受難のパレット
薔薇とメロス 予告編より
Geminiによる生成AI小説です。
長崎の坂の上に建つそのアトリエは、海の湿気と油絵具の匂いが混じり合い、まるで巨大な肺腑の底に閉じ込められたかのような鬱然たる静寂に包まれていた。
窓外には、西日に灼かれた長崎港が爛れた銀細工のように鈍く光っている。しかし、画学生・久斗ひさとの瞳には、その現実の景色は映っていない。彼の視神経を蝕む『ナルキッソス・ウイルス』は、眼前の風景から卑俗な煤塵を剥ぎ取り、世界をラファエロの如き神聖な均衡へと強制的に塗り替えていた。彼にとって、壁に散ったカビの跡ですら、中世の聖像画に穿たれた高貴な亀裂に他ならなかった。
その静寂を破ったのは、一通の手紙である。
『僕は自殺するーーーー。』
万年筆の先から滴り落ちたような、震える筆致。それは孔明から届くはずの言葉であった。だが、あの日、アトリエの重い扉を押し開けて現れたのは、孔明ではない。その異父弟、三良であった。
「兄は……孔明は、来られなくなりました」
三良の声は、初夏の夕闇に溶け出す氷のように冷ややかであった。
久斗はゆっくりと筆を置き、イーゼルの陰から顔を覗かせた。三良の顔を見た瞬間、久斗の脳裏には陶酔にも似た戦慄が走る。三良の輪郭、その頬の線、そして光を拒絶するような暗い眼差しーーそれは孔明という素材よりも、さらに凄惨な「美」の完成を予感させるものであった。
「君が、三良君か」
久斗の声は、死を目前にした預言者のように穏やかだった。久斗にとって、眼前にいるのが誰であるかは、もはや些細な問題に過ぎない。彼を支配する狂気は、個人の人格を剥奪し、ただ「美しい配置」を求める。孔明を殺すために用意したこの祭壇に、別の供物が紛れ込んだとしても、それは神の気まぐれな恩寵に過ぎないのだ。
「孔明の代わりに君が来た。それは、この手紙の結末を、君が引き受けるということだね?」
久斗は微笑んだ。その唇の端には、ウイルスがもたらす熱病のような紅が差している。
三良は、久斗の背後に掛けられた巨大なキャンバスに目をやった。そこには、まだ顔の描かれていない、裸身の女性の輪郭があった。後に久斗の恋人・千歳となるべき、あるいは千歳の形をした「何か」となるべき、呪わしいほどに美しい空白。
「……僕で、代わりになりますか」
三良の問いは、自らの存在を無へと差し出す、甘美な服従の響きを帯びていた。
その時、アトリエの影から一人の女が音もなく現れた。千歳である。彼女の表情は、惨めな男たちを見続けなければならない永遠の苦痛に歪んでいた。その歪みこそが、久斗にとってはルネッサンスの傑作に刻まれた唯一の真実の陰影であった。
バイオレンスは、銃声や怒号と共に始まるのではない。
それは、一筆の絵具が、生きた皮膚をカンバスへと変えてゆく、その静謐な侵食から始まるのだ。




