極彩色の忘却
久斗という実体が消滅したあとも、世界は彼の遺した「論理の毒」に侵され続けていた。巷には、久斗の筆致を、彼の声を、そして彼の狂気を模倣する「久斗ひさと」たちが雨後の筍のように現れた。彼らは自殺サイトのウイルスを介して思考を同期させ、現実を一つの巨大なカンバスとして蹂躙し始めたのである。
千歳は、そのすべてを憎んだ。
彼女にとっての久斗は、あの惨めな、弱々しい、そして自分を愛するがあまりに醜く歪んだ、ただ一人の男であったはずだ。
「……偽物を、一つ残らず消し去らなければならない」
千歳は、久斗の遺したナイフを手に、街に溢れる「久斗を自称する男たち」を追い始めた。それは凄惨な復讐劇であった。彼女はアトリエを訪れる模倣者たちの喉を、あのテレビ画面の再現のように切り裂いていく。だが、殺しても殺しても、新しい「久斗」が長崎の坂を上ってくるのだ。
ある夜、アトリエの扉を叩く音がした。
現れたのは、三良であった。しかし、その瞳にはかつての面影はなく、久斗と同じ、あの透徹した『ナルキッソス・ウイルス』の光が宿っていた。
「千歳さん、まだそんなことを続けているんですか。彼らも僕も、そしてあなたの中にいる久斗さんも、もう分け隔てなんてないのに」
「三良君、あなたまで……」
千歳がナイフを構える。だが、三良は微笑みながら、あのルネッサンス風のスケッチブックを広げた。そこには、三良の筆によって新しく描き足された、千歳の半身があった。
「見てください。実物のあなたは、今、復讐という醜い情熱に身を焦がしている。でも、この絵の中のあなたは、どうしてこんなに幸福そうなのでしょう? 写真よりも、鏡よりも、この絵こそが、あなたの『真実』だとは思いませんか?」
千歳の視線が、吸い込まれるようにカンバスに固定された。
三良の手が、優しく千歳の頬をなぞる。その指先には、久斗が愛用していた絵具と同じ香りが漂っていた。
「復讐を終える方法は、たった一つ。あなた自身が、最も美しいあなたの姿へと還ることです」
三良は久斗の役割を完全に引き継いだ。彼はもはや三良ではなく、千歳を永遠の美の中に閉じ込めるための「筆」そのものと化したのだ。千歳の目から、一筋の涙が零れ落ちる。それは現実の肉体が流した最後の「液状の感情」であった。
三良が、千歳の着ているドレスに、あの日スケッチされた「女装した僕」と同じ鮮やかな色彩を塗り重ねていく。筆が触れるたび、千歳の肉体は物質的な重みを失い、平面の、しかし永遠に朽ちることのない傑作の一部へと変容していった。
「千歳さんの彼氏の久斗ひさと君のスケッチブックを、誰かがいつか調べるでしょう。そこには、微笑みがちの、パーティーの最中を飛ぶような、幸福な女性の姿が描かれている。……実際には不幸を感じていたはずの彼女が、何故こんなに笑っているのか、誰も理解できないままに」
三良もまた、自らの胸元に筆を突き立てた。
溢れ出したのは、純白のジンク・ホワイトであった。
二人は、アトリエという名の墓標の中で、一枚の巨大なカンバスに溶け合っていった。
外の世界では、相変わらず「久斗ひさと」を自称する男たちが溢れ、ウイルスが論理を書き換え続けている。しかし、このアトリエの額縁の中だけは、誰も侵すことのできない、静謐で、残酷なまでに美しいルネッサンスの静寂が、永遠に続いていくのである。
ーーー「もう一人はいたかも知れません」
その囁きを最後に、長崎のアトリエからは一切の物音が消え、ただ潮風に吹かれる未完成のキャンバスだけが、誰のものでもない色彩を放ち続けていた。
(了)




