第7話:共通点
週末に差し掛かり、今週中の仕事を済ませようと、社内の空気も少し慌ただしさを増してくる。
俺もまた、溜まった書類仕事と格闘していた。
だが、正直に言えば、今週の俺はどこか上の空だった。
月曜の夜。スーパーで見た、あの「豆腐」Tシャツの女性。
火曜の夜。「定時退社」Tシャツで犬の散歩をしていた、同じ女性。
水曜の夜。コンビニ前で「冷やし中華」。おこげとの出会い。
三日連続で遭遇した「豆腐さん」のことが、ずっと引っかかっている。
別に、気になっているわけじゃない。
正確に言えば、気にはなっている。だが——良い匂いのする方を向いてしまう犬のようなもので、恋だの好きだの、そんな大仰な話じゃない。
純粋に、謎なのだ。答えのないクロスワードパズルを放置できない性分と同じだ。
あの高級マンション「エスポワール」に住んでいて、兄と犬と暮らしていて、筆文字Tシャツを着こなし(全く着こなせていないが)、犬の散歩のたびに俺と出会う女性。
謎が多すぎる。
そして、もう一つ。
水曜の夜、彼女が言ったあの言葉が妙に引っかかっている。
『……そ、その先輩も、案外……家では、ジャージとか着てるかもしれませんよ?』
あの時の挙動不審さ。
それまではポツポツと返事をするだけだったのに、急に繰り広げられた反論。
あれは何だったのか。
考えすぎか。
俺は首を振り、画面の見積書に目を戻した。
◇
金曜日恒例のミーティングを、満腹の眠気に負けずにどうにか終えて、俺は会議室ブースのある二階から、営業部へ戻るときのことだった。
下矢印のボタンを押して待っていると、空気だけを乗せて到着したエレベーターの扉が開いた。
乗り込んで「7」のボタンを押す。
扉が閉まりかけたその時、「あ、乗ります!」という声と共に、女性社員が二人、ノートパソコンを小脇に抱えて駆け込んできた。
「ありがとうございますー」
入ってきたのは、総務部の女性社員――名前は知らない――と、天草ひよりだった。
俺は慌てて「開」ボタンを押し続け、二人が乗り込むのを待つ。
「あ、大塚さん。すみません」
天草さんが俺に気づいて、軽く会釈をしてくれた。
一瞬だけ、その目がわずかに泳いだように見えた——が、すぐにいつもの微笑みに戻る。
俺は山ほどある数字ボタンの下にある「閉」を押しつつ、無言で頭を下げる。
二人は奥の方へ進み、何やら話し始めた。
俺はパネルの前で、空気のように気配を消して立ち尽くす。
扉が閉まり、エレベーターが上昇を始めるも、前の二人は会話を続けていた。
「話は変わるけど、ひよりちゃん。引っ越したんだって?」
同僚の女性が、世間話のトーンで切り出した。
「あ、うん。そうそう。やっと片付いてきたよ」
天草さんの声は、会社用のいつもの「よそ行き」の声ではないが、親しい同僚に向ける柔らかいものだった。
その声色に、どこかで聞いたような響きを感じて、俺は思わず耳を傾けていた。
「へえー、いいなー。一人暮らし? 寂しくない?」
「ううん、そんなことないよ。……兄もいるし、犬もいるから」
——え?
俺の耳がピクリと反応した。
今、「兄」と「犬」って言ったか?
