう名前を口にしてしまった。
彼女の口元が、引きつるように動く。
「…………はい」
小さな、消え入りそうな肯定。
それが、トドメだった。
俺は天を仰ぎたかったが、傘があるのでそれもできない。
脳内で、警報が鳴り響く。
やっぱりだ。
やっぱり、月曜日には何かが起きる。
またしても、月曜日の衝撃だった。
天気予報は、曇り。
降水確率20%だけは当たっていた。




