第3話:天草ひより
オフィス街にある、少し小洒落たイタリアンレストラン。
その奥まったテーブル席で、俺は借りてきた猫……いや、捕獲された宇宙人のように縮こまっていた。
「あの……大塚さん、顔色が悪いようですが」
「い、いえ! 全然! 快調です! 眠気も吹き飛びました!」
嘘だ。
心臓は早鐘を打ち、胃はキリキリと痛み、冷や汗が止まらない。
目の前には、パスタを上品に巻き取る天草ひより。
そして周囲には、事情を知らない客たちの「なんであの冴えない男が美女と?」という好奇の視線。
まさに針の筵だ。
ただでさえ大した舌を持ち合わせていないのに、今の過度な緊張状態で味などわかるはずもない。
ごめんよ、お昼ご飯。
(絶対に怒られる……。あるいは『金輪際関わるな』という警告か……?)
(それとも、エース先輩のファンクラブ的な組織からの刺客か!?)
ネガティブな妄想が暴走する俺をよそに、天草さんはパスタを食べ終え、アイスティーに口をつけた。
そして、ふぅ、と小さく息を吐いてから、まっすぐに俺を見た。
「あの、金曜日は……ありがとうございました」
彼女は深々と頭を下げた。
「はっ?」
間抜けな声が、俺の口から勝手に漏れた。
罵倒されると思っていたのに、感謝された?
「え、あ、いや、感謝されるようなことは何も……むしろ俺、とんでもない暴言を……」
「いいえ。助けていただいた上に、私が言えなかったことを……代弁してくださって」
顔を上げた彼女の表情は、いつもの「完璧なアイドルの笑顔」ではなかった。
少し困ったような、でもどこか安堵したような、人間味のある柔らかな表情だった。
「私、ずっと困っていたんです。早乙女さんの誘いを断りきれなくて」
「あー……まあ、あの人、強引そうですもんね」
「はい。断ると機嫌を損ねて、仕事に支障が出そうで……。周りの目もあって、笑って誤魔化すしかなかったんです」
彼女は視線を少し落とし、グラスの水滴を指先でなぞった。
「だから、実のところ、大塚さんが言ってくださって本当にスカッとしちゃったんです。『顔に書いてある』って」
「いや、あの、俺も酔ってて暴言を……『邪魔だ帰れ』とか、失礼なことを」
「……いえ、本当のことですから」
彼女はくすりと笑った。
「私、笑顔で隠せてると思ってたんですけど……大塚さんにはバレバレだったみたいですね」
少し恥ずかしそうに微笑むその顔を見て、俺の心臓が大きく跳ねた。
社内報の表紙で見るキメ顔よりも、遠くから眺める完璧な笑顔よりも、今の無防備な表情の方が、ずっと魅力的に見えた。
(あれ、この人、こんな風に笑うんだ……)
俺の中の「高嶺の花」というイメージが崩れ、「等身大の女の子」としての天草ひよりが、急速に俺の心に入り込んできた。
「あの、もしよろしければ……」
彼女はバッグからスマホを取り出した。
「連絡先、交換させていただけませんか?」
「えっ!? 俺と、ですか!?」
「はい。もしまた先輩に絡まれたら、助けてもらってもいいですか? 私、断るのが苦手で……大塚さんがいてくれると心強いんです」
上目遣いでそう言われて、断れる男がこの世にいるだろうか。
いや、いない。
「あ、はい! 俺でよければ! いくらでも盾になります!」
「ふふ、頼もしいです」
ふるふる震える手でQRコードを読み込む。
画面に『天草ひより』の名前が表示された瞬間、俺は卒倒しそうになった。
改めて考えると、信じられない状況だ。
天草ひよりと言えば、社内の男どもが束になってアプローチしても、あの隙のない微笑みでやんわりと全員あしらってきた女だ。新入社員から幹部クラスまで、撃墜された男の数は両手じゃ足りないと聞く。
俺なんかとは住む世界が違う、絵に描いたような高嶺の花。
その彼女が、さっきまで俺の前で少しだけ頬を染めて、困ったように笑っていたのだ。
ランチを終え、オフィスに戻る道すがら、俺はスマホの画面を睨みつけていた。
画面には『天草ひより』の名前。
あの天草ひよりとランチをして、感謝され、連絡先まで交換した。
客観的に見れば、週末の絶望から一転、バラ色の展開かもしれない。
(……いや、舞い上がるなよ、俺)
俺は自分自身に冷水を浴びせるように言い聞かせた。
彼女は言ったのだ。『助けてもらえると心強い』と。
つまり、俺はただの「便利な盾」として認定されただけだ。
恋愛対象として見られたわけじゃない。人として好かれたわけでもない。
害虫駆除係としてスカウトされただけだ。
(美人の笑顔に絆されるな。どうせ女なんて、最初は愛想よくても、最後は裏切るんだ)
木曜日のLINEブロックの記憶が蘇る。
もう、あんな思いはごめんだ。
恋愛なんてコリゴリだ。
俺はただ、誰かに振り回されることなく、平穏に生きたいだけなんだから。
本日はここまでです。
明日から、毎日1話投稿しますのでぜひお付き合いください。
10万字以上書き貯めているので、ノンストップで行きます!




