ごめんね、じゃないのに
天気が悪いのは嫌いじゃなかった。雨の音は、世界を少しだけ遠ざけてくれる。
灰色の空は、無理に元気でいなくていい理由になる。
天雨 晴は、そういう日々の中で生きていた。
生きている、というより、ただ続いているだけの時間。死にたい、と思うことはあった。
衝動的じゃない。今すぐ消えたいわけでもない。
ただ、生き続ける理由が、見当たらなかった。
そんな日常に、北風 琉依――ぜるくんが現れた。
出会いは、驚くほど普通だった。
理由も、きっかけも、思い出せない。
気づいたら話していて、気づいたら遊んでいる、それが日常になっていた。
それだけなのに、晴の世界はゆっくりと色を変え始めた。
「今日風ちょっと強いね、そっちは寒くない?」
ぜるくんの声、喋り方はいつもやわらかかった。
「無理してない?今日はここまでにしよっか」
通話をして、ゲームをして、どうでもいい話をして。
夜が、前より短く感じるようになった。
でも、朝が少しだけ怖くなった。
ぜるくんがいる生活は、確かに楽しくて、確かに明るかった。
そのせいで以前は安心できていたはずのどんよりした空気が心に穴を開けるようになった。
――こんな世界を、知ってしまったら。
もう、戻れない。
晴は、そう思ってしまった。
ぜるも、もともと強い人間じゃなかった。
夜になると理由もなく空虚になって、少しだけ、死にたいと思うことがあった。
でも晴と出会ってから。
通話が鳴る。名前を呼ばれる。それだけで、世界がちゃんと輪郭を持つ。
「今日も生きたね」
冗談みたいな言葉が本気になっていった。
晴の声を聞くと呼吸が楽になる。理由は分からない。
ただ、晴のやさしさの奥底に触れてしまった。誰にも見せていない、折れそうな部分。
そこに気づいてしまった瞬間、もう抜け出せなかった。
ぜるは晴のことが大好きだった。
でもそれは、恋、なんて軽い言葉じゃなかった。いないと、呼吸が浅くなる。声が聞けないだけで、不安になる。
――これは、依存だ。
ぜるは、薄々気づいていた。ダメだってわかっているのにやめられなかった。
晴も少しずつ、しかし確実に依存していった。
でもそれを言葉にすることはなかった。
私は言葉にできない。その言葉の重さを知っているから。
言ったら全部背負ってしまう。自分より相手を優先してしまう。
だから自分の気持ちは、飲み込んだ。いや、言えなかった。
ぜるくんが「話したい」って言ってくれることは、嬉しかった。
本当に、嬉しかった。
でも同時に、胸の奥が少しだけ痛んだ。
今日は、時間が取れない。今日は、疲れている。今日は、ひとりになりたい。
そんな日も、当然ある。そのたびに思ってしまう。
――断ったら、傷つくかな。
――また、ひとりにしてしまうかな。
「ごめんね」
それが、口癖になっていった。謝る必要なんてないのに。
ある日、通話を断られた夜。
はるはいつも通りだった。声も、言葉も、やわらかい。
でも、その奥にほんの少しだけ、疲れた色があった。
ぜるは、それを見逃さなかった。胸の奥が、ひどく冷える。
――あ。
その瞬間、すべてがつながった。
自分が「話したい」と言うたびに、はるを困らせてしまっていることに。
その想像だけで、吐き気がした。
――困らせてる。
――縛ってる。
――逃げ場を奪ってる。
事実かどうかなんてぜるには関係なかった。
ぜるの中で、それは確信になった。
このまま一緒にいたら、自分はもっと求めてしまう。
もっと話したくて、もっと時間が欲しくて、もっと晴を必要としてしまう。
そして、晴は何も言わずにそれを受け入れてしまう。だって、晴は本当に、誰よりも優しいから。
ーー自分もつらいはずなのに。
それが、どれだけ残酷か。
だから、
――自分が、離れるしかない。
晴のため。そう言い聞かせながら。
でも本当はこれ以上、自分が「いらない存在」になる瞬間を見るのが怖かった。
それがエゴだということもぜるは分かっていた。分かったうえで選んでしまった。
ある夜、ぜるは言った。
「俺さ、晴のところにいたらいけないと思う」
そんなことないよ、って晴は言ってくれるってわかってた。
嘘だよずっと一緒にいたいよ。俺のこと絶対忘れないで、仲良しだった時の証を消さないで。
ずるくて、身勝手で。それが本音だった。でもその時はそれを真っ直ぐ伝えられなかった。
だってまた、晴を困らせてしまうから。
「……ちょっとだけ、声聞きたくて」
ちょっと、なんて嘘だった。
通話がつながった瞬間、ぜるはもう泣いていた。離れたくなかった。大好きだった。でも自分で決めたことを取り消すわけにはいかなかった。
「……私も大好きだよ。本当に。」
やっと言えた。やっと分かり合えた。
それでも。
「一緒にいたら、だめになる」
ぜるは、終わりを選んだ。
「忘れないで。一生後悔して。」
ずるくて、ひどくて、わがままで、自分勝手な言葉。
そして晴も泣いていた。ぜるはそのことに嬉しくなってしまった。傷つけたくないって思ってるのに。泣いてくれてることが嬉しいなんて。
ちょっとだけのはずが、たくさん喋ってしまった。終わりたくないって言ってしまった。切りたくなかった。全部委ねてしまった。
ーーそして全てが終わった。
人生までもがもう終わってしまったような気がした。俺が全部我慢してたら、何も伝えてなかったら。後悔しか残らなかった。楽しい思い出も、全て辛い思い出になってしまった。
もし今日なにもなかったら。自分がいなくなるという決断をしていなかったら。
その想像だけが、頭を占める。自分の思う正しさは、正しくなかった。救いにならなかった。
だけどそうなることなんて分かっていた。本当に本当に、目の前が真っ暗になった。
あれ、部屋ってこんなにモノクロだったっけ。周りを照らしてくれていた光はもうなくなってしまった。
後悔して、後悔して、後悔した。
もっと言えばよかった。もっと伝えればよかった。
私はぜるくんのおかげで生きててもいいなと思えた。
でも、ぜるくんのいない世界で、どう生きればいいのか分からない。
それでも。
「……生きるから」
忘れられない人がいる。それは呪いであり、救いだった。
ぜるは、ずるくて優しいまま晴の中に残った。
晴は、自分がいた証をぜるに形として残した。
ーー本当にさよならしないといけなかったのかな。
二人の心にはぽっかりと広い穴があいた。それでも生きていけるのかな。
ごめんね。
二人の口癖だった。でも本当に伝えたかったのはそうじゃない。
「大好きだよ」「すっと仲良くしてようね」「今日もたくさん遊べて楽しかった!」「おはよう」「おやすみ」
ーーーーーーー「また明日」




