第4話:豆腐さん
月曜日の帰り道。
駅の階段を降りる俺の足取りは、昨日までの泥のような重さに比べれば、幾分マシになっていた。
だが、決して明るいわけではない。むしろ、心の奥底で警報が鳴り響いているような、落ち着かない気分だった。
「……何が起きてるんだ、一体」
ポケットの中のスマホには、今日のお昼に交換したばかりの「彼女」の連絡先が入っている。
天草ひより。わが社のアイドル。
そんな高嶺の花とランチを共にし、あまつさえ連絡先まで交換してしまった。
普通の男だったら、ワールドカップでゴールを決めた選手ばりに喜んで、ガッツポーズの一つも決めるところだろう。
だが、俺は知っている。
ウマい話には裏がある。
突然のモテ期なんてものは、都市伝説か、あるいは新手の詐欺の前触れだ。
「人生、そんなに甘いわけがない」
木曜日、彼女に一方的にフラれ、どん底を味わったばかりだ。
あの時もそうだった。幸せの絶頂だと思っていた瞬間、奈落の底に突き落とされた。
もう、あんな思いはごめんだ。
期待するから痛い目を見る。女なんて信用しない。
あの天草さんの笑顔だって、俺みたいなモブ社員を上手く使うための処世術かもしれないのだ。俺は、都合の良い「便利屋」ポジションに収まっただけだ。
「……こういうときは、肉だな」
考えるのをやめたくて、駅近くのスーパーへと進路を取った。
駅からは家の反対側にあるのだが、精神力を削られた月曜日だ。
ちょっとぐらい遠回りしたって、何か美味いものでも食わないとやっていられない。
自動ドアを抜け、冷房の効いた店内へ入る。
夜のスーパーは混雑しており、主婦たちや仕事帰りのサラリーマンでごった返していた。
すれ違う人々が、能天気な顔をしているように見えて少し腹が立つ。
やさぐれているな、と自嘲しながら、俺は精肉コーナーへ向かった。
今日の特売品である国産牛のステーキ肉。
残り少ないパックに手を伸ばそうとした、その時だった。
隣に、すっと一人の人影が立った。
俺と同じく、肉のパックを狙っているようだ。
邪魔だな、と思いながら横目で睨んで、俺の思考は停止した。
「……は?」
二度見した。
いや、自分の目を疑った。
そこに立っていたのは、若そうな女性だった。
だが、その出で立ちが凄まじい。
髪を適当に一つに結び、顔の半分を覆うような、ダサい黒縁メガネをかけている。
下は高校のジャージだろうか、毛玉だらけの芋色のズボン。
極め付けは、Tシャツだ。
ヨレヨレの白Tシャツの胸元に、筆文字でデカデカと自己主張している。
『豆腐』
(……なんだあれは)
心の中で突っ込む気力すら失った。
豆腐。
あまりに直球すぎるメッセージ。
無駄に達筆な「腐」の字が、今の俺の腐りきった気分と妙にリンクする。
(関わらないでおこう。世の中、地雷だらけだ)
彼女は真剣だった。
黒縁メガネの奥の瞳が、血走った獣のように値引きシールを睨みつけているように見える。
その鬼気迫るオーラには、近づいてはいけない「ヤバさ」が漂っていた。
俺はそっと、その妖怪・豆腐女から一番遠い場所にあるパックを手に取り、逃げるようにその場を離れた。
缶チューハイと明朝朝ご飯用のパンをカゴに入れ、会計を済ませようとレジに並んだ。
そして、コード決済の準備を始めた時、前の客が、財布から小銭をばら撒いた。
チャリーン、と乾いた音が響く。
「あ、すみません……」
こいつは、さっきの豆腐Tシャツ女じゃないか。
並ぶ時に前をよく見ずに列を決めてしまった。
彼女はペコペコと頭を下げながら小銭を拾い、逃げるように会計を済ませていった。
「……関わらないでおこう」
スーパーを出ると、外は薄暗くなっていた。
早く帰って、この不条理な遭遇を忘れよう。
そう思って、アパートへの道を急いでいたときだった。
向こうから、コンビニ袋を下げた長身の若い男が歩いてくる。
ヒョロリとした体型に、ボサボサの髪。
そして。
『納豆』
すれ違いざま、俺は我が目を疑った。
男の黒いTシャツの胸元に、白文字で力強く書かれたその二文字。
フォントが、さっきの『豆腐』と同じだ。
「……え?」
俺は思わず振り返った。
男は気にする素振りもなく、ずんずんとスーパーの方へと歩いていく。
「豆腐の次は、納豆……?」
どうなっているんだ。
この辺りで、大豆製品を胸に掲げるのが流行っているのか?
「……いや、マジで関わらないでおこう」
俺は首を振り、足を速めた。
スーパーには豆腐の妖怪。そして、道端には納豆男。
訳のわからないカオスな状況に、ふと、思考がネガティブな方向へと滑り落ちる。
元カノの顔が、また脳裏をよぎったのだ。
「……はあ、気が滅入るな」
ズキリと胸が痛む。
自分は誰かの一番にはなれない。大切にされない。
そんな自己嫌悪が、黒いインクのように心に広がる。
「天草さんが『豆腐』着てたら……世界が崩壊するな。ついでにあの納豆が彼氏とかだったら、宇宙が消滅する」
そんなブラックジョークを思い浮かべ、乾いた笑いを漏らす。
ありえない。
あの完璧なアイドルと、さっきの妖怪たちが同じ世界の住人だなんて。
俺は独り身の気楽な部屋に帰るべく、足早に家路についた。




