第6話:犬の名は
水曜日の夜。
週の折り返し地点を過ぎ、少しだけ心の余裕ができた頃。
俺は小腹が空いたのを満たすため、Tシャツにジーパンというラフな姿で近所のコンビニへと向かった。
自動ドアをくぐろうとした、その時だった。
店の前で、何やら茶色いモフモフした塊が、猛スピードでこちらに突進してきた。
「わっ!?」
避けようとしたが間に合わない。
そのモフモフ――トイプードルは、俺の足元にじゃれつくように飛びついてきた。
尻尾をちぎれんばかりに振っている。
「ひゃああっ! おこげ、ダメ! 待て!」
慌てたような女性の声と共に、リードが引かれる。
だが、トイプードルはお構いなしに俺のデニムの裾に鼻を押し付けてくる。
「こら、おこげ! すみません、怪我はありませんか!?」
最後の方は声が裏返っていた。
無造作に結んだ髪。ダサめの黒縁メガネ。そして芋ジャージ。
見覚えがありすぎるその姿に、俺は一瞬言葉を失ったが、すぐに足元の犬に視線を戻した。
「ああ、大丈夫ですよ。元気な子ですね」
俺はしゃがみ込み、トイプードルの首元を優しく撫でた。
実家で柴犬の「ムギちゃん」を飼っていたから、犬の扱いは慣れている。
初対面の犬相手でも、敵意がないことを伝えるのは得意だ。
「よしよし、いい子だ。……おこげって言うのか?」
「へっ? あ、はい……。普段は人見知りするんですけど――」
彼女……例の「豆腐さん」は、不思議そうに瞬きをした。
だが、すぐに顔を伏せた。メガネのブリッジを指先で押し上げ、俺から視線を逸らすように犬の方を見ている。
まるで、顔を見られたくないかのような仕草だ。
俺の手の下で、おこげと呼ばれた犬は気持ちよさそうに目を細めている。
「俺、犬には好かれる体質なんですよ。実家でも飼ってたんで」
「……そう、なんですか」
短い返事。
彼女は安堵の息を吐き、ぺこりと頭を下げた。頭を下げている間も、メガネのフレームを片手で抑えていた。
「本当にすみません。飛びかかったりして」
「いえいえ、気にしないでください。……それにしても」
俺は立ち上がり、彼女の服装に視線を移した。
昨日の今日で、また会うとは。
しかも、今日のTシャツも期待を裏切らない。
『冷やし中華』
その文字を見た瞬間、俺の疑問の一つが氷解した。
(……もしかして)
昨日、彼女が高級マンションに入っていくのを見た時、「なんで今まで会わなかったんだ?」と不思議に思っていた。
一目見れば、二度と忘れられないほどのインパクト。
生活圏が同じなら、一度くらいすれ違っていてもおかしくないはずだ。
だが、この犬を見てピンときた。
犬の散歩コースが変わったのか、あるいは――
「最近、こっちに引っ越してきたんですか?」
俺は何気なく尋ねてみた。
彼女はびくりと肩を揺らした。メガネの奥の瞳がちらりとこちらを窺い、すぐにまた足元に落ちる。
「……はい。ちょっと、事情があって」
言葉を選ぶように、ぽつりぽつりと話す。
リードを持つ手が、きゅっと締まった。
「前のところが……再開発で、立ち退きになって。それで、兄の……兄のところに」
そこまで言って、口をつぐんだ。まるで喋りすぎたことを後悔するような間が空く。
やっぱりか。
謎が解けてスッキリした。
兄のマンション、ということは、あの高級マンションは彼女自身ではなく兄の持ち物ということか。
初めてちゃんと会話した気がするが、この人……とにかく目が合わない。
さっきからずっと伏目がちで、視線はおこげか自分の足元か、とにかく俺の顔以外のどこかに向いている。
会話は成立しているが、どこか落ち着きがない。
「へえ、お兄さんと二人暮らしですか。仲が良いんですね」
「……まあ、そう、ですね。……この服も、兄の、お下がりで」
彼女は『冷やし中華』の文字をちらりと示したが、すぐに腕を引っ込めた。メガネのつるを指先でいじりながら、視線を泳がせている。
「兄の趣味で、こういうのがたくさんあって……。楽なんで、つい」
「なるほど、お兄さんの……」
どんな兄だ。
妹にこんなTシャツを譲る兄も兄なら、それを着てあんな高級マンションから犬の散歩に出てくる妹も妹だ。
だが、犬の散歩というのはいい口実だ。ジャージ姿でも「散歩のついで」と言い訳ができる。
「なんか、いいですね」
俺は思わず、本音を漏らしていた。
犬の散歩とはいえ、飾らない緩さがとても心地よかった。
初めて肉売り場で見た殺伐モードと違い、普段の姿はさほど肉食系ではなかったようだ。
「俺が働いてる会社だと、みんな鎧着て戦ってるみたいな人ばかりなんで。犬と自然に戯れてるっていうか、こういう力の抜けた雰囲気、いいなと思って」
「……鎧」
彼女がぽつりと呟いた。メガネの奥の瞳が、一瞬だけ鋭くなったように見えた。
だが、すぐにまた伏目に戻る。
足元ではおこげが鼻をスンスンと鳴らしながら、俺の靴の匂いを嗅いでいる。
「ええ。特にうちの会社の美人な先輩なんて完全武装って感じで、俺にはまぶしすぎちゃうというか」
天草ひよりの完璧な笑顔が脳裏をよぎる。
あの隙のない美しさは確かに魅力的だが、同時に人を寄せ付けない壁のようにも感じる。
「…………」
俺の言葉に、彼女が不自然に固まった。
手の中のリードをきゅっと握りしめている。
メガネの奥の瞳が、泳ぐように視線を彷徨わせている。
「……そ、その先輩も、案外……家では、ジャージとか着てるかもしれませんよ?」
「いやいや、まさか。 想像つかないですねー」
ありえない。
天草ひよりが『冷やし中華』を着て犬の散歩をしている図なんて、想像しただけで笑えてくる。
俺が一笑に付すと、彼女は口元を引きつらせて、曖昧に笑った。
「そ、そうですね……あはは……」
なぜか彼女は、少し居心地が悪そうに身じろぎをした。
おこげが「わふっ!」と一声鳴いた。空気を読んだのかもしれない。
「すみません。 お散歩のお邪魔しちゃって」
「いえ、こちらこそすみませんでした。じゃあ、行こうか、おこげ」
彼女はリードを軽く引いた。
おこげは名残惜しそうに俺を一度振り返ったが、大人しく飼い主に従って歩き出した。
その背中の『始めました』の文字が、街灯の下で揺れている。
表の『冷やし中華』には続きがあったのか。
俺はその不思議な光景を見送りながら、なんとなく温かい気持ちになった。
(……いいな、犬)
まさか「豆腐さん」との共通点が見つかるなんて思ってもみなかった。
ただ、終始どこか落ち着きがなかったのは気になる。目も合わせてくれなかったし。
人見知りなのか、それとも俺が怖かったのか。
まあ、夜道で知らない男に声をかけられたら警戒するのが普通か。
そんなことを思いながら、俺はコンビニの自動ドアをくぐった。




