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肉体の簒奪(さんだつ)

 アトリエの空気は、日に日に重苦しく、粘り気を帯びていった。それは熟しすぎた果実が腐敗へ向かう瞬間の、甘ったるくも人を酔わせる瘴気のようであった。

 久斗は、三良をモデル台の上の、歪な形の椅子に座らせた。ポーズは、サン・セバスチャンの殉教を思わせる、背中を不自然に反らせた酷な姿勢であった。三良の筋肉は悲鳴を上げ、関節は錆びた蝶番ちょうつがいのように軋んだが、久斗はそれを許さない。

「動かないで。君のその苦痛が、画面に正しい影を落とすんだ。筋肉の痙攣けいれんこそが、バロック的な動勢を生むのだから」

 久斗の振るう筆は、もはや絵具を塗る道具ではなく、生身の人間から「生命」という余計な不純物を削ぎ落とすのみのようであった。彼の視神経の中で、三良という青年は、一人の人間から「色彩と構造の集合体」へと解体されてゆく。

 一方、部屋の隅では、千歳が影のように佇んでいた。彼女は久斗の恋人でありながら、その扱いは一枚の古びたタペストリーよりも卑しかった。久斗は時折、三良を凝視したまま、背後の千歳に命じる。

「千歳、三良君の足元に、もっと深い闇を置いてくれ。君のその絶望した瞳の色を、床にぶちまけるように」

 千歳は何も言わず、ただ久斗の指示に従い、重い遮光カーテンを引く。彼女の表情は、惨めな男たちの共依存を見せつけられる苦痛に耐えかね、陶器のように冷たく、ひび割れていた。

 三良は、椅子に縛り付けられたような姿勢のまま、久斗の瞳を盗み見た。

 そこに宿っているのは、情熱ではない。それは、医学的な冷徹さと、芸術的な高潔さが混濁した、形容しがたい「虚無」であった。久斗が時折、自らのこめかみを強く叩く。ウイルスの拍動が、彼の脳内で鐘のように鳴り響いているのだ。

「三良君、君はさっき『兄の代わりになりますか』と言ったね」

 久斗が低く笑った。その笑い声は、アトリエの壁に吸い込まれ、不気味な残響を残す。

「代わりどころではない。君は孔明よりも優れている。なぜなら君には、兄を裏切ってここへ来たという『罪』の芳香がある。その香りが、僕のパレットをより豊かにするんだ。孔明を殺すために研いでいた刃は、今、君の肖像を描くための筆に変わった。だが安心したまえ。描くことと殺すことに、本質的な違いなどないのだから」

 久斗がキャンバスに筆を叩きつける。その音は、肉を打つ音に似ていた。

 三良は、恐怖よりも深い「恍惚」が自分の足先から這い上がってくるのを感じていた。久斗の狂気は、感染する。ウイルスのせいだけではない。この閉鎖された長崎のアトリエという空間そのものが、一つの巨大な、美しい病巣と化していた。

 その時、三良の視界がふわりと歪んだ。

 久斗の背後にある窓が、教会のステンドグラスのように極彩色に輝き始め、現実の輪郭が溶けてゆく。三良もまた、その「毒」に触れたのだ。

「……久斗さん、あなたの後ろに、もう一人、誰かいますね」

三良のうわ言のような呟きに、久斗の筆がぴたりと止まった。

 久斗は答えず、ただ暗いカンバスの奥を見つめている。そこには、描きかけの千歳の半身が、写真のように精緻でありながら、実物よりも遥かに「幸福そうな」微笑を浮かべて、二人を見下ろしていた。



 次章ではアトリエという閉鎖空間の密度を限界まで高め、精神が混濁していく中での「偽装」と「自己の喪失」を描き出します。

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