「えっ、ワンちゃんいるの? いいなー! 何飼ってるの?」
「トイプードル。すっごく可愛いの」
——トイプードル。
その単語が鼓膜を震わせた瞬間、俺の背中がチリチリした。
一昨日の夜、コンビニの前で俺の足にじゃれついてきた、あのもふもふの感触。
『冷やし中華』のTシャツを着た、あの「豆腐さん」。
彼女も言っていた。
『再開発で立ち退きになって、兄のマンションに転がり込んだ』
『トイプードル』
情報が、あまりにも一致しすぎている。
心臓が嫌な音を立てて跳ねた。
「えー、トイプーちゃんいいなぁ」
天草さんが「えへへ」と照れたように笑う。
その笑い方。目尻が下がって、口元がふにゃりと崩れるその表情。
どこかで見たことがある気がして、記憶の底にある何かが指先に引っかかり始めていた。
「お兄さんが飼ってた犬ってこと? 兄妹仲良しだね」
「うん、まあ……。色々うるさいけど、根は優しいから」
色々うるさい兄。
『冷やし中華』のTシャツを妹にお下がりする兄。
『納豆』のTシャツを着て街を闊歩する兄。
全部、繋がってしまった。
パズルの最後のピースがはまるように。
(……まさか)
いやいや、そんなわけはない。
あの完璧超人の天草ひよりが、あんな『冷やし中華』なんてマヌケなTシャツを着て、夜な夜なコンビニに来るわけがない。
トイプードルなんて人気の犬種だし、兄がいるOLだって珍しくない。引っ越しだって、この時期ならあるだろう。
犬の名前もわからないし、違う要素なんていくらでも……というほどは出てこないが。
ポーン、と電子音が鳴り、七階に到着した。
楽しげに会話しながら、二人は降りていく。
「——あ、大塚さん。降りないんですか?」
天草さんが振り返った。
いつもの完璧な笑顔、澄んだよそ行きの声。隙のない、社内のアイドルの顔。
……豆腐さんの面影は、一ミリもない。
「あ、はい。すみません、ぼーっとしてました」
慌ててエレベーターを降りる。
天草さんは軽く微笑んで、同僚と一緒に総務部の方へ歩いていった。
◇
午後の仕事は、まるで頭に入らなかった。
見積書の数字を打ちながら、脳内では別のデータベースが全力稼働している。
こんなにも一致することがあるのか?
いや、一つも当てはまらない人が大多数だろう。
「偶然」と言い切るのは、もはや無理がある。
——もし本当に同一人物だとしたら。
あの「社内のアイドル」が、夜は芋ジャージで犬の散歩をして、筆文字Tシャツを着こなし(全く着こなせていないが!)、コンビニで俺と立ち話をしていることになる。
いや、冷静に考えれば、誰だって会社の顔とプライベートの顔は違う。
俺だって、会社では一応ネクタイを締めて真面目な顔をしているが、家に帰ればヨレヨレのスウェットでカップ焼きそばを啜っている。
天草さんにそういう「裏の顔」があったとしても、不思議ではない。
ただ、そのギャップが――
「完璧超人」と「冷やし中華」のギャップが、あまりにもデカすぎるだけで。
◇
定時を過ぎた。
金曜の夜は、普段なら真っ直ぐ家に帰る。
だが今日は、少しだけ遠回りをした。
コンビニの前を通る。
水曜日に豆腐さんと話した、あの場所だ。
当然、誰もいない。
毎晩同じ時間に散歩しているとは限らない。
答え合わせをしたくてたまらない子供か、俺は。
苦笑いがこぼれた。
ふと目線を下に送ると、コンビニの前のタイルに、小さな泥の足跡が残っている。
犬の肉球だ。小型犬の、ちょこちょこと歩いた跡。
おこげのものかどうかは分からない。
野良猫や、他の散歩犬かもしれない。
だが、俺はその足跡を見て、妙な確信を抱いた。
水曜の夜、コンビニの前で嗅いだ、あの甘い香り。
今日、エレベーターで天草さんとすれ違った時にも、同じ香りがした——ような気がする。
気のせいかもしれない。だが、一度結びついてしまった記憶は、もう解けない。
「……世の中、そんな偶然あるわけないよな」
呟きが、金曜の夜に溶けていった。
確証はない。名前まで聞いたわけじゃない。
だが、俺の中に芽生えた疑惑の種は、もはや無視できないほど大きく膨らみ始めていた。
来週の月曜日。
もし彼女に会ったら、確かめてみよう——なんて考えながら、俺はアパートの階段を上った。
鍵を開け、暗い部屋に電気をつける。
スマホの画面を見る。
天草さんからのLINEは、当然ない。
連絡先を交換しただけで、あのランチ以降、まともに会話もしていないのだから。
だが、不思議と寂しくはなかった。
月曜日から金曜日まで、こんなにも密度の濃い一週間は初めてだ。
元カノにフラれた週末の底なしの虚無感は、いつの間にか薄れていた。
代わりに、別の何かが胸の中で芽吹いている。
それが何なのか、今の俺にはまだ名前をつけられなかった。
スマホの画面端に置いてある天気予報のウィジェットが光った。
次の月曜日には雲のマークがついていた。




