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それっきりの席


午後のカフェは、静かだった。

豆を挽く低い音。カップが皿に触れる乾いた音。

壁際の時計の秒針だけが、微かに主張している。

空気は少し湿っていて、外の小雨の匂いと混ざる。

窓際の席に座る天雨(あまう) (はる)は、本を開いたまま、ほとんどページをめくっていなかった。なにか考え事をしていたわけでもない。ただただゆっくりとした時間を過ごしていた。

店内は少し混んでいた。それでも不思議と静かな空間だった。



夜音(よるね) 羽月(うづき)は、お気に入りの窓際の席を確かめてから、唯一の空いている席へ向かう。


「……ここ、いいですか」


晴は顔を上げ、一瞬だけ相手を見て、うなずいた。

短く、でも確かな返事。

それ以上の会話はなかった。

互いに視線も交わさない。

それでも居心地は悪くない。

無言が張りつめることもなく、ただ同じ空間にいる。

その感覚だけで、胸の奥が少しだけ落ち着いた。


羽月は、隣の人の存在を気にしていた。話しかけたいわけではない。

でも、確かめたい。この静けさを壊してもいいのかどうか。


「……この店、静かですね」


声は、小さく、慎重に。晴は一瞬目を瞬かせてから、答えた。


「そうですね。だから来ました」


それだけだった。言葉は少ない。

でも羽月の中には、何かが深く刻まれた。


しばらくして、晴は本を閉じ、立ち上がった。会計を済ませ、扉を押す。

琉依は横目で見ていただけで、引き留めることはしなかった。


「……じゃあ」


すれ違いざま、晴がそう言った。

羽月は反射的にうなずいた。


名前も知らない。連絡先もない。一度だけ、同じ席に座っただけだった。



その夜、羽月は眠れなかった。

あの席。あの人。窓から差し込む街灯の光も、部屋の影も、頭の中の景色に溶けてしまう。

理由はわからない。意味もない。それでも、思い出してしまう。


数日後、羽月は仕事帰りに、あのカフェへ寄った。特に期待していたわけじゃない。

ただ、あの席がまだあるか、確認したかった。


シャッターは下りていた。

貼り紙が一枚、端だけ少し浮いている。


閉店しました。


誰も座らない席。誰もいない。ただ、そこにあっただけだった。

胸の奥が沈む。空気が重い。音もない。

ただただ歩き出す。街も夜も、いつも通り。足音がアスファルトに吸われ、消えていく。


理由もわからないのに胸の奥がひどく痛い。手のひらがじんわり冷たくなる。

息も詰まるような感覚。何を失ったのか。何を求めていたのか。そもそも何も失ってないかもしれない。


通り過ぎる街灯。看板の光。誰かの笑い声。

すべてが、遠く、遠くに感じる。同じ世界にいるはずなのに。


それでも、街は動いている。自分のことなんか誰も見ていない。時間は進む。

仕事も、食事も、眠ることも、すべて淡々と繰り返される。

日常は平然としていて、残酷だ。幸せも悲しみも、誰かの胸の奥に閉じ込められ、世界は何も変わらない。


羽月は、理由もわからない絶望を抱えていた。

ただ痛みだけが、身体にじわりと広がる。前に進もうとしても、足は重く、頭は空っぽのままだった。


歩道の水たまりに映る街灯の光を見て、少しだけ涙が零れる。光が揺れるたびに、胸の奥の穴を広げる。誰もいない。空席だけが残る。

手を伸ばしても、触れられない。戻れない。何もかも、すり抜けていく。


——それきりの席だった。

——取り返すことも、戻ることも、できない。

——人生は、こんなものだ。


人生の残酷さを、言葉もなく教えられるように。

たった1度の、それきりの席。



その日、晴は別のカフェにいた。

席はぎりぎり埋まっていて、隣の椅子に人が座った。

「相席、いいですか」

晴は顔を上げ、少しだけ相手を見て、うなずいた。

「どうぞ」

カップが皿に触れる乾いた音。

——あ。

隣に座った、知らない人。無言でも、嫌じゃなかったこと。思い出す。

名前も、声も、もう思い出せない。そもそも名前ってきいたっけ。

ただ、隣に誰かがいたという感覚だけ。

晴はそれ以上考えなかった。

スマートフォンを手に取り、コーヒーを口に運ぶ。

今、隣にいる人は、あの日の人じゃない。まぁ別にいいか。

ああ、そんなこともあったな。

その程度の重さで、記憶は元の場所に戻った。

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