第5話:グランドレジデンス・エスポワール
火曜日。
この日は、決して平穏ではなかった。
夕方四時。そろそろ今日の業務の整理に入ろうかという矢先、クライアントからの緊急修正依頼が飛び込んできたのだ。しかも、「明日朝イチまで」という無慈悲な期限付きで。
営業部のフロアに、怒号とため息が交錯する。
そこからの記憶は、キーボードを叩く指の感覚と、減っていくコーヒーの残量くらいしかない。
気づけば、時刻は二十一時を回っていた。
オフィスの空調が止まり、生温い空気が漂い始めた頃、ようやく俺は解放された。
重たい鞄と、それ以上に重たい体を引きずりながら、俺は最寄り駅からの夜道を歩いていた。
肩は鉄板が入ったように凝り固まり、ドライアイで目がシパシパする。
「……はぁ。定時で帰りたかった」
誰もいない住宅街の夜道に、虚しい独り言が漏れる。
昨日の「豆腐」や「納豆」の衝撃も薄れるほどの、圧倒的な疲労感。
ふと、前方から軽やかな足音が聞こえてきた。
ザッ、ザッと、アスファルトを踏む足音。
それと同時に、チャッ、チャッ、という小さな爪音も混じっている。
顔を上げると、街灯の下を歩く一人と一匹の姿があった。
散歩中の犬――おそらくトイプードルだ。
そして、その飼い主の姿に、俺の眠たい目が釘付けになった。
無造作に結んだ黒髪。
そして、あの見覚えのある「芋ジャージ」。
「……まさか」
目を疑った。
昨日の「豆腐女」だ。
だが、昨日のような生活感あふれる買い物帰りではない。
愛犬を連れて、優雅に夜の散歩を楽しんでいる。
関わりたくない。
そう思って視線を逸らそうとした瞬間、Tシャツの中央にプリントされた文字が、夜の闇に白く浮かび上がり、俺の死んだ目に強烈なアッパーカットを叩き込んできた。
『定時退社』
「……ぐはっ」
物理的な衝撃を受けたかのように、俺はよろめいた。
今の俺が、世界で最も渇望し、そして手に入らなかった四文字熟語。
力強い筆文字。達筆すぎて、逆に煽られているようにさえ見える。
それを背中に背負い、犬と戯れる余裕。
昨日の今日で、なんだこの仕打ちは。
神様は俺の精神を試しているのだろうか。
「……羨ましすぎるだろ」
昨日は「変な人」という印象しかなかったが、今日ばかりは彼女が人生の勝者に見える。
定時に退社して、明るい時間に帰宅し、ジャージに着替えてリラックスし、愛犬と散歩する。
そんな、「丁寧な暮らし」とまでは言わないが、人間として当たり前の日常。
それが、今のボロ雑巾のような俺には、直視できないほど眩しい。
彼女はT字路の信号待ちで止まった。
トイプードルがお行儀よく彼女の足元にお座りする。
どうやら俺と同じく、通りを渡った向こう側が目的地のようだ。
信号が変わり、彼女が歩き出す。
俺も続く。
ストーカーだと思われないよう、距離を詰め過ぎず、開けすぎずの距離感で歩く。
そして、運命の――いや、残酷な格差を見せつけられる瞬間が訪れた。
彼女が犬に連れられて入っていったのは、この界隈でも有名な高級デザイナーズマンション『グランドレジデンス・エスポワール』だった。
コンクリート打ちっ放しのスタイリッシュな外観。エントランスには柔らかな間接照明が灯り、高級ホテルのような雰囲気を醸し出している。
オートロックの操作盤の前に立つ彼女の背中は、芋ジャージであるにもかかわらず、どこか誇らしげに見えた(『定時退社』の文字のせいかもしれないが)。
ウィーン、と静かな音を立てて重厚なガラスドアが開く。
彼女とトイプードルのペアは、吸い込まれるように中へと消えていった。
「うっそだろ」
俺はポカンと口を開けて立ち尽くした。
あんなハイグレードなマンションに、あんな個性的なジャージ住民が?
しかも、ペット可だと?
この辺りでペット可の物件なんて、家賃がさらに跳ね上がるはずだ。
いや、これほどのマンションが賃貸なわけがないか。
ふと、自分の視線をさらに先へと向ける。
ここからマンションを一つ挟んだ、二軒隣。
そこに申し訳なさそうに佇んでいるのが、俺の住処『コーポ日向』だ。
築三十年、木造二階建て。
壁は薄く、隣の部屋のくしゃみすら聞こえてくる。もちろんペットなんて厳禁だ。
「……ハッ」
乾いた笑いが出た。
通りの右側は、定時退社で犬と暮らす優雅なマンションライフ。
左側は、残業明けで孤独な薄壁アパート暮らし。
同じ地域、同じ最寄り駅、同じ帰り道。
なのに、わずか数軒隣というだけで、そこには見えない「分厚い壁」がそびえ立っていた。
「いいとこ住んでんなぁ、あの豆腐さん」
俺は羨望と少しの妬みを込めて、"さん付け"で呼んでみた。
まあ、今の俺には関係のない世界だ。住む世界が違うとは、まさにこのことだ。
俺は重たい足取りで、錆びついた階段を上り始めた。
カン、カン、と安っぽい足音が響く。ギシギシと悲鳴を上げる鉄骨の音が、俺の疲れた心に沁みる。
部屋に入り、明かりをつけた。
ユニットバスの狭い浴槽と、殺風景な六畳間。
昨日の残りの酒の缶がテーブルに転がっている。
冷蔵庫を開けると、賞味期限の怪しい卵と、缶ビールが一本だけ入っていた。
「今日はこれとカップ麺でいいか」
俺は電気ケトルに水を入れ、スイッチを押す。
お湯が沸くまでの間、カーテンを開けて窓の外を見た。
マンション一つ挟んだ先にある、高級マンション。
その高層階を見上げる。
スタイリッシュな外観の遥か上空に、温かな光が灯っている。
夜空に浮かぶような、無数に輝く窓明かり。
その中の一つが、あの"豆腐さん"の部屋から生まれているものなのだ。
きっとあの中で、彼女は『定時退社』のTシャツを着たまま、愛犬を膝に乗せ、優雅に高いワインでも飲んでいるに違いない。
俺がここで、3分待ったカップ麺の蓋をめくっている間に。
湧いたお湯を注ぎ、立ち昇る湯気を見つめる。
醤油の匂いが、空腹の胃袋を刺激するはずなのに、なぜか今日は少し寂しい。
俺はズルズルとカップ麺をすすり、少し伸びた麺を噛み締めながら誓った。
「いつか俺も……定時退社してやる」
「そして、犬が飼えるマンションに住んでやる」
それが、今日の残業戦士である俺にできる、精一杯の反抗だった。




