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鏡像の楽園



 アトリエの空気はもはや、呼吸を拒むほどに絵具の溶剤と死の予感で満たされていた。久斗の制作は狂熱を帯び、彼はもはや食事も睡眠も摂らず、ただ『ナルキッソス・ウイルス』が網膜に映し出す聖なる幻影を追い続けていた。

「三良君、もう少し……あと数ミリだけ、左の口角を吊り上げてくれ。絶望と歓喜の、ちょうど中間に位置するその絶妙な筋肉の弛緩が、僕の救いなんだ」

久斗の声は掠れ、その身体は着古したパレットのように汚れきっていたが、瞳だけは硝子細工のような光を放っている。対照的に、モデル台の三良は、自分という存在が久斗の筆によって少しずつ削り取られ、カンバスへと移し替えられていくような奇妙な剥離感に襲われていた。


 ある夜、久斗が「テレビ出演の準備がある」とアトリエを空けた隙に、三良は禁じられていた久斗の机に近づいた。そこには、一冊の古いスケッチブックが横たわっている。

三良がそのページめくった瞬間、心臓が凍りつくような衝撃が走った。

「これは……」

 そこには、千歳の肖像が描かれていた。しかし、現実の彼女がたたえている惨めな歪みや、呪詛のような暗い表情はどこにもない。ルネッサンスの巨匠が描いた聖母のように、柔和で、幸福に満ちた微笑を浮かべる千歳。さらに異様なのは、その隣に描かれた「人物」であった。

 千歳と同じ意匠のドレスをまとい、同じ色彩のヴェールを被った、女装した男。

 それは久斗自身であるようにも見え、あるいは孔明のようにも、そして三良自身の鏡像のようにも見えた。絵の中の「僕」は、千歳と手を携え、重力から解放されたかのように画面を舞っている。

「……見てしまったのね」

 背後から、千歳の氷のような声が響いた。

 三良が振り返ると、彼女は暗闇の中で、スケッチブックの中の聖母とは似ても似つかぬ、深い虚無を湛えた瞳で立っていた。

「その絵を描いたのは、今テレビに出ている『久斗ひさと』ではないわ」

「どういう意味です? 久斗さんは今、テレビ局へ……」

 アトリエに置かれた古びた小型テレビが、ノイズと共に光を放った。

 画面の中には、端正なスーツを纏い、冷静な口調で「視神経変容性ウイルスの論理的必然」について語る久斗ひさとの姿があった。何百万人という視聴者の前で、彼は自らがウイルスに感染し、その結果として「真の美」に到達したことを、神学者のような理知的な言葉で説いていた。

 三良は、画面の中の男と、先ほどまでここで筆を振るっていた男を交互に思い描き、戦慄した。

「……違う。何かが決定的に違う」

 画面の中の久斗は、右の手首をいじる癖がある。だが、アトリエで三良を執拗に描き続けていたあの男は、決してそんな仕草は見せなかった。筆を握る指の胼胝たこの位置、色彩を語る際の声の揺らぎーー。

「千歳さん、彼等はいつから二人いたんですか? いや、それとも……」

 三良の脳裏に、スケッチブックの「女装した僕」が蘇る。

もし、このアトリエで狂気を演じている男こそが、本物の久斗が作り出した「最高傑作」という名の偽装者だったとしたら。あるいは、テレビで理性を演じている男こそが、汚濁を切り捨てたあとの「殻」に過ぎないのだとしたら。

「あの絵を見て」と千歳が、完成間近の巨大なカンバスを指差した。

「描き込まれている私の半身は、写真のように精緻でしょう? でも、その隣の空白を見て。そこには最初から、あなたでも孔明さんでもない、『存在しない三人目』が座るはずだったのよ」

