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マンデーパニック! 〜変なTシャツと犬、ちょっとだけ勇気。会社のアイドルと二人で月曜日が楽しくなるまでの物語〜  作者: ゆゆこりん


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5/8

第5話:グランドレジデンス・エスポワール


 火曜日。

 この日は、決して平穏ではなかった。


 夕方四時。そろそろ今日の業務の整理に入ろうかという矢先、クライアントからの緊急修正依頼が飛び込んできたのだ。しかも、「明日朝イチまで」という無慈悲な期限付きで。

 営業部のフロアに、怒号とため息が交錯する。

 そこからの記憶は、キーボードを叩く指の感覚と、減っていくコーヒーの残量くらいしかない。


 気づけば、時刻は二十一時を回っていた。

 オフィスの空調が止まり、生温い空気が漂い始めた頃、ようやく俺は解放された。


 重たい鞄と、それ以上に重たい体を引きずりながら、俺は最寄り駅からの夜道を歩いていた。

 肩は鉄板が入ったように凝り固まり、ドライアイで目がシパシパする。


「……はぁ。定時で帰りたかった」


 誰もいない住宅街の夜道に、虚しい独り言が漏れる。

 昨日の「豆腐」や「納豆」の衝撃も薄れるほどの、圧倒的な疲労感。

 ふと、前方から軽やかな足音が聞こえてきた。


 ザッ、ザッと、アスファルトを踏む足音。

 それと同時に、チャッ、チャッ、という小さな爪音も混じっている。


 顔を上げると、街灯の下を歩く一人と一匹の姿があった。

 散歩中の犬――おそらくトイプードルだ。

 そして、その飼い主の姿に、俺の眠たい目が釘付けになった。


 無造作に結んだ黒髪。

 そして、あの見覚えのある「芋ジャージ」。


「……まさか」


 目を疑った。

 昨日の「豆腐女」だ。

 だが、昨日のような生活感あふれる買い物帰りではない。

 愛犬を連れて、優雅に夜の散歩を楽しんでいる。


 関わりたくない。

 そう思って視線を逸らそうとした瞬間、Tシャツの中央にプリントされた文字が、夜の闇に白く浮かび上がり、俺の死んだ目に強烈なアッパーカットを叩き込んできた。


『定時退社』


「……ぐはっ」


 物理的な衝撃を受けたかのように、俺はよろめいた。

 今の俺が、世界で最も渇望し、そして手に入らなかった四文字熟語。

 力強い筆文字。達筆すぎて、逆に煽られているようにさえ見える。

 それを背中に背負い、犬と戯れる余裕。


 昨日の今日で、なんだこの仕打ちは。

 神様は俺の精神を試しているのだろうか。


「……羨ましすぎるだろ」


 昨日は「変な人」という印象しかなかったが、今日ばかりは彼女が人生の勝者に見える。

 定時に退社して、明るい時間に帰宅し、ジャージに着替えてリラックスし、愛犬と散歩する。

 そんな、「丁寧な暮らし」とまでは言わないが、人間として当たり前の日常。

 それが、今のボロ雑巾のような俺には、直視できないほど眩しい。


 彼女はT字路の信号待ちで止まった。

 トイプードルがお行儀よく彼女の足元にお座りする。

 どうやら俺と同じく、通りを渡った向こう側が目的地のようだ。

 

 信号が変わり、彼女が歩き出す。

 俺も続く。

 ストーカーだと思われないよう、距離を詰め過ぎず、開けすぎずの距離感で歩く。


 そして、運命の――いや、残酷な格差を見せつけられる瞬間が訪れた。


 彼女が犬に連れられて入っていったのは、この界隈でも有名な高級デザイナーズマンション『グランドレジデンス・エスポワール』だった。

 コンクリート打ちっ放しのスタイリッシュな外観。エントランスには柔らかな間接照明が灯り、高級ホテルのような雰囲気を醸し出している。

 オートロックの操作盤の前に立つ彼女の背中は、芋ジャージであるにもかかわらず、どこか誇らしげに見えた(『定時退社』の文字のせいかもしれないが)。


 ウィーン、と静かな音を立てて重厚なガラスドアが開く。

 彼女とトイプードルのペアは、吸い込まれるように中へと消えていった。


「うっそだろ」


 俺はポカンと口を開けて立ち尽くした。

 あんなハイグレードなマンションに、あんな個性的なジャージ住民が?

 しかも、ペット可だと?

 この辺りでペット可の物件なんて、家賃がさらに跳ね上がるはずだ。

 いや、これほどのマンションが賃貸なわけがないか。


 ふと、自分の視線をさらに先へと向ける。

 ここからマンションを一つ挟んだ、二軒隣。

 そこに申し訳なさそうに佇んでいるのが、俺の住処『コーポ日向』だ。

 築三十年、木造二階建て。

 壁は薄く、隣の部屋のくしゃみすら聞こえてくる。もちろんペットなんて厳禁だ。


「……ハッ」


 乾いた笑いが出た。

 通りの右側は、定時退社で犬と暮らす優雅なマンションライフ。

 左側は、残業明けで孤独な薄壁アパート暮らし。


 同じ地域、同じ最寄り駅、同じ帰り道。

 なのに、わずか数軒隣というだけで、そこには見えない「分厚い壁」がそびえ立っていた。


「いいとこ住んでんなぁ、あの豆腐さん(・・・・)


 俺は羨望と少しの妬みを込めて、"さん付け"で呼んでみた。

 まあ、今の俺には関係のない世界だ。住む世界が違うとは、まさにこのことだ。


 俺は重たい足取りで、錆びついた階段を上り始めた。

 カン、カン、と安っぽい足音が響く。ギシギシと悲鳴を上げる鉄骨の音が、俺の疲れた心に沁みる。


 部屋に入り、明かりをつけた。

 ユニットバスの狭い浴槽と、殺風景な六畳間。

 昨日の残りの酒の缶がテーブルに転がっている。

 冷蔵庫を開けると、賞味期限の怪しい卵と、缶ビールが一本だけ入っていた。


「今日はこれとカップ麺でいいか」


 俺は電気ケトルに水を入れ、スイッチを押す。

 お湯が沸くまでの間、カーテンを開けて窓の外を見た。

 

 マンション一つ挟んだ先にある、高級マンション。

 その高層階を見上げる。

 スタイリッシュな外観の遥か上空に、温かな光が灯っている。

 夜空に浮かぶような、無数に輝く窓明かり。

 その中の一つが、あの"豆腐さん"の部屋から生まれているものなのだ。


 きっとあの中で、彼女は『定時退社』のTシャツを着たまま、愛犬を膝に乗せ、優雅に高いワインでも飲んでいるに違いない。

 俺がここで、3分待ったカップ麺の蓋をめくっている間に。


 湧いたお湯を注ぎ、立ち昇る湯気を見つめる。

 醤油の匂いが、空腹の胃袋を刺激するはずなのに、なぜか今日は少し寂しい。

 

 俺はズルズルとカップ麺をすすり、少し伸びた麺を噛み締めながら誓った。

 

「いつか俺も……定時退社してやる」

「そして、犬が飼えるマンションに住んでやる」


 それが、今日の残業戦士である俺にできる、精一杯の反抗だった。


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― 新着の感想 ―
 定時退社とペット可は、全然別のベクトル…(^^;)  疲れてるねぇ。
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