 その時、アトリエの階段を上る、重く規則正しい足音が聞こえ始めた。

 テレビの中の久斗が、不敵な笑みを浮かべて「私は今から、あることを自ら証明してみせます」と宣言した、その瞬間であった。扉が、断末魔のような軋みを上げて開かれた。

 逆光の中に立っていたのは、テレビ画面の中で理知的な毒を撒き散らしていたはずの「久斗ひさと」であった。いや、正確には、その男の「形」をした何かであった。

 三良は、手元のスケッチブックと、入り口に立つ男、そして背後のテレビ画面を交互に見やり、呼吸を忘れた。画面の中の久斗は、今まさに、全視聴者に向けて「個の境界が崩壊する瞬間」を説いている。それと同時に、目の前に現れた男は、一歩、また一歩と、三良と千歳の方へ歩み寄ってくる。

「……君か、三良君」

 その声は、テレビから流れる声と寸分違わぬはずなのに、アトリエの湿度を吸って、ひどく不明瞭に響いた。男の手には、先ほどまでの絵具の汚れはなく、死者のように白く、無機質に洗われていた。

「テレビの君は、誰だ」

三良は震える声で問いかけた。

「あれも僕だ。そしてここにいるのも僕だ」

 男は、イーゼルの前に戻り、狂熱に浮かされたように再び筆を握った。

「論理的に考えてみたまえ。ウイルスが視神経を侵し、世界を完璧な美へと変換するなら、その視点を持つ『主体』すらも、美の均衡を保つために複製され、あるいは統合されるべきではないか?」

 男の視線は三良を通り越し、背後の千歳へ、そして描きかけのカンバスへと注がれた。その瞬間、テレビ画面から激しいノイズが走った。

「見ていろ。これが『証明』だ」

 画面の中の久斗が、懐から一振りの剃刀かみそりを取り出した。スタジオに悲鳴が響き渡る。だが、画面の中の彼は、微笑を浮かべたまま、自分の喉元をなぞるのではない。彼は、スタジオの背景に飾られていた、自らの「傑作」と呼ばれた肖像画の、その喉元を鮮やかに切り裂いたのだ。

 その瞬間、目の前のアトリエに立つ男の喉から、鮮血が噴き出した。

「なっ……!」

三良が駆け寄ろうとしたが、千歳の氷のような手がそれを制した。

「見て。……あれは肉体じゃないわ」

 切り裂かれた「久斗」の喉から溢れ出したのは、赤黒い血液ではなかった。それは、原色のままの油絵具――カドミウム・レッドが、ドロリと床に零れ落ち、三良の靴を汚していく。

 目の前の男は、苦痛に顔を歪めることさえなく、喉から絵具を流しながら、恍惚として描きかけのカンバスに最後の一筆を入れようとしていた。

「三人目は、いたんですよ……千歳さん」

 三良は、喉の絵具をパレット代わりにし、自らの存在を削りながら絵を完成させようとする「怪物」の正体に気づいた。

「久斗ひさとは、ウイルスによって脳を破壊される前に、自らを『情報』として、そして『芸術』として完全に複製したんだ。ネットの海に漂うウイルスそのものが、彼の意識の欠片ピースだ。テレビに映っているのも、ここにいるのも、孔明さんを殺そうとしたのも、全部……彼が描いた『生きた絵』に過ぎない」

 アトリエの男は、最後に三良の方を向き、女装したスケッチの中の人物と同じ、穏やかな、そしてこの世の終わりを告げるような幸福な微笑を浮かべた。

「孔明は、僕になれなかった。三良君、君はどうかな」

男の身体が、まるで乾燥した絵具が剥がれ落ちるように、カサブタ状になって床に崩れ落ちていく。後には、久斗ひさとをかたどっていた衣服と、夥しい量の乾きかけの絵具だけが残された。

 テレビの画面は、真っ白な砂嵐に変わっていた。

 完全な静寂が訪れたアトリエで、千歳がゆっくりとスケッチブックを開く。そこには、三良の顔が、久斗の筆致によって、既に「死者」としての完璧な美しさを与えられて描き込まれていた。